第7話 可愛いでしょう?
「子供の工作よ、可愛いでしょう?」
聖女の声が、朝刊の見出しになった。
王都第一区、市民向けの大衆紙『王都週報』。朝市の露店に積まれた新聞の一面、黒々とした活字。
『聖女、勇者副長の三年の労作を"子供の工作"と嘲笑──教会関係者の内部証言』
見出しの下、細かな組みで記事本文。お茶会の日付、出席した侯爵夫人の名前、回し読みされた計画書の内容、そして聖女の発した台詞。
市場の声がいったん止み、次に、違う種類のざわめきが立ち上がる。
──それは、オルトハイム砦に届く前の朝の話。
◇
砦の応接の間に、黒い上着の男が通っていた。
クラウス・フォン・ヴァイデンフェルト。ヴァイデンフェルト辺境伯家の次男。現伯の名代として北方を束ねる立場にある。到着したのは夜半、仮眠を取らせてから、朝の挨拶として呼び入れた。
背は高くない。肩幅もない。ただ、立っている角度が、真っ直ぐすぎた。兄の友人だった少年の面影は、目尻の薄い笑みのあたりに残っていた。
「エヴァ嬢」
「クラウス様。──兄から、よくお名前は伺っておりましたわ」
「こちらも。ラインハルト卿のご自慢の妹君でしたから、子どもの頃から私は一方的にあなたをよく存じ上げておりますよ」
冗談めかした一礼。
私は少し、答えに困った。
「……お恥ずかしい限りですわ」
「ローゼンクランツ家の書庫で、絵本を取ろうとして梯子から落ちたエヴァ嬢の話は、王都でも一度、酒の肴に」
「クラウス様」
「ああ、これは失礼。──本題に入りましょう」
短い笑いを引いて、彼は表情を替えた。
◇
クラウスが机に置いたのは、王都週報の刷り上がり見本と、もう一通の封書だった。
「今朝、王都の街角で売られ始めた新聞です。──内部証言の出所は、申し上げませんが、信頼の置ける筋です」
私は新聞を手に取った。聖女の台詞。回し読みされた日付。同席した侯爵夫人たちの名前。三年前の秋の、お茶会。
(あの秋、私は、北方遠征の補給計画を書き上げた直後でしたわ)
その計画書が、あの秋、王都のお茶会に回されていた。
活字の一つ一つが、妙にくっきりと見えた。感情は、──追いつかなかった。来る、と分かっている感情に、まだ体が合わせきれない。
「もう一通のほうは」
「貴族議会の、緊急動議の写しです。本日の午後、正式に提出されます」
封書の中身は、議会書式の硬い文面だった。動議名、発議人、審議内容、必要提出資料。その中に、私の名前があった。
「エヴァ・ローゼンクランツ嬢の三年間の補給計画書、原本提示」
──原本を、議会に。
「提示しろ、とは仰らないのですね」
「提示するかどうかは、エヴァ嬢の判断で構いません。ただ、提示された場合、議会の場であの計画書の精緻さが、そのまま証拠になります」
クラウスはそれだけ言って、残りは何も付け加えなかった。
誘導しない、という誘導。
私は、手元の新聞の一面をもう一度見下ろした。
「──兄様も、動いてくださっているんですのね」
「ラインハルト卿は、書類係として同席されます」
「ふふ」
私は、少し笑った。
「あの兄様が、書類係」
「適任でしょう」
クラウスも、目尻だけで笑った。
◇
砦の執務室で、原本の束を取り出した。
三年間、寝る間を削って書いた紙束。糧食の配分表、矢の本数、兵卒の名前、装備の状態、傷の記録。小さな字で、一人一人の事情まで。
「妻の出産近し」「故郷に弟あり」「肩の古傷、雨の日に疼く」──。
計画書というより、名簿に近い。数字と、人の顔が、同じ頁に並んでいる紙束。
これを、お茶会で、回した。
子供の工作、と呼んだ。
(……悔しくなかったと言えば、嘘ですわね)
(でも、もう、いいの)
紐で束ね直して、ゴードンの次の伝書便に託した。王都へ、議会へ、兄の手元へ。
三年分の紙束を手から離した時、机の上が、少しだけ軽くなった。
──何を書くための机だったかが、ようやく思い出せる気がした。
◇
翌日から、王都の空気は急速に変わった。
伝書が、日に何通も届いた。ゴードンからの報せ。議会に原本が提示されたこと。議員が頁をめくる手が、途中で止まったこと。装備状況を記した細字の備考まで読み込み、何人かが黙り込んだこと。
社交界の反応は、もう少し冷たい形で来た。
侯爵夫人たちのお茶会が、今週予定されていたもの全て、取り止め。
名目は「侯爵夫人ご体調不良」「私邸改装」「急な外遊」。けれど、取り止めた家は、どれも過去三年のうちにあのお茶会に出席していた家だった。
「──アデル侯爵家の、玄関前に、朝刊を投げ込んだ者がいるそうですわ」
ライナが夕餉の席で報告してきた。
「玄関前に」
「一面を上にして、わざわざ。──あの家も、これから色々、玄関の扱いに困りますでしょうね」
私は粥を口に運ぶ手を止めないまま、頷いた。
咎める気にはなれなかった。
◇
夜、砦の屋上に、人影があった。
厩舎の当直から戻る廊下で、私はたまたまその影を見上げた。
胸壁に腰掛け、月を背に、左手で左目の脇を覆っている男。
ヴェルナー。
隻眼のほうの眼窩ではない。古傷の走る、左目の脇のあたりを、手のひらでそっと覆っている。他に誰も見ていないと思っているからこその、その手の置き方だった。
近づいたのは、たぶん、よくなかった。足音を殺したつもりはないのに、殺していた。
屋上の階段を上がる途中で、彼の声が一度だけ聞こえた。
「──もう一度、立たせてしまったな」
独り言。
たぶん、私に向けた言葉ではなかった。
それでも、私の胸に当たった。
(……「もう一度」)
(──では、一度目、は)
足が、止まった。
段の途中で、私は背を向けて、そっと降りた。今夜、そこに踏み込む資格は、私にはなかった。
彼が一人でいたかったその時間を、壊すべきではないと、なぜかそれだけは分かった。
◇
翌朝、執務室に彼が先に来ていた。
「エヴァ」
「はい」
「少し、聞いてほしい」
壁際の椅子に腰掛けず、彼は扉の近くで立ったまま話した。逃げ道を自分で確保してから話そうとする男の、仕草。
「お前は──」
言葉を探している間、彼は目を逸らさなかった。
「お前は、元の場所に、戻るべきかもしれん」
窓の外で、朝の風が中庭の砂を一度撫でた。
「俺は、お前に相応しくない」
(──なぜ、今、)
(事情が、何か、動いたんですの)
「昨夜の、屋上の、ことですか」
ヴェルナーが目を伏せた。
否定はしなかった。それが、答えだった。
私は椅子から立ち上がって、机を回り込んだ。彼の前まで歩いて、いつもより半歩だけ、近い距離で立った。
「相応しい、相応しくない、というお話は」
「ああ」
「今、しなくてよろしいかと思いますわ」
「……エヴァ」
「私、事情を、まだ存じ上げませんもの。存じ上げないまま、あなた様に離れてくださいと仰られてもお答えのしようが、ないのです」
静かに言った。声を荒げる代わりに、半歩分の距離を縮めた。
彼は、何も言わなかった。
けれど、逃げる方へは、動かなかった。
◇
昼過ぎ、クラウスからの急使。
『教会大司教クレメンス猊下の、私邸、執事長の証言を確保。
二十年分の献金帳簿、写本にて入手の目処、立ち申し候。
王都にて三日以内、お目にかけ申し候。
──勇者認定更新の儀、急遽、繰り上げ開催の報、同便にて』
私は文面を、二度読み直した。
向こうが、動く。
こちらが、動く。
──あと、数日。
窓際に立つヴェルナーの横顔に、朝の光が当たっていた。
彼が何を隠しているのかを、私はそろそろ知らなければならなかった。




