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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 私たちの物語が始まった

「──こうして、勇者の物語は終わった」


王都週報の朝刊、社説欄の書き出し。


大聖堂での儀の中断から三月が過ぎた、夏の初めの朝だった。レオハルトの勇者認定は正式に剥奪され、アンゼリカの聖女位も同じ日の午後に取り消しとなった。大司教クレメンスは職を退き、教会の執事長殿が新しい副司教の任に入った。


社説の続きは、引用されない予定だった。


私の机の上には、記事よりも分厚い書類の束が積まれていた。合同調査。砦商会と氷の銀狼傭兵団と辺境伯家の、三者連合の、運営契約書。


「今朝、ゴードン様も街道からそろそろお着きですわよ」


ライナが茶盆を置いていった。


「はい」



中庭で、羊皮紙が二枚、並べられた。


砦商会の定款の末尾、「共同経営者」の項。傭兵団との統合契約の末尾、「共同責任者」の項。


私が右側に、ヴェルナーが左側に座った。ゴードンが立会人。ライナが証人の欄。クラウスは王都から書状を寄越してきた。


「では、ご署名を」


ゴードンの言葉に、私とヴェルナーは、ほぼ同時に羽ペンを取った。


同時に動き出したというより、向かいに座る相手の動きに、自然と自分の手の速さを合わせたというふうだった。


紙の上で、インクの線が走り出す。


私の字と、ヴェルナーの字。


並べて書くと、私の方が整っていて、ヴェルナーの方は太くてまっすぐで、余白の取り方が下手だった。傭兵団長の字。剣を持つ手で、無理に書いている字。愛嬌のある文字とは言いがたい。


それでも、並べて置かれると、不思議と釣り合って見えた。


(……契約書への、一緒の署名、って)


(普通はこういう瞬間のこと、言わないですのよね、たぶん)


(普通は、もっと別の、書類の、──)


頬が一度、熱くなった。


顔を上げると、ヴェルナーが、机の向こうから私をまっすぐ見ていた。


見られていたということに気づいた瞬間、私はつい羽ペンを握る手に力を入れすぎて、インクが一滴、自分の指先に跳ねた。


「……エヴァ」


「は、はい」


「後で、少し」


「はい」


ゴードンが小さく咳払いをした。


ライナが粥の鍋の蓋をカタンと鳴らしたのは、たぶんわざと。



夕刻、砦の屋上。


夏の陽が西の稜線に沈みかけていた。石壁が温かく、風の中に、雪解けの匂いと草の匂いが混ざって通っていた。北方の夏は遅い。ようやく新緑が揃った季節。


ヴェルナーは、胸壁の端のいつもの場所に腰掛けていた。


私は、少し離れて、同じ胸壁に寄りかかった。


「左目、もうお痛みはありませんの」


「……三年、痛んだ試しはない」


「あら」


「傷のことより──」


ヴェルナーは、そこで一度、言葉を切った。


それから、ひどくゆっくり、言った。


「エヴァ。──好きだ」


風が、胸壁の石の上を、撫でて通っていった。


(……)


(あ、え、いや、その)


(……あっ、ありがとさんですっ、ではなくて、今のは、そういう返し方では、)


「エヴァ」


「は、はいっ、あの、その、──わ、私もです」


言った瞬間、両手で顔を覆った。


よりによって、という種類の返しをしてしまった気がした。語彙の在庫を、根こそぎ落としてしまった。それでも、言い直すことは、できなかった。言い直すと、軽くなる気がした。


頭の上で、ヴェルナーの短い息の音がした。


笑った、のだと思う。


少なくとも、彼が私の訛りを聞いて口の端だけを動かすのを、私はもう見慣れていた。


ヴェルナーの手が、顔を覆う私の手の甲に、そっと重ねられた。引き剥がしはしなかった。ただ、置いただけの温度。


「エヴァ」


「……はい」


「顔を、見せてくれないか」


低い、願う声だった。


戦場を知っている男が、その声で何かを請うのを、私は初めて聞いた。ゆっくり両手を下ろすと、近い距離にヴェルナーの隻眼があった。思ったより、近かった。


「──」


何か言おうとした彼の口が、結局は閉じた。


その代わりに、指の背で私の頬の髪の一筋を、後ろに払った。剣を握る手の仕草には似合わない、慎重な指先。


私は目を伏せた。伏せたところで、耳の熱さは隠せなかった。


「三年前、戦場で、拾った紙束があった」


ヴェルナーが、ぽつりと言った。


知っていた。けれど、知らないふりをして、頷いた。


「あの紙束を書いた書き手に、いつか返せたらと、思っていた。──返す日が来るとは、思っていなかった」


彼の手が、胸壁の石の上で、少しだけ私の手のほうへ寄った。


今度は、触れた。


触れただけで、何も言わなかった。


その方が物語として長く続く形だと、私たちは二人ともなんとなく分かっていた。



北方の氷竜が蘇ったという報せは、その半月後に届いた。


国王からの勅書。「新勇者認定の合同調査隊に、討伐の任を王命として命ず」。


討伐当日、私は砦商会の本部から動かなかった。指揮棒は振らない。羽ペンを握る。糧食の最終配分、矢の補給路、途中の村との交渉、怪我人の後送経路、帰還時の薬草手配。


ヴェルナーは現場。副団長のヨナスを補佐に、氷の銀狼を率いて前線に立った。クラウスは後詰の指揮。兄ラインハルトは王都で議会の承認手続きを滞らせないよう、逐一、書類を回していた。


三日目の夜、前線から急使が戻った。氷竜の氷塊が、想定より遅く溶ける。回復薬の効きが鈍る、と。


私は机の上の配分図を引き直した。王都の薬師ギルドに特殊薬の追加発注。北方の村との糧食追加契約。兄への伝書で議会の承認手続きを前倒し。ヴェルナーからの現場報告を受けて、半刻ごとに計画書を書き換えた。


翌朝、ヨナスからの早馬で一行届いた。


『薬、間に合った』


誰かが欠けても、動かない布陣。


──そういう布陣を組めたことが、たぶん、一番の成果だった。


氷竜の討伐は、史上最速、と後の新聞は書いた。


私は、新聞を砦の食堂の壁に貼らなかった。代わりにヴェルナーが帰還した夜、厩舎の前で馬を撫でていた彼の背に、ライナの焼いたパンを差し入れただけだった。


「おかえりなさいませ」


「──ああ」


それだけの、帰還。



王都から、ときおり、便りが届く。


レオハルトは、ブランデンブルク家の北方の領地に戻った。剣術指南役の位を、いくつか打診されたが、「格が違う」とすべて断っているらしい。領地の帳簿は年々細り、酒場で「俺は本当は強い」と語り始めると常連客が席を立つ──と、ゴードンの商会の者が笑いながら話していた。


一度だけ、彼から砦に、短い文が届いたことがある。


『お前の計画書を、もう一度、最初から読み直している。

──余白の文字の、意味が、今は分かる。』


返事は、しなかった。


読み直す時間は、本人にしか使えない時間だと、そう思ったから。



アンゼリカは、北方の修道院に送られた、とクラウスからの便りで知った。


「写本の、お役目についておられるそうです」


何の写本、と問うと、クラウスは目尻の皺だけで笑った。


「──ローゼンクランツ家の補給計画書の、完全版の写本を、だそうです」


「……まあ」


「修道院長の、ご判断とのこと。エヴァ嬢への当てつけでもなんでもない、とのことでした」


「存じておりますわ」


私は、その件について、それ以上何も尋ねなかった。


子供の工作、と呼ばれた文書を毎朝、自分の手で書き写す人生。長い償いになるか、ただの労役になるか、それは彼女が自分で決めることだった。



大司教クレメンスは、教会領を返上し、南方の小さな隠棲地に退いた。


二十年分の献金帳簿を失脚の夜に暖炉に投げ込んだ、という話は、後に使用人の証言で明らかになったらしい。写本は議会に渡っていたから、焼いたのは原本の方だった。──それも、結局、証拠にはなった。


歴史書が、彼の名を教会改革の項目に載せる日は、そう遠くないという話だった。



砦の屋上で、夕陽が稜線の向こうに沈みかけていた。


中庭から、ゴードンがライナに何か怒鳴られている声がする。粥の塩加減の件らしい。ヨナスが厩舎で馬に話しかけている声もする。団員たちの笑い声。厨房から湯気。


私は、ヴェルナーの隣に並んで、胸壁に手を置いていた。


「──こうして、勇者の物語は終わり、」


言いかけて、自分で口を押さえた。


口を押さえたのは、ここを声に出してしまうと何か、物語の外の人の書いた社説みたいな響きになってしまう気がしたから。


代わりに、小さく笑って、言い直した。


「──あの人たちの話は、終わりましたわね」


「ああ」


「私たちの話は、まだ、途中ですけれど」


「途中だな」


ヴェルナーの手が、私の手の甲に重なった。


硬い手だった。鉄の匂いが、指先にうっすら残っていた。今朝、馬具の締め具を直していた名残。


「明日の書類は」


「山ほどですわ」


「知っている」


稜線が、赤から紫に変わった。


砦の、夏の、ごく普通の夕刻だった。


私は、机の上に積み上げた書類の束の、いちばん上の一枚を思い出した。


統合契約書。


署名の欄には、私の字と彼の字が、並んでいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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