第2話:アナザーワールド・ロストへようこそ
VRゴーグルを起動した弘人の視界は、深い暗闇に包まれるが、すぐに視界の端からゆっくりと光が差し込み、暗闇は徐々に明るさを増していく。
そして完全に光に満たされた後、弘人は自分が果てしなく続く真っ白な空間に立っていることに気がついた。
『アナザーワールド・ロストへようこそ』
目の前に半透明のウィンドウが浮かび上がり、そこに文字が表示される。それと同時に、女性の柔らかく心地よい声が弘人の耳に届いた。
「あ、はい」
VRMMOどころか、本格的なVRゲームすらプレイしたことがない弘人は、システム音声に対して思わず生返事をしてしまった。
誰もいない空間で一人呟いたことに気づき、微かな気恥ずかしさが込み上げてくる。
『返答ありがとうございます。VRMMOは初めてですか?』
「うわっ!?」
突然、弘人の視界の上部から、逆さまになった女性がニュッと顔を出した。予想外の出来事に、弘人は思わず悲鳴を上げながら大きく身を引いた。
「ふふっ、良い反応をありがとうございます!」
女性は楽しげに鈴を転がすような声で笑うと、空中で軽やかにくるりと一回転し、ふわりと弘人の目の前に降り立った。重力を完全に無視したその動きは、ここが現実ではない仮想空間であることを明確に示している。
しかし、着地した瞬間に微かに揺れた彼女の髪や、ふわりと広がってからゆっくりと落ち着いた衣服の裾の動きは、あまりにも自然で現実的だった。
艶やかな黒髪のロングヘアが、真っ白な空間によく映えている。身長は弘人より少し低い、百六十センチ強といったところだろうか。童顔寄りの小悪魔的な可愛らしい顔立ちをしており、怪しげな輝きを放つアメジストの瞳が、興味深そうに弘人を観察していた。
そして何より弘人の目を引いたのは、彼女の抜群のスタイルだった。特に胸元が大きく開いた、ボディラインを強調するようなタイトな衣装は、思わず目のやり場に困ってしまうほどに扇情的だ。
「初めまして、柊弘人様。私はこの『アナザーワールド・ロスト』のゲームマスターを務めております、ルトと申します」
「ど、どうも……」
「ふふっ、驚かれていますね? 当ゲームの没入感は、既存のVRMMOとは一線を画すものですから」
ルトは小悪魔のような笑みを浮かべ、弘人の顔を下から覗き込むように顔を近づけてきた。
(ち、近い……)
相手がゲームのキャラクターだと頭では分かっていても、肌の質感や微かな息遣いまで感じられそうなほどのリアリティがある。
いや、ゲームだからこそ許されるような完璧な造形の美少女からの不意の接近に、弘人は激しく戸惑った。
加えて言えば、少しでも油断すると視線が彼女の豊かな胸元に吸い込まれそうになるため、とにかく視線を下げないように必死で抵抗しなければならなかった。
「ふふ」
そんな弘人の戸惑う様子を見て満足したのか、ルトは一歩後ろに下がると、コホンと可愛らしく咳払いをした。
「さて、早速ですが、今回のクローズドβテストの目的についてご説明させていただきますね」
「あ、はい。お願いします」
弘人が居住まいを正すと、ルトはスッと人差し指を立てて説明を始めた。
「今回のテストのメインは、『AIによって限りなく心を持ったように見えるNPCと交流しながら冒険をする』ことです。プレイヤー同士の交流や対人戦などは、今後のオープンβテスト以降で実装される予定となっています」
「NPCと交流……」
「はい。ただのプログラムではなく、まるで本当に生きているかのように考え、感情を持つNPC。それが『アナザーワールド・ロスト』の最大の魅力です」
「えっと、NPCと交流する……だけ?」
タイトルからして、壮大なストーリーが用意されたアドベンチャータイプのVRMMOだと思っていた弘人は、少し拍子抜けした。
ルトの説明から判断すると、クローズドβテストは、高度なAIを搭載したNPCの検証をするテストだけいうことになる。
すぐに飽きてしまう気がするのだが。
そんな弘人の顔に浮かんだ疑念を読み取ったのか、ルトは首を横に振りながら補足した。
「もちろん、それだけではありませんよ。魔物と戦うダンジョンを用意していますし、武器やアイテムを作るクラフト要素もすでに実装しています。メインストーリー自体はクローズドβテストでは導入していませんが、ゲームシステムは一通り試せるのでご安心ください。また、ストーリーがない代わりに、私の方でテストして欲しいこと……タスクを依頼するので、是非挑戦していただけると嬉しいです。……パートナーとなるNPCと一緒に、ね」
「パートナーっていうのは?」
「それは後ほど説明しますね。決して弘人様を飽きさせないと保証しましょう。それこそ、現実に戻りたくないと思えるほどに……ね」
その瞬間、弘人はゾクリと背筋が強張るのを感じた。
ルトの瞳が妖しく細められ、まるで罠にかかった獲物を絶対に見逃さない捕食者のような気配を漂わせたからだ。
(まあ、そこまで面白いと思えるなら、それはそれでいいけど)
現実の学校生活は退屈で、家にいても大してやることはない。周囲から浮いている自分にとって、居心地の良い場所など現実には存在しなかった。もし、この「アナザーワールド・ロスト」という世界に心からハマれるのなら、それは弘人にとってむしろ歓迎すべきことだった。
だからこそ、弘人は少しだけ挑むような気持ちで口にした。
「それは……楽しみです」
その言葉を聞いたルトは「フフ」と小さく笑うと、パン、と目の前で手を叩いた。
すると、先ほどまでの獲物を狙うような雰囲気は綺麗さっぱりと消え失せ、再び愛らしい営業用の笑みを浮かべた。
「では、次にアバターの作成に移りましょう」
ルトが指を鳴らすと、何もない真っ白な空間に、男性のアバターが出現する。
少し天然パーマがかかった黒髪に、特に目を引く特徴もない平凡な少年。現実の弘人そのままの姿だった。
「当ゲームでは、より深い没入感を得ていただくため、現実のプレイヤーの姿をそのままモデルとして使用します。もちろん、髪型や目の色など、多少のカスタマイズは可能ですし、1からアバターを作成することもできますが……どうされますか?」
(自分をモデルに……か。どうせなら、全くの自分にしたいような)
せっかくVRMMOをするのに今の自分のままというのは、あまり面白くない。どうせなら、ゲームくらい違う自分になりたい。
「どうせなら1からアバターを作成したいかな」
「……承知いたしました。それでは、アバターの作成や調整は別途専用の時間がありますので、その時にお願いします。一旦は、現実の弘人様をモデルにしたアバターでお願いします」
「あ、はい」
妙な間があったことと、ここですぐに作成できないことに少し疑問を感じながらも、弘人はルトの言葉に頷く。
視界が再び暗転し、次に目を開けた時、弘人は見知らぬ部屋の中に立っていた。
「ここは……?」
「あなた専用の『マイルーム』です」
隣に立つルトの声が響く。部屋の中には、全体的にシンプルな白色で統一されている。何も入れられていない本棚や、ゴミ箱、テーブル、椅子、そして調理用のキッチンに冷蔵庫などが置かれている。
生活するために必要なものは、一通り置かれているのかもしれない。
弘人は近くにあったテーブルを指先で撫でてみた。
「……っ」
思わず息を呑む。ツルツルとした感触とひんやりとした温度が、指先からリアルに伝わってくるのだ。
「すごい……本当に現実みたいだ」
「ええ。ここを拠点として、冒険を進めることで家具や装飾品を手に入れ、自由にカスタマイズしていくことができます」
ルトは部屋の中央を歩きながら、くるりと振り返った。
「さて、本拠地の確認も済んだところで……いよいよ、このゲームの醍醐味に移りましょうか」
「醍醐味?」
「はい。先ほど申し上げた『心を持ったように見えるNPC』……あなたと共に冒険し、戦い、そして絆を深めていく『パートナー』を決めていただきます」
ルトのアメジストの瞳が、再び妖しく光ったような気がした。
「パートナー……どうやって決めるんですか? まさか……ガチャとか言わないよな?」
基本無料と謳いながら、極悪な確率のガチャで集金する昨今のゲーム事情が脳裏をよぎる。
そんな弘人の問いに対し、ルトは艶やかな唇に笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。そんな、お金で気に入ったキャラが出るまで繰り返せるような無粋な方法ではありません。あなたには、運命の出会いを果たしていただきます」
「運命の出会い?」
「ええ。あなた自身の魂が惹かれ合う存在との出会いです。そのため、ガチャのようにお金で繰り返すこともできないですし、リセットしてやり直すこともできないです」
ルトが両手を広げると、弘人の足元を中心にして、眩い光を放つ複雑な幾何学模様の魔法陣が浮かび上がった。
「ついでにゲームのチュートリアルも兼ねていますので、是非楽しんできてください」
「ちょっ!? これどうなるの!?」
足元から溢れ出す柔らかい青白い光に包まれ、突然の事態に慌ててルトに確認する弘人。しかし、ルトはその質問には直接答えなかった。
その代わり、光の中に溶けていく弘人に向けて、意味深な言葉を投げかけた。
「最後にアドバイスですが……自分にとっての『強み』を残すことをおすすめします。強制はしませんけどね」
その言葉を最後に、ルトの姿が視界から完全に消え去った。
正確に言えば、弘人のアバターが、マイルームから別の場所へと強制的に転移させられたのだった。




