名前のないパケット(栞視点:内部ログの改竄)
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あの日、よみうりランドから帰ってきて以来、私の脳内メモリは常に不安定だった。
三枝堂のカウンターで、古い魔導書のインデックスを整理していても、ふとした瞬間にあの狭いゴンドラで触れた拓海の肩の熱が、消えない「残存キャッシュ」として蘇ってくる。
(……あかん、集中できへん。あんなん、ただの不運の連鎖が生んだバグや。……知らんけど)
手元の端末には、三枝から引き継いだ『STM』の膨大なログ。けれど、それ以上に私の「聴覚」を支配しているのは、あの雨宿りの時にすぐ隣で聴いた、拓海の不器用で真っ直ぐな鼓動のリズムだった。
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そこへ、拓海がいつものように店に現れる。
普段なら「よお」と挨拶するだけの彼が、今日はどこか挙動不審だ。手に持っているのは、府中駅前のパン屋で買ったらしい適当な差し入れの袋。
「……これ、昨日の不運の埋め合わせだ。悪かったな、変なとこ連れ回して」
「……別に、ええよ。チュロスはんぶんこした時点で、貸し借りなしや。知らんけど」
素っ気なく返しながらも、私の耳には彼の「ノイズ」がはっきりと届いていた。
言葉とは裏腹に、彼もまた、あの「半年後の約束」をどう扱っていいか分からず、脳内で無限ループを起こしている。
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二人で差し入れのパンを齧りながら、とり留めのない会話をする。
三枝の話題はもう出ない。けれど、三枝がいないこの空間を、拓海という存在が少しずつ、別の色で塗り替えていくのを私は感じていた。
「なあ、栞。……半年後って、意外とすぐだよな」
「……! あんた、何考えてるんよ。運を貯めるって言ったやろ。今のまま行ったら、箱根に着く前に旅館が爆発するわ!」
顔が熱い。
私は論理的な反論を試みるけれど、自分の声が少しだけ上ずっているのが分かってしまう。
今の私と拓海の関係には、まだ名前がない。
『三枝の友人』でも『共闘者』でもない、名前のないパケットが、二人の間を高速で行き来している。
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拓海が帰った後の店内で、私はひっそりと、預かったままの宿泊券をポケットから取り出した。
半年後。その時、私たちの関係はどう定義されているんだろう。
(……名前なんて、今はまだ、要らへんわ)
私は宿泊券を、店で一番大切な鍵付きの引き出しに仕舞い込んだ。
外から聞こえる府中の街の音に混じって、私の心臓が、あの日拓海が刻んでいたのと同じリズムを奏で始めている。
それは、どんな魔法のコードよりも難解で、けれど心地よい、「未解決の幸福」の音だった。




