第2話 なぜ支払いができない
「なぜ支払いができない!」
勇者の声が、宿のカウンターで裏返った。
金鷲館。王都でも有数の、貴族御用達の高級宿。磨き抜かれたカウンターの向こうで、応対の男が口ごもっている。
「勇者様のご口座は、本日朝方より一時凍結の処置となっておりまして」
「なぜ俺の口座が凍結される」
「──当銀行の規定で、法人登記名義人の承諾が取れない場合、自動的に口座機能が停止されます」
隣でアンゼリカが扇子を唇の前に当てた。
「あら、レオ様。きっとすぐに解けますわ」
「名義人の承諾だと。俺が名義人だろう」
応対の男がわずかに目を逸らした。
「恐れながら、当口座の法人登記名義は、ローゼンクランツ家の御令嬢エヴァ様のお名前となっております」
広間の空気が止まる。
朝食を終えた貴族客が何人か振り返った。給仕が湯気の立つ紅茶ポットを両手に抱えたまま、動きを止めている。聖女の笑顔が固まった。
(──嘘だろう)
頭の中で書類の記憶を探る。三年前、領地の印を押したはずの。いや、確かに名前を書いたのは──あれ? 俺は、自分で書いたか。
「数字は女の仕事だ」
そう言って押し付けた背中の記憶だけが、やけに鮮明に蘇った。
◇
王都の騒ぎを、私はまだ知らない。
オルトハイム砦の執務室。窓枠の隙間から朝の風が入ってきて、机の上の羊皮紙を軽く浮かせる。押さえ直しながら、私はゴードン商会への伝書を書いていた。
「ライナ、伝書鳥の準備お願いできます?」
「はい、ただいま」
台所からライナの返事が返ってくる。パンを焼く匂いがした。この砦に竈が三口も残っていたのはありがたい。前の住人の遺物らしい。煙突の途中に鳥の巣があって、昨日ヴェルナーの団員の一人が登って掃除してくれた。
机の上を見る。帳簿の清書、契約書の下書き、複式簿記の説明文、商会の定款。この三日で書いたもの。
前世なら、この分量で労災の対象になる。この世界の令嬢に労災も有給もなく、あるのはせいぜい気付け薬と茶菓子くらい。空の下で「定時退勤」と呟いたくせに、手元の仕事は増える一方。
──違う。今度は自分のための仕事だ。
それだけは、過去三年間にも、前世にも一度もなかったもの。
◇
ヴェルナーの団は、到着二日目の朝に一度別の砦へ向けて発った。ヴェルナー本人は東棟の一室を借りて砦に残っている。
「商会の護衛の件、返事はもう少し考えさせてくれ」
引き払いの朝、彼はそう言った。ライナは「あの男はもう残ると決めてますわね」と勝手に言い切って笑っていた。根拠はないが、確かにヴェルナーの残り方は「考える」というより「見極める」に近い。私の側の何かを。
昼前、彼は砦の厩舎にいるはずだった。馬の蹄鉄を自分で直す性分らしい。鉄を叩く音が、中庭の石壁にぽつりぽつりと当たっては落ちていた。
◇
午後、伝書鳥が戻ってきた。
黄色い封筒。王都の大陸銀行の紋章。
私が出したのはゴードン商会宛の便。この黄色は銀行の公用で、戻ってきたのではなく、向こうから送ってきたもの。
封を切る。
『勇者討伐隊法人口座に関して。
本口座の運営名義人は御令嬢エヴァ・ローゼンクランツ様となっております。
本日未明、当行の定期処理において名義人ご本人様の承諾のない運用が検知されたため、口座機能を一時凍結いたしました。
解除には名義人ご本人様のご署名ご承諾が必要です。
なお本件につきましては、勇者レオハルト様からも確認のご要請を頂戴しておりますが、名義人様のご承諾が優先となります。
速やかにご署名書類のご返送を──』
最後まで読んで、私は羽ペンを置いた。
喉の奥で、小さな笑いが転がる。
(駆け込んだんだ、あの人)
三日前に「お前は不要だ」と言った口で。
署名書類を広げ、返送用の一筆を添える。「名義人本人として、凍結処置を承認します」──の内容で。
インクが乾くのを待っている間、机の下でつま先を一度だけ跳ね上げた。
(……一勝、かしら)
自分で自分に尋ねて、「いえ、これはたぶん勝ちの数え方じゃなくて」と訂正する。負けた人が、自分で椅子から落ちただけ。拾いあげる手間もない。
◇
夕食は川魚の塩焼きと、薄切りのパンと、豆の残りで作った粥。
川魚はヴェルナーが釣ってきた。糸を垂れて半時ほどで三尾上がった、ということだった。前世の私なら「効率がいい」と呟いたかもしれない。この世界の川は、たぶん前世の川より豊かだ。
皿を片付けようと立ち上がった拍子に、隻眼の視線が机の上を滑った。帳簿の清書。銀行からの凍結通知。今日書き上げたばかりの複式簿記の見本表。
「お前」
「はい」
「これ全部、一人で書いたのか」
問いというより、ぽつりと落ちた呟き。
「あ、はい、一人で……その、他の人が書きたがらなかったもので」
隻眼が帳簿の表を辿っていく。日付、金額、取引相手。最後の一枚で目が止まった。他と書式が違う、今朝書いたばかりの見本表。
「これは、他と違うな」
「複式簿記と言いまして」
言ってから、あ、と思う。貴族令嬢の口調にしては馴染まない単語。取り繕おうとして、やめた。この人相手に、取り繕う意味もない。
「帳簿の書き方の一種です。取引を、お金の出どころと使われ方の両方で記録します。──要は、嘘がつけないんです」
「嘘」
「金がどこから来て、どこへ行ったか。両方書けば、どちらかが合わないときにすぐ見つかります。横領も、浪費も、割り増しも」
ヴェルナーは黙ったまま見ていた。ずいぶん長く見ていた。
やがて短く言った。
「俺が読めるように、書いておいてくれるか」
「え」
「団の金は俺が読める形で管理したい。いままで別の者に任せていた」
そのまま皿を重ねて台所の方へ歩いていく。背中が、とくに何かを意思表示しているふうでもない。ただの頼み事。ただの、それだけの。
(──今、引き受けてくれたんじゃないこの人)
(護衛の件の返事、まだのはずですけど)
耳の先が熱かった。ライナが私の顔を見て「あら」と小さく呟いたのを、聞こえないふりで、私は帳簿の頁を繰り直した。
◇
寝る前、もう一通伝書が届いた。
ゴードン商会。三年来の付き合いの商人。
短い便。
『王都にて勇者パーティ口座凍結の件、すでに市井に洩れております。
宿屋、仕立屋、武具屋──本日一日でうちに問い合わせが四件。
「エヴァ様の署名のない契約書は有効か」と。
お気をつけください、エヴァ様。
彼らが次に狙うのはあなたの取引先です。──その前に、圧力が来ます。
ゴードン』
便を机の端に置く。
窓の外で夜風が石壁を撫でる音がした。寝室の方から、ヴェルナーが馬の様子を見に行く足音が聞こえる。鉄具の鳴る小さな音。それだけが、今夜の砦の物音。
圧力が、来る。
私は明日の朝に書く伝書の順番を、指で数え始めた。




