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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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第9話 勇者は、この国の光である

「勇者は、この国の光である」


大司教の声が、証拠の前で止まった。


王都大聖堂。正面祭壇、蝋燭の列、聖歌隊の気配が引いた朝の儀式。王、宰相、王妃、貴族議会の主立った顔、教会幹部、市民代表。祭壇前の絨毯の上にレオハルトが跪き、銀糸の儀装をまとっていた。聖女の装束のアンゼリカが一歩後ろに控えている。


勇者認定更新の儀。


三年に一度、勇者の地位を王と教会の両名の承認で再び確認する儀式。本来なら宣言、読み上げ、授与と淡々と進むはずのもの。


大司教クレメンスが両手を胸の前で組み、厳かに口を開く。


「勇者レオハルト・フォン・ブランデンブルクに、王国の光たる地位を──」


そこで、声が、止まった。


祭壇脇の階段を、上がってくる靴音があったからだった。



クラウス・フォン・ヴァイデンフェルト。


黒い略礼装。両手で、革表紙の帳簿を抱えていた。厚い。見るからに重い。


「大司教猊下」


クラウスは深くはない礼をした。


「宣誓の前に、王と議会にお示ししたい帳簿がございます。──ご容赦いただけますか」


大司教の顔色が、わずかに、変わった。


ほんの一瞬。目尻の皺が、先に反応していた。それを見た議員席の何人かが、手元の資料をそっと置き直した。


「──儀式の最中である」


「左様ですが、この帳簿の公開を後に回せば、儀式そのものの正統性がのちに問われる性質のものです」


低く、静かに。詰めすぎず、けれど退かない。クラウスの口調は、そういう種類の引き方をする者の口調だった。


王が、片手を上げた。


「進めよ、ヴァイデンフェルト卿」


大聖堂の石天井に、王の一声が吸い込まれる。大司教は何か言いかけて、飲み込んだ。



二階席。


私はそこにいた。


隣にヴェルナー。一歩離れた後ろにライナ。兄ラインハルトは一階の議員席の列に、書類係の肩書きで紛れていた。


階下のクラウスが、祭壇脇の机に帳簿を置く。開く。頁の端が、蝋燭の光で揺れた。


「──大司教クレメンス猊下、私邸執事長殿のご証言に基づき複写のうえ入手、並びに原本照合済みの献金帳簿でございます」


議場が、一度、息を止めた。


「アデル侯爵家ご当主より、過去二十年にわたる定期献金。用途欄には、勇者認定、聖女認定、両認定に係る審査優遇、と」


議場のざわめきが、一段、深くなった。


大司教が、祭壇前で一歩、後ずさった。儀装の裾が石の上で擦れて、小さな音を立てた。


「言いがかりを──」


「執事長殿が、猊下のご自宅にて毎年末、ご自身の手でこの帳簿に加筆されていたご様子を、証言されております」


クラウスは次の一枚を見せる。


差出人欄に、大司教の筆跡。


「猊下のお筆でございます」



ラインハルトが、一階の議員席から立ち上がった。


「続きまして、当家の妹エヴァ・ローゼンクランツの三年分の北方遠征補給計画書、原本一式を、ご提示いたします」


兄は、声を張らなかった。


あの穏やかで、いつも薬草の名前を覚えていた頃のままの、落ち着いた声のまま。


三年分の紙束。議員の一人、また一人、手に取って頁をめくる。糧食の配分表。矢の本数。兵卒の名と、備考。


「『妻の出産近し』──とありますな」


年かさの議員が、眼鏡を押し上げて呟いた。


「『故郷に弟あり』。『肩の古傷、雨の日に疼く』。──副長殿は、兵卒一人ずつの事情まで」


別の議員が、隣の議員に頁を差し向ける。


「……これを、子供の工作と」


声は続かなかった。


議員たちの手が頁をめくっていく音だけが、大聖堂の中央にしばらく残った。


アンゼリカが、祭壇の一歩後ろで、扇子を口元に当てたまま固まっていた。



王が、ようやく口を開いた。


「大司教クレメンス」


「……はい」


「この帳簿の真偽について、答えよ」


大司教の唇が、動いた。何か形になる前に、また閉じた。


「答えよ」


もう一度。今度は王の声が低くなった。


「──陛下」


大司教が、両手を胸の前で組み直したが、その手は震えていた。


「……此度の儀を、一度、中断することを、お許しいただきたく」


それが、答えだった。


王の片手が、もう一度、動いた。


「教会の自治に、王は介入しない。しかし、王国の勇者認定については、王の承認が要る。──本日の勇者認定更新は、見送る」


議場が息を呑んだ。


「勇者認定、一時保留。聖女認定、同じく一時保留。両認定に係る審査過程の再調査を、王命として発する。──ヴァイデンフェルト卿と、ローゼンクランツ卿に、合同調査の任を命ずる」


蝋燭の炎が、ひとつ、揺れた。



祭壇の上で、レオハルトは、まだ跪いていた。


その腰の、儀装用の剣。


鞘のない、銀の刃。儀式の間中、勇者の地位を象徴する紋章が淡い光を帯びるはずの場所。


──その紋章から、光が、失せた。


じわりと消えたのではない。ふっ、と、燭台の火を手で覆ったような消え方だった。


レオハルトの手が、剣を掴みに行った。


掴んでも、もう光らない。掴み直しても、光らない。


彼の肩が、一度、大きく上下した。


誰かの悲鳴のような息が、彼自身の喉から漏れた。


(……紋章は、認定の間しか光らない)


(あの光は、彼の中にあったものではなかった)


(──貸し出されていた、光だった)


見ていて、少しだけ胸の奥が重くなった。


それは気の毒だから、という感情ではなかった。ただ、あれほどの大きさのものを一度貸し与えて一度に取り上げてしまう制度の、冷たさの話だった。



二階席で、私の左手の隣、胸壁に置かれた手の方へ、ヴェルナーの手がゆっくり寄せられた。


触れた。


彼の手は硬かった。剣胼胝と、鉄を叩く胼胝。温度だけが、思ったより高かった。


私は、握り返した。


握り返したということを人目に晒すことへの遠慮は、不思議となかった。議場の下を見れば、視線のいくつかはこちらに気づいていた。それでも、気にしなかった。


気にしないと決めたのではなく、気にする余地が今夜の胸の中には、もう残っていなかった。



アンゼリカが、祭壇前の絨毯の上で、片膝をついた。


扇子が、床に落ちた。


聖歌隊の控え室へ続く扉から、修道女が二人、走り寄ってくる。アンゼリカを支えて、奥へ連れていく。その途中で、彼女の視線が一度、二階席の方へ上がった。


目が合った。


彼女の唇が、何か動いた。


私には、読めなかった。読まなくてよい、と思った。



儀式終了の鐘が鳴らないまま、人々が祭壇前から引いていった。


私とヴェルナーが二階席の階段を降りると、扉の外、大聖堂の玄関広間に兄とクラウスが並んで立っていた。


「エヴァ」


兄が、穏やかに名を呼んだ。


「兄様」


「昔から、自慢の妹だったんだ」


「……」


「俺が外で喧嘩をして帰ってくる度に、お前が薬草を選び分けて、湿布を作ってくれていただろう。──今日、見ていてあのときの手つきと少し似ていると思った」


「兄様、私、泣かないと決めて来たのですが」


「泣いてよいのだぞ」


「後ほど、致しますわ」


兄が、笑った。


隣でクラウスが、目尻だけで笑った。


「知っていましたよ。十五年前から」


「えっ」


「ラインハルト卿が、よく自慢していました。──『うちの妹は、薬草の名前を覚えるのが速い』と」


私は、兄の横顔を見た。


兄は、知らん顔で、広間の床の方を見ていた。


(……兄様)


ヴェルナーが私の隣で、ほんの少しだけ息を吐いた。


笑った、気がした。



大聖堂の外では、王都の朝の光。


石畳の向こうで、新聞売りが、いつもの倍の早口で声を張り上げていた。


見出しは、もう差し替えられていた。


『勇者認定、保留。──教会大司教、帳簿提出を拒む』


その新聞の下に、別の見出し。


『新勇者認定の合同調査、北方辺境伯家と砦商会の連合に、王命で付託』


私は、見出しを黙読して、兄の背に向けて言った。


「──兄様、砦に、帰ります」


「ああ」


「書類が、まだ、山ほどありますの」


「知っている」


ヴェルナーが、私の横で、短く頷いた。


王都の風が、一度、通っていった。

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