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『なぜ誰もついてこない』―― あなたが全員追放したからですが?  作者: 九葉(くずは)


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第3話 契約は無効だ

「エヴァのサインが? ならば契約は無効だ!」


商会の扉の前で、使者が叫んだ。


王都第三区、ゴードン商会の石造りの正面玄関。朝の市場帰りの主婦、野菜籠を抱えた下働きの少年、開店準備中の向かいの仕立屋の娘。全員が、一度足を止めた。


使者は勇者パーティの紋章入り外套を羽織っていた。半年前までならこの紋章で石畳が左右に割れたはずの男が、今朝は商会の店員相手に声を裏返している。


店員のほうは動じない。木製のカウンターの向こうで、羊皮紙を一枚持ち上げた。丁寧に、両手で。


「──左様でございます。当商会の契約書式はすべて、エヴァ・ローゼンクランツ様のご署名をもって正式成立とさせていただいております。署名のない書面につきましては、誠に申し訳ございませんが、いかなる履行もお引き受けできかねます」


「三年間、俺たちと取引していただろう!」


「はい。三年間、エヴァ様のご署名にて取引をさせていただきました」


通りの向こうで、仕立屋の娘が口元を扇で覆った。笑っているのか、驚いているのか、遠目にはわからない。


ただ、使者の紋章入り外套に向けられる視線の角度が、来たときと帰るときで違っていた。



その午後、ゴードン本人がオルトハイム砦に現れた。


馬車ではなく単騎。泥のついた外套。荷物らしい荷物もなく、商会主というより旅のお使いに見える。


「お急ぎでしたのね」


中庭で出迎えた私に、ゴードンは帽子を取って一礼した。五十近い男の、磨かれた挨拶。


「エヴァ様、お呼びでもないのに参上して申し訳ありません。──ただ、王都にいるとこちらの決断が遅れる気がしまして」


「何か起きましたの?」


「起きたというより、これから起きるものの芽が、すでに出ております」


ゴードンは懐から封を切った手紙を取り出した。


「今朝、武具商ハルトヴィヒから。『勇者パーティへの納品を継続すべきか』との照会です。同文の照会が、仕立屋のエルマから、馬具のリングから、糧食問屋のケーニヒから」


「……まあ」


「もうひとつ、別口で」


もう一枚。


「──大陸銀行第三支店より。『エヴァ様が新たに商会をお開きになる由、口座開設のご用命があれば是非』と」


風が一度、中庭の砂を撫でた。


私は二通を見比べて、思わずゴードンの顔を見返した。


「仕事が、早いんですのね」


「向こうは、次の勝ち馬を探しています」


ゴードンの口調には、商人らしい乾きがあった。責めるでも褒めるでもない、ただ風向きの観察。


「エヴァ様。わたくしからお願いがございます」


「はい」


「砦商会──仮の名で構いません。その最初の副代表の席に、わたくしを入れてくださいませんか」


一礼。深くはない。けれど、迷いもない。


(──王都で、立場がある人なのに)


(それを、片足だけでも、こちら側に移すと仰っているんだ)


「ゴードン」


「はい」


「お引き受けする前に、一つだけ。もし、うまくいかなかったときは、こちらの責任で終わらせます。貴方の本店には、累を及ぼさないよう手続きいたしますわ」


「──ふふっ」


ゴードンが初めて笑った顔を見た。


「エヴァ様、それでこそ。では、書類は今晩」



夕刻。


厩舎のほうからカンカンと鉄を叩く音が聞こえていた。ヴェルナーの手仕事。馬具の締め具を直しているらしい。


私は執務室で契約書の下書きに赤を入れていた。ゴードンに見せる最終稿は明朝。そうなると下書きの清書は今夜のうちに。


──足が痛い。


気づいたのは、羽ペンを置いて立ち上がろうとしたとき。左足の踵。革が薄くなって縫い目が割れているのを、昨日から知っていた。


廊下に出ると、ちょうど鉄の音が止んでいた。


「ヴェルナー殿」


呼びかけてから、自分で少し迷った。「殿」なのか「様」なのか。彼は男爵相当の軍功を持つらしいが、いまは傭兵団長の立場。ライナが使っている「殿」に倣う。


「どうした」


振り向いたヴェルナーの手には、濡れた布。鉄粉を拭ったあとらしい。


「街へ使いを出すときに、靴屋の場所をお聞きしようと思いまして」


「街は遠い」


「あら、そうでしたわね」


この砦の最寄りの街まで、馬で半刻。徒歩なら半日仕事。靴を買いに行くだけで一日が潰れる。


「昔の革細工の道具なら、厩舎の棚にある」


「あ、自分で直そうかと──」


「寄越せ」


短く、それだけ。


受け取る、ではなく、寄越せ。


私は左足の靴を脱いで手渡した。渡しながら「あ、その、ありがとうござ」と言いかけて、語尾が訛りかけたので慌てて唇を結んだ。


ヴェルナーが靴を受け取る。手の中で一度ひっくり返した。踵の内側の磨り減り方、縫い目の割れ。隻眼がひととおりそれを読む。


「明日の朝までに直る」


それだけ言って、厩舎の暗がりへ戻っていった。


廊下に残された私は、片足だけ靴下のまま、立ち尽くしていた。



夜、食堂で粥を囲みながら若い団員のひとり――ヨナスという男が、隣の席で小皿の塩をいじっていた。


団の大半は先に別の砦へ向かったが、ヴェルナーの副官格と、このヨナスだけが残っている。連絡要員と護衛を兼ねているという話だった。


「エヴァ様」


ぽつりと彼が口を開いた。


「……我が団長のことなんですが」


「はい?」


「いや、あの」


ヨナスは若かった。たぶん二十歳くらい。外套の下の肩はしっかりしているが、人と話すときの目線が落ち着かない。


「三年前に、国境で──」


そこまで口にしたとき、厩舎のほうから近づいてくる足音が聞こえた。ヨナスの口が、ぴたりと閉じる。


ヴェルナーが入ってきた。手に、私の靴。縫い直されたばかりの革の匂い。


「置いておく」


入口の長椅子に靴を並べて、それだけ言ってまた外へ出ていった。


ヨナスは塩の小皿を両手で持って、じっと見下ろしていた。


「……ヨナス殿」


「なんでもありません。──失礼します」


立ち上がって、厩舎のほうへ追っていく。


食堂に、粥の鍋の湯気だけが残された。


ライナが向かいの席で、スプーンを持ったまま動かずにいた。


「あのお若い方」


「はい」


「三年前の話を、されかけましたわね」


「……そうですね」


私は靴を見に行かなかった。行けば、見たくなる。縫い目の仕上げを、知りたくなる。それを知ってしまうと、何か、言ってはいけないことを言ってしまう気がした。


(──あの人、なんでこんな、)


(……なんで、なんでしょうね、本当に)



夜更け。


眠れないまま、執務室の窓から中庭を見下ろすと、隻眼の男が屋上の方へ上がっていく姿があった。


手に、古びた紙束を抱えて。


月明かりが弱い夜で、紙の文字までは見えない。ただ、ひどく大事そうに脇に抱えていることだけが、遠目にもわかった。


私は窓際から身を引いた。


のぞき見る趣味はない。


ないが。


(……なんでしょう、あの紙束)


気になって、気になって、気になって。


結局、寝台に戻るまでに夜風が何度か室内を通った。



朝、廊下に出ると、長椅子の上の靴の向きが揃えられていた。


左足を入れたとき、踵の当たりが昨日までと違っていた。割れていた縫い目の内側に、薄い革があてられている。磨り減っていた踵のところだけ、わずかに厚くなっていた。


(……これ、普通の修理じゃないですわね)


(長距離を歩いても痛くない造りに直されている)


靴の中で足先を少し動かす。


指先が熱い、と思った。


熱いのは指先ではなく、たぶん、べつの場所。


──廊下の奥で馬の嘶きが聞こえた。ヴェルナーがもう発って、街との街道のほうに出たらしい。


私はもう片方の靴も履いた。床を一度踏みしめて、執務室へ向かう。


明日のゴードンとの契約。武具商への返書。銀行への口座開設依頼。


やることは、この朝も、山ほどあった。

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