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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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第8話 記録にはない、と言われました

「記録にはない、と言われました」


使者の声が、真実の扉を叩いた。


オルトハイム砦、東棟の書庫。ゴードン商会が手配してくれた調査員が、砂ぼこりのついた地図を机に広げて頭を下げた。


「隣国カルネギアの、国境警備隊、戦史記録の複写。三年前の春、カイス峡谷の戦闘報告まで。──ここまでは入手いたしました」


「ご苦労さまです」


「ただ、我が国側の同戦闘の記録を銀盾閣下にお尋ねしたところ、『記録にはない』とのみ。撤退時の負傷者名簿にも、あなた様のお名前は、載っておりません」


(……載っていない)


私は息を一つだけ長く吸った。


三年前の春、私は北方遠征の帰途、カイス峡谷で負傷した。右腕と肩、深めの刀創。治るのに二月かかった。それなのに勇者パーティの公式負傷名簿には、私の名はない。


どうして気づかなかったのかと問われれば、あのときはそもそも名簿を確かめる余裕も、確かめるべきだという発想もなかった。治して、また机に向かえればそれで済む話だったから。


「こちらの、カルネギアの戦史のほう」


「はい」


「もし、『敵の副長を庇った』という記述が、どこかにあれば──」


調査員はためらった。余計な推測を挟まない職人気質の人なのは、前の仕事でも分かっていた。それでも彼は、一枚の羊皮紙の、欄外の書き込みを指した。


「『本官、負傷多数。敵副長救出の記録、記載省略。傭兵団長H、左眼喪失、前線離脱』──と」


短い、書き足しのような一行。


私は、その一行を、指で辿った。



ライナが医務室の古い帳面を持ってきてくれた。三年前の春、私を看た僧侶の記録。


「『カイス峡谷帰還時、右腕上腕、並びに右肩に深めの刀創。出血多。後送の経緯、不明瞭』」


「後送の、経緯、不明瞭」


「どなたかが、戦線のただ中で、エヴァ様を後方へ運ばれたのです。けれどその人の名が、名簿にも送り状にもどこにも」


ライナの指先が、古い帳面の罫線を撫でた。


「消された、わけでは、ないと思いますわ。──最初から、書かれなかった。書く暇がなかった、書く身分がなかった、書く理由を本人が望まなかった。そのどれかでしょうね」


私は帳面を閉じた。


胸の奥に、何かがゆっくり落ちていった。痛みとは少し違う。ほっとしたのでもない。ただ、ずっと置き忘れていた手帳の、最後の頁をようやく開いた心地。


三年前、私を運んだ人の名前が、今この砦で馬の蹄鉄を直している。



夜、屋上へ上がった。


月は薄かった。胸壁のあたりに、冷たい風がひとつ渡っていた。彼はそこにいた。先日と同じ場所。左手を降ろし、今夜は目の脇を覆ってはいなかった。


「ヴェルナー殿」


「……エヴァ」


「少し、お時間を頂戴してもよろしいですか」


彼は短く顎を引いた。


私は胸壁のそばまで歩いて、彼の隣に並んで立った。座ろうとはしなかった。座ると、出てこない言葉があると思った。


三年前。カイス峡谷。カルネギア傭兵団。左眼喪失。前線離脱。


頭の中で、並べ直した順番通り、言葉を出す。


「ヴェルナー殿」


「ん」


「あなたの左目は、私のせいですか」


風の音がひとつ、遠くを通っていった。


彼は、すぐには答えなかった。


月に薄い雲がかかって、顔の半分が影になる。隻眼は、じっと、砦の外の闇を見ていた。


それから、ゆっくり、私の方へ向き直った。


「……ああ」


それだけだった。


私は彼の目を見返した。目を逸らすよりも、見ている方が今夜は楽だった。


「──三年、」


ヴェルナーが、喉の奥で、言葉を整えていた。


「三年、お前に、知らせないままでいたのは、悪かったと思っている。恩に着せる話ではなかった。俺が、俺の都合で、黙っていた」


「ご都合」


「……あの戦場で、俺は、お前を助けたかったわけではない。そう言うと、嘘になる。助けたかったのは本当だ。──だが、助ける理由が、あの時、俺の中にはなかった」


彼は目を伏せた。


「戦場で拾った紙束があった。お前の、補給計画書だった。──兵卒の名の横に、一人ずつ、小さく書き添えがあった。『妻の出産近し』『弟あり』『肩の古傷、雨の日に疼く』と」


(……それは)


(あの、紙束)


「俺は、その書き手を戦場に立たせてはいけないと、思った。なんの根拠もない。ただ、そう思った。──それが、斬り合いの最中に敵の軍装の奥で書かれた字と同じ手だと気づいた時、俺は、剣の向きを、勝手に変えていた」


静かな独白だった。


それは告白ではなかった。──ただの、報告に近い口ぶりだった。自分の手が自分の意思を先に動いたのを、今もまだ少し不思議に思っている男の、正確な報告。


「俺が、お前のせいで、左目を失ったのではない。──俺が、勝手に、お前の字を救おうとしただけだ」



私は、胸壁の石に手を置いた。


冷たい石の感触。それだけが、今夜、現実だった。


(……この人は、三年間)


(自分の怪我の理由を、"勝手にやったこと"だと、言う為に)


(黙っていたんだ)


胸の一番奥が、熱くなった。


熱くなったのだが、泣くには遠かった。ここで泣くのは、この男の正確さに、釣り合わない。


「ヴェルナー殿」


「ん」


「昨日の朝、あなたは私に、元の場所へ戻るべきだと仰いましたわね」


「……」


「どうしても、私を、戻したかったのですか」


彼は、答えなかった。


代わりに、目を伏せた。


「──戻したくないと、思う権利が、俺にはない」


(──権利、)


(そういう言い方を、する人なんですわね)


私は、ゆっくり、首を振った。


一度きり、静かに。


「権利の話は、今夜は、致しません」


「エヴァ」


「私、戻りません」


風がまた一つ、屋上の石の上を滑っていった。


「戻るつもりは、最初から、ありませんの。──ここから、先のお話をしたいと思います。よろしければ、私の隣に、いていただけますか」


彼は、私を見た。


月の薄雲が、ようやく抜けた。


隻眼の光が、胸壁の向こうの闇から、私の方へ戻ってきた。


「……ああ」


それだけ。


言葉は、それだけでよかった。


彼の手が胸壁の石の上で、少しだけ私の手の方へ寄った。触れはしなかった。触れない距離のまま、二人分の呼吸が同じ速さになるのを待つ時間が、しばらく続いた。



階段を下りる途中で、私は一度、振り返った。


ヴェルナーは胸壁に手を置いたまま、夜空のほうを向いていた。横顔の、左の方。古い傷の線が、月明かりでかすかに見えた。


もう、怖い線ではなかった。


一太刀の、静かな、記録。


私がそれを見なかった三年間と、彼がそれを語らなかった三年間が、ようやく並びはじめた夜のただの線だった。



翌朝、王都から早馬。


ゴードンの筆跡。


『勇者認定更新の儀、明朝繰り上げ開催。

教会大司教の計らいにて、レオハルト様の地位の"絶対化"、儀式の中で正式宣誓される予定。

クラウス様、帳簿原本一式を携え、既に王都入城。

──エヴァ様、明朝、王都へ。間に合わせます』


私は、伝書を机の中央に置いた。


ライナが黙って、外套を出してきた。ヴェルナーが厩舎の方から歩いてきて、馬具の準備を始めた音が、中庭に響いた。


三人とも、一言も打ち合わせていない。


それでも、動きは揃っていた。


私は最後にもう一度、執務室の机の上の複式簿記の見本帳に目を落とした。


──王都で、これを、広げる。


ページの右上の余白に、いつ書いたか自分でも忘れていた書き込みが一つ残っていた。


"嘘がつけない帳簿"。


私の字だった。

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