第5話 戻ってきてくれ、エヴァ!
「戻ってきてくれ、エヴァ!」
勇者の声が、砦の門前で震えた。
春の霧雨。朝からぐずついた天気で、石畳は濡れた光を返していた。砦の正門の外で、鎧の下襟を濡らしたまま馬を下りた男は、兜もつけず一人で来ていた。
──単騎。
レオハルト・フォン・ブランデンブルク。勇者。かつての婚約者。三日前に北方から撤退したという話は、商会に届いた早馬でもう知っていた。
私は、執務室の窓からその姿を一度だけ確かめた。
雨に濡れた勇者の外套の肩で、紋章の銀糸がくすんで見えた。
◇
「入れるな」
ヴェルナーの声が中庭の石段で落ちた。
団員のヨナスが門のところで槍を横に渡している。その手前で、レオハルトはすでに剣に手をかけていた。
「エヴァに会わせてくれ。話があるだけだ。三分でいい」
「武器を置け」
ヴェルナーは短かった。
雨粒が石に当たる音が、ふたりの間に挟まる。しばらく、動きがなかった。
やがてレオハルトが腰の剣帯を外した。ヨナスに放り投げる。受け取ったヨナスの足が、受け止めの勢いで半歩引いた。勇者の剣は、見た目以上に重いらしかった。
「通せ」
ヴェルナーが言った。
ヨナスが槍を退けた。レオハルトが一歩、石段に足をかけた瞬間、ヴェルナーが低く付け足した。
「変な真似をすれば、俺の判断で対処する」
レオハルトが、初めてヴェルナーの顔を見た。
「……知った顔だな」
「昔な」
それだけ。
◇
広間に通したのは、ライナの提案だった。
「応接の間は、雨で煙っておりますから」
そういう言い訳を、ライナは笑顔のまま言う。応接の間は煙ってなどいない。ただ、人目のない奥まった部屋にこの男を入れたくないだけ。私もそう思った。
広間の長卓の端に、レオハルトを座らせた。
私は反対側に立ったままでいた。
ヴェルナーは壁際にいた。組んだ腕をそのままに、視線は窓の方に置いている。会話に加わるつもりはない、けれど離れるつもりもない、という距離。
「エヴァ」
レオハルトが、両手を卓に突いた。
「俺が、悪かった」
頭が下がる。軽くではない。卓の木肌に額を擦りつけるほど。勇者と呼ばれた男の、三年前なら想像もつかない角度。
「補給の、価値を、俺は分かっていなかった。北方で、部下を──ヴァスコとイレーネを、担架で運ぶしかなかった。あの二人の傷が、自分の傷より重かった」
(……ヴァスコさん、イレーネさんの、お怪我は)
胸の一番奥が、そこだけ別の温度で動いた。
あの二人は悪くない。三年、同じ釜の飯を食った仲間だ。別れ際の笑い声に加わっていなかった数少ない二人でもある。
「命は」
私は、それだけ尋ねた。
「──取り留めた。今はまだ、歩けない」
短い安堵が、胸の奥を通り抜けていく。それを顔に出さないようにする方が、難しかった。
「アンゼリカとも、別れる」
レオハルトが顔を上げた。
「……あいつの、茶会での話も、俺は聞いていた。止めるべきだった。お前の書いたものを、笑う場にしてしまった」
「止めなかった理由は」
「……聞きたいか」
「はい」
ほんの少し、間があった。雨音が卓の上を通っていった。
「──お前の、有能さが、俺を、矮小にするのが、耐えられなかった」
静かな告白だった。嘘ではないと思う。むしろ、嘘で飾った方が、楽に見えたはずの場面だった。それを言った。
(……ああ)
(そう、だったのですね)
胸の奥で、今度は別の温度が通った。
三年分の屈辱が、ようやく形を得た瞬間。敵の悪意ではなく、弱さだった。私を嫌ったのではなく、私といる自分を、嫌った。
──それで。
私は一度、深く息を吸った。
「レオハルト様」
「エヴァ」
「お気遣いなく。もう他人ですので」
◇
広間の時間が、そこで止まった。
レオハルトが、言葉を探すように口を半分開いたまま、閉じた。
「……他人」
「はい」
「三年──」
「三年でしたわね。その三年を、他人として片付けるために、今日お越しくださったのだと思いますわ」
自分の声が、自分でも意外なほど穏やかに出た。
怒鳴る必要はなかった。泣く必要もなかった。三年分の屈辱は今、この卓の上で書類の束のように整理されている。受け取って、署名して、ここに置いていってくださいませ。そういう、事務的な温度。
「お身体の、北方のお怪我のご快復を、お祈りしております。ヴァスコ様とイレーネ様にも、お見舞いの品を後日お送りいたしますわ」
「エヴァ」
「お戻りください。道がぬかるみますと、馬がお疲れになります」
◇
長卓の端で、勇者の拳が一度だけ握られて、開いた。
開いた手の甲で、額の雨を拭う仕草が、妙に幼く見えた。
「……わかった」
そう言って、彼は立ち上がった。
広間を出る前に、一度だけ振り返った。
「お前は、俺が失ったものの中で、いちばん取り返せないものだ」
返事はしなかった。
返事をしてしまうと、整理された書類の束に、一枚余計な紙が差し込まれる気がした。
扉が閉まった。
◇
雨の廊下で、ヴェルナーの足音が私の後ろについてきていた。
私は、少し歩いてから立ち止まった。止まる理由は自分でもよくわからない。ただ、もう一歩進むのが、少し重かった。
「エヴァ」
名前だけを呼ばれた。
「──少し、空気が要る」
彼はそれだけ言って、私の前を通り過ぎた。
壁際に立つ彼の指が、かすかに、内側に曲がって握られていた。鎧も剣もない廊下で、その手だけが何かを押し殺していた。
(……怒って、いらっしゃる)
(私のために、ではない、と思うのに)
(──違う、私のために、かもしれない)
廊下の向こうで、ヴェルナーが一度、長く息を吐いた。
肩が、ゆっくり下がった。
ふたたび私に向き直った時には、その手も元に戻っていた。ただ振り返った拍子に、隻眼の視線が一瞬だけ柔らかい方向にずれた気がした。
「粥が、冷める」
そう言ってヴェルナーは食堂の方へ歩き出した。
私は、少し遅れて、ついていった。
◇
王都、同じ日の夕刻。
教会の祈祷室の奥、聖女の私室。
アンゼリカが、見慣れない男を一人通していた。
錬金の看板を持たない、裏の職人。指先の黒ずみで、扱いの長い薬品を察するたぐいの男。
「──遅効性で、証拠が残らないとうかがいましたが」
聖女の声は、聖歌の稽古の途中に似た調律で、薄く響いた。
男は小瓶を一つ、机の端に置いた。
「半月ほどで、心の臓が、静かに止まります」
「では」
アンゼリカが、指を一本立てて、机の上の小瓶を撫でた。
「これで、片がつくわ」
祈祷室の蝋燭が、一本だけ、風もないのに揺れた。




