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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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第6話 これで片がつくわ

「これで、片がつくわ」


聖女の声が、毒瓶を撫でた。


王都、大聖堂の裏手にある聖女の私室。朝の祈祷が終わった直後の、人の気配が引いた時間。アンゼリカは机の端に置いた小瓶を、指先でゆっくり転がしていた。


使いは決まっていた。侯爵家出入りの行商の帳簿係。顔が地味で、旅に慣れていて、貴族出身には見えない男。


「商人の装いで、北のオルトハイムへ。先方の商会に、品目の照会にかこつけて、近づきなさい」


「畏まりました。折を見て、粉を」


「粉、ではなくてね」


アンゼリカは小瓶の隣に置いた別の小箱を開けた。


中には、短い針が一本。


「──これを、刺す。毒は針の表面に塗ってあるの。皮膚をかすめるだけで効くわ。傷は一日で塞がる。外傷には見えない」


商人装いの男は、頷いた。


蝋燭の炎が一度、風もないのに揺れた。



その三日後。


オルトハイム砦の正門に、一台の荷馬車が到着した。


「ゴードン商会様のご紹介で参りました。北方武具商連合の、帳簿照会の件で」


馭者台の男が帽子を取った。簡素な旅装。身体の線は細く、刀を腰に吊っていない。商人らしい挨拶の間合い。ヨナスが門扉の向こうで取り次ぎに出た。


「ゴードン様からのお文は」


「こちらに」


差し出された封書には、ゴードン商会の紋の蝋印。拝領して、ヨナスは一度奥へ引き取った。応接の間で私が封を切る。


文面は確かにゴードンの筆跡。商会間の照会依頼の定型。北方武具商連合の帳簿を砦商会の複式簿記の書式に置き換えたい──王都でそういう相談が持ち上がっているから、現地の者を寄越した、との由。


──文面は。


(……紙の目が、違いますね)


ゴードンが使う羊皮紙は、少し黄味の強い、目の詰まった良い紙。この便箋は白に近く、端の裁ち方もわずかに粗い。同じ商会の帳場から出たとは思えない。


「ライナ、ヴェルナー殿を呼んでくださる?」


「承知しました」



応接の間に、まず使者を通した。


お茶を出すまでの間、差し向かいに座って、あたりさわりのない会話を続けた。北方の春の天候のこと、街道の荒れ具合、王都の物価。使者はそつなく答える。目のどこか、視線の着地点だけが落ち着かない。


扉が、小さくノックされて開いた。


ヴェルナー。


一礼してから入ってきた彼の挙動は、普段と違わなかった。違わなかったが、扉の蝶番から使者の座る椅子の背までの距離を、彼の隻眼は一度だけ舐めるように測った気がした。


「砦の差配役の、ヴェルナーです」


「ああ、これはご丁寧に──」


使者が立ち上がろうとした拍子に、ヴェルナーの手が机の縁にかけられていた茶器の盆を軽く指で弾いた。


カチン、と小さく鳴った。


使者の目が、その音の方向へほんの一瞬走った。


(……今の、反応)


商人は、突然の物音にそういう目の走り方はしない。武の訓練を受けた人間の、反射。


ヴェルナーが、私の側の椅子の背に手を置いた。


「エヴァ。一度、書類を取りに外へ」


低い声。命じる口調ではなく、ただ、そう決まっているかのような口調。


私は頷いた。立ち上がりかけた瞬間──



使者の袖から、何かが光った。


細い、銀色。


投げた、と認識したのと、視界の手前が暗くなったのは、同じ瞬間だった。


ヴェルナーが、私と使者の間に割り込んでいた。


左肩のあたりで、布を突く鈍い音。


彼はよろめかなかった。腕を一本、回すように使者の手首を折って、壁に押しつけていた。椅子が一脚、倒れた。茶器が床に落ちて、乾いた音を立てて割れた。


「ヨナス!」


ヴェルナーの声が、初めて広間の外まで届く音量になった。


走ってくる足音。ヨナスが扉を蹴るように開けて、使者の背に膝を押し込む。縄を回す手順に、迷いはなかった。


「毒か」


「──かすめた。深くはない」


ヴェルナーが自分の左肩の布を、指で一度だけ押した。赤い小さな染みが指先についた。顔色は変わらない。けれど、背筋が、ほんの少しだけ斜めに傾いだ。


「ライナ!」


今度は私が呼んだ。


声が、少しだけ、いつもより高かった。



医務室として使っている東棟の小部屋。寝台の上で、ヴェルナーは自分で上衣を外していた。ライナが銀器の盆に道具を並べている。薬草、解毒用の湯、清潔な布。


左肩の傷は浅かった。針の先がかすめた程度。けれど、その周りが、青みを帯びて膨らんでいた。


「遅効性ですわね。毒針の表面に塗ってある類」


ライナの判定は早かった。「この手のものは、宮廷と裏路地で流行っておりますの。聖職者の一門が、よく使うこと」と付け足して、湯に解毒草を落とす。


ヴェルナーは黙って、ライナの作業を受け入れていた。


私は、寝台の枠に手をかけて立っていた。


彼の左肩の包帯を、ライナが巻いていく。上衣を脱いだ胸元から首筋、そして左目の脇の古傷の線までが、燭台の光で一度に見えた。


──古い傷の走り方。


目の縁からこめかみ、そして左の首筋を伝い、左肩の付け根の付近まで。一筆書きのような角度。


(……これ、一太刀で負った傷)


(──同じ場所で、ほぼ同じ向きで)


私は、知っている。


三年前、私が負った傷の向きと、対称に重なる角度。


正面から斬り込まれた私を横から庇って受けた人間の傷が、まさに、この角度になる。


胸の真ん中が、急に冷えた。



包帯を結び終えたライナが、場を空けるように黙って出ていった。


部屋に、ヴェルナーと、私だけ。


寝台の横に腰掛けた私は、口を開こうとして、二度ほど言葉を飲み込んだ。尋ねたくない気もした。尋ねたい気もした。たぶん、聞いてはいけない種類の問いだった。


それでも、尋ねた。


「ヴェルナー殿」


「──ん」


「左目の、お傷は」


間があった。


彼は、天井の木目を一度見上げた。ゆっくり、視線を私の方へ戻した。


「……別件だ」


嘘だと、分かった。


分かったけれど、そこから先を押すだけの権利が、今夜の私にはなかった。だって、肩の布に血を染ませたばかりの人に、もう一つ古い傷を語らせるのは、さすがに、少し。


「……そうですの」


「すまないな。今は、そういうことにさせてくれ」


「はい」


私は、包帯の端を一度だけ指で整えた。触れたのは包帯のはずで、けれど指の腹にはその下の皮膚の温度が、少しだけ残った。


「──ありがとう、ヴェルナー殿」


「ん」


「私のことを、庇ってくださって」


三年前のことは、言わなかった。


今日のことだけ、言った。


それだけ言って、私は立ち上がった。



階下の執務室に戻ると、ライナが伝書を一通、机の上に置いていた。


『北より、来客一名。

辺境伯代理の肩書きで、クラウス・フォン・ヴァイデンフェルト。

明朝着到予定。お引き合わせの挨拶を希望、との由』


ヴァイデンフェルト。


北方辺境を束ねる家のひとつ。兄ラインハルトの学友の名前が、確か、そこに。


私は伝書をもう一度、目で辿り直した。


記憶の底を探ると、若い日の客間で兄と並んで絵本を読んでいた黒髪の少年の背中が、ほんのりと浮かび上がった。


(──まさかあの方)


(……お久しぶり、になりますわね)


窓の外で、使者を捕縛した中庭の方から、ヨナスがヴェルナーに何か報告する声がした。捕らえた男の持ち物から、小瓶が一つと、封書がもう一通。


封書の差出人の名は、王都大聖堂、聖女の印。


ヴェルナーの声が短く低く、何かを命じた。


(明日、この砦に、二人目の来客)


私は、羽ペンを取り直した。


書かねばならない書類が、また、一枚増えた。

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