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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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第5話 戻ってきてくれ、エヴァ!

「戻ってきてくれ、エヴァ!」


勇者の声が、砦の門前で震えた。


春の霧雨。朝からぐずついた天気で、石畳は濡れた光を返していた。砦の正門の外で、鎧の下襟を濡らしたまま馬を下りた男は、兜もつけず一人で来ていた。


──単騎。


レオハルト・フォン・ブランデンブルク。勇者。かつての婚約者。三日前に北方から撤退したという話は、商会に届いた早馬でもう知っていた。


私は、執務室の窓からその姿を一度だけ確かめた。


雨に濡れた勇者の外套の肩で、紋章の銀糸がくすんで見えた。



「入れるな」


ヴェルナーの声が中庭の石段で落ちた。


団員のヨナスが門のところで槍を横に渡している。その手前で、レオハルトはすでに剣に手をかけていた。


「エヴァに会わせてくれ。話があるだけだ。三分でいい」


「武器を置け」


ヴェルナーは短かった。


雨粒が石に当たる音が、ふたりの間に挟まる。しばらく、動きがなかった。


やがてレオハルトが腰の剣帯を外した。ヨナスに放り投げる。受け取ったヨナスの足が、受け止めの勢いで半歩引いた。勇者の剣は、見た目以上に重いらしかった。


「通せ」


ヴェルナーが言った。


ヨナスが槍を退けた。レオハルトが一歩、石段に足をかけた瞬間、ヴェルナーが低く付け足した。


「変な真似をすれば、俺の判断で対処する」


レオハルトが、初めてヴェルナーの顔を見た。


「……知った顔だな」


「昔な」


それだけ。



広間に通したのは、ライナの提案だった。


「応接の間は、雨で煙っておりますから」


そういう言い訳を、ライナは笑顔のまま言う。応接の間は煙ってなどいない。ただ、人目のない奥まった部屋にこの男を入れたくないだけ。私もそう思った。


広間の長卓の端に、レオハルトを座らせた。


私は反対側に立ったままでいた。


ヴェルナーは壁際にいた。組んだ腕をそのままに、視線は窓の方に置いている。会話に加わるつもりはない、けれど離れるつもりもない、という距離。


「エヴァ」


レオハルトが、両手を卓に突いた。


「俺が、悪かった」


頭が下がる。軽くではない。卓の木肌に額を擦りつけるほど。勇者と呼ばれた男の、三年前なら想像もつかない角度。


「補給の、価値を、俺は分かっていなかった。北方で、部下を──ヴァスコとイレーネを、担架で運ぶしかなかった。あの二人の傷が、自分の傷より重かった」


(……ヴァスコさん、イレーネさんの、お怪我は)


胸の一番奥が、そこだけ別の温度で動いた。


あの二人は悪くない。三年、同じ釜の飯を食った仲間だ。別れ際の笑い声に加わっていなかった数少ない二人でもある。


「命は」


私は、それだけ尋ねた。


「──取り留めた。今はまだ、歩けない」


短い安堵が、胸の奥を通り抜けていく。それを顔に出さないようにする方が、難しかった。


「アンゼリカとも、別れる」


レオハルトが顔を上げた。


「……あいつの、茶会での話も、俺は聞いていた。止めるべきだった。お前の書いたものを、笑う場にしてしまった」


「止めなかった理由は」


「……聞きたいか」


「はい」


ほんの少し、間があった。雨音が卓の上を通っていった。


「──お前の、有能さが、俺を、矮小にするのが、耐えられなかった」


静かな告白だった。嘘ではないと思う。むしろ、嘘で飾った方が、楽に見えたはずの場面だった。それを言った。


(……ああ)


(そう、だったのですね)


胸の奥で、今度は別の温度が通った。


三年分の屈辱が、ようやく形を得た瞬間。敵の悪意ではなく、弱さだった。私を嫌ったのではなく、私といる自分を、嫌った。


──それで。


私は一度、深く息を吸った。


「レオハルト様」


「エヴァ」


「お気遣いなく。もう他人ですので」



広間の時間が、そこで止まった。


レオハルトが、言葉を探すように口を半分開いたまま、閉じた。


「……他人」


「はい」


「三年──」


「三年でしたわね。その三年を、他人として片付けるために、今日お越しくださったのだと思いますわ」


自分の声が、自分でも意外なほど穏やかに出た。


怒鳴る必要はなかった。泣く必要もなかった。三年分の屈辱は今、この卓の上で書類の束のように整理されている。受け取って、署名して、ここに置いていってくださいませ。そういう、事務的な温度。


「お身体の、北方のお怪我のご快復を、お祈りしております。ヴァスコ様とイレーネ様にも、お見舞いの品を後日お送りいたしますわ」


「エヴァ」


「お戻りください。道がぬかるみますと、馬がお疲れになります」



長卓の端で、勇者の拳が一度だけ握られて、開いた。


開いた手の甲で、額の雨を拭う仕草が、妙に幼く見えた。


「……わかった」


そう言って、彼は立ち上がった。


広間を出る前に、一度だけ振り返った。


「お前は、俺が失ったものの中で、いちばん取り返せないものだ」


返事はしなかった。


返事をしてしまうと、整理された書類の束に、一枚余計な紙が差し込まれる気がした。


扉が閉まった。



雨の廊下で、ヴェルナーの足音が私の後ろについてきていた。


私は、少し歩いてから立ち止まった。止まる理由は自分でもよくわからない。ただ、もう一歩進むのが、少し重かった。


「エヴァ」


名前だけを呼ばれた。


「──少し、空気が要る」


彼はそれだけ言って、私の前を通り過ぎた。


壁際に立つ彼の指が、かすかに、内側に曲がって握られていた。鎧も剣もない廊下で、その手だけが何かを押し殺していた。


(……怒って、いらっしゃる)


(私のために、ではない、と思うのに)


(──違う、私のために、かもしれない)


廊下の向こうで、ヴェルナーが一度、長く息を吐いた。


肩が、ゆっくり下がった。


ふたたび私に向き直った時には、その手も元に戻っていた。ただ振り返った拍子に、隻眼の視線が一瞬だけ柔らかい方向にずれた気がした。


「粥が、冷める」


そう言ってヴェルナーは食堂の方へ歩き出した。


私は、少し遅れて、ついていった。



王都、同じ日の夕刻。


教会の祈祷室の奥、聖女の私室。


アンゼリカが、見慣れない男を一人通していた。


錬金の看板を持たない、裏の職人。指先の黒ずみで、扱いの長い薬品を察するたぐいの男。


「──遅効性で、証拠が残らないとうかがいましたが」


聖女の声は、聖歌の稽古の途中に似た調律で、薄く響いた。


男は小瓶を一つ、机の端に置いた。


「半月ほどで、心の臓が、静かに止まります」


「では」


アンゼリカが、指を一本立てて、机の上の小瓶を撫でた。


「これで、片がつくわ」


祈祷室の蝋燭が、一本だけ、風もないのに揺れた。

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