パケットの波形、あるいは静かなる侵食
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分倍河原の路地裏。
ラーメン店『ふくみみ』の暖簾をくぐると、魚介と醤油の芳醇な香りが、仕事で逆立った脳内のノイズを優しく撫でるように消していく。
栞にとって、ここの中華そばは単なる食事ではない。すべての具材とスープが完璧な比率で構成された、「最適化された芸術」だ。
「……はぁ。やっぱり、このスープの和音は唯一無二やわ。脳内のバッファが綺麗にフラッシュされる……」
「そうだな。俺の視界にも、今日はいつもより多めに花びらが舞ってる気がする。……まあ、隣のやつのせいで余計なノイズも混じってるがな」
拓海がぶっきらぼうに麺を啜りながら、隣に座る栞を意識して呟く。「よみうりランド」以来、二人の間の通信プロトコルには、微細な熱を持ったパケットが常に滞留し続けている。
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和やかな時間は、拓海がカウンターの下から取り出した「今日の収穫物」によって一変した。それは、多摩川の河川敷で拾ったという、奇妙な多角形の黒い石板の欠片だった。
「これ、鼻が曲がるような薬品臭はしねえんだ。でも、妙に冷徹な……触るなと言われてるような威圧感があってさ」
栞がその欠片に手をかざすと、彼女の「聴覚」が激しい拒絶反応を起こした。
「……っ! なにこれ、音が……無い? 違う、これ『完全な静寂(Read-Only)』を強制するプロテクトがかかっとる」
それは、川に流れるような一般的なジャンクではない。
府中の西に位置する、あの特殊なノード――「熊野神社古墳」の深部、現代のツールではアクセス不可能なはずのアーカイブ層から剥離した、純粋な古代コードの断片だった。
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その時、店内の大型テレビが緊急ニュースを告げた。
『大阪・大仙陵古墳周辺にて、大規模な魔導ネットワーク障害が発生。現在、世界最大のサーバー群へのアクセスが制限されています。同時に、関東一円でも未知のパッチがブロードキャストされており――』
ニュースキャスターの声が、突如としてノイズに変わる。
栞の耳には、街中のスマホやスピーカーから漏れ出す音が、不気味に整然とした「軍歌のような行進のリズム」に書き換えられていくのが聴こえた。
「拓海、伏せて! 街のシステムが、外側から無理やり書き換え(Rebase)られようとしとる!」
窓の外、府中駅の方角から、冷徹な青い光のパルスが空を走る。正成の組織が、ついに地方の特殊ノードである府中の古墳群へ、直接アクセスを試み始めたのだ。
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店を出ると、空の色は不自然なほどに「整理された」青に変色していた。
拓海のポケットで、三枝が遺したリンクシェル『STM』が、かつてない激しさでアラートを点滅させている。
「……仕事の依頼主、三枝から届いたみたいだな。デバッグの最終段階だ」
「……知らんけど、なんて言うてる場合やなさそうやね」
引き出しに仕舞った「半年後の宿泊券」。
今のこれからは、花びらは見えない。
だからそれを本当の意味で「コミット」するためには、この世界規模のバグを修正するしかない。
二人は、冷たい薬品臭と不協和音が満ち始めた府中の街へと、一歩踏み出した。




