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「天才」 第三部 背反  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第12章

 

 ディナーを楽しんでから二人は市内に戻った。スザンヌはニューヨークに近づくにつれて、アンジェラが何をしたかが気になった。アンジェラが母親に告げ口をした場合は、自分を弁護するためにもその場にいたかった。彼女は彼女なりにかなり論理的な結論にたどり着いていた。それは母親が猛反対した場合、ユージンと駆け落ちするというものだった。自分がどうすればいいかをはっきり知るためにも、母親があの情報をどう受けとめたかを知りたかった。たとえ明かされたすべての事実に向き合っても、自分なら干渉しないように母親を説得できると以前は感じていた。なのに、彼女は不安だった。そしてユージンの態度のせいで恐怖が生まれてある程度大きくなった。

 

 ユージンはあれほど強がっていても、本当はまったく安心していなかった。スザンヌを失うことを思えばどんな物を失おうが怖くはなかった。生まれてくる子供は、まだ二人に全然影響を与えていなかった。ユージンは、スザンヌを手に入れられない状況が発生するかもしれないことをはっきり理解していた。しかし状況はまだ確定的ではなく、それに、アンジェラが嘘をついているかもしれなかった。それでも、時折、良心が痛んだ。強烈な満足や、喜びの最高の興奮の真っ只中にいても、彼にはアンジェラがベッドに横になって、彼女を待ち構える惨めな未来と、彼女を苦しめるこれからの人生を考えている姿が見えたし、彼女があげた懇願のいくつかの反響が聞こえたからだ。それを締め出そうとするのは無駄だった。彼が受けているのはつらい試練であり、やっているのは非道だった。生きていく上でのすべての慣習と市民感情は彼と反対だった。もし世間が知れば、彼を激しく非難するだろう。ユージンはこれを忘れられなかった。自分を巻き込んだこのもつれは、この先も解けないとあきらめたときがあったが、それでも進もうと決めた。スザンヌに同行して彼女の友人のアルマーディング家に行く提案をしたが、スザンヌは気が変わって家に帰ることに決めた。「母が何か聞いたかどうかを確かめたいわ」スザンヌは言った。

 

 ユージンはスザンヌをスタテン島まで送り届けて、それから四時までにリバーサイドに着くように急げと運転手に命じなければならなかった。多少の後悔はあったが、アンジェラとの愛のある生活はとっくに終わっているから、これはあまり大した影響を及ぼさないというのが彼の言い分だった。スザンヌが少し待ってゆっくり進むことを望んだので、彼が予想していたほどアンジェラにとって悪い事態にはならなそうだった。彼はアンジェラに、彼の資産、株式、現金、その他の分割可能なものすべての半分と、家具のすべてを与えた上で、彼女が自分の道を進み、今すぐでも子供が生まれた後でもいいから、完全に彼と別れるか、それともこのまま居続けてすべてを黙認して無視するか、を選択させるつもりだった。彼女は、彼が何をするつもりでいるのかを、つまりスザンヌのために別居生活か秘密の逢瀬を続けるつもりなのを知るだろう。スザンヌがとても寛大だったので、ユージンはこの点を議論するのではなく主張するつもりだった。彼がスザンヌを手に入れて、アンジェラは条件だけを選んで従わなければならなかった。

 

 帰宅してみると、アンジェラに大きな変化が起きていた。今朝、ユージンが出かけたときは頑なで刺々しい雰囲気だったのに、午後は、ひどく悲しんではいたものの、これまでに見たときよりもずっと穏やかでなごやかだった。彼女の頑なな心が一時的にくだけて、加えて、避けられない運命に身を委ね、それを神の意志と見なそうとしていた。ユージンがたびたび非難してきたように、おそらく彼女が厳しくて冷たかったのかもしれない。おそらく彼女が厳しく束縛しすぎたのかもしれない。アンジェラはよかれと思ってそうしていたのだった。彼女は光と導きを求めて祈ろうとした。すると、しばらくして祝福のようなほんのり悲しいものが降りてきた。これ以上戦ってはいけないと思った。降伏しなければならない。神さまのお導きがあるだろう。部屋に入ったとき、彼女の微笑みが優しくうつろにユージンの不意を突いた。

 

 彼女の気持ちと、彼女の祈りと、自分に迫りつつある事態に直面しても必要なら彼をあきらめるという彼女の意志は、これまでに二人の間で交わされた何よりもユージンの心を動かした。夕食のときに彼はアンジェラの細い手と顔と悲しそうな目を見て、明るい思いやりのある態度をとろうと努めながら、彼女の向かいの席に座った。それから彼女の部屋に戻り、あなたが一番良いと思うことを何でもしますと彼女が言うのを聞いて涙を流した。無意識の抑えられない感情があふれ出て泣いてしまった。なぜ泣いたのかよくわからなかったが、すべての悲しみが……人生、人間の感情のもつれ、すべての人の近くに潜む死、老い、スザンヌ、アンジェラ、何もかもが……彼の心に触れた。するとユージンは脇腹を引きちぎりかねないほど震えた。今度はアンジェラが驚いて、彼のために悲しんだ。自分の目が信じられなかった。彼は後悔しているのだろうか?「こっちに来てよ、ユージン!」アンジェラは頼んだ。「ああ、ごめんなさい! ……そんなに愛しているの?……ああ、あなた、私が何かできればいいんだけど! そんなふうに泣かないでよ、ユージン。それがあなたにとってそんなに大切なら、私、あなたをあきらめるわ。あなたの声を聞くと胸が裂けそうよ。ねえ、お願いだから、泣かないで」

 

 ユージンは膝に頭を乗せて震えたが、アンジェラが立ち上がるのを見て、ベッドに駆け寄り、彼女を制止した。

 

「違うんだ」ユージンは言った。「これは一過性のものだ。僕にはどうすることもできない。きみにはすまないと思っている。自分が情けないよ。人生が悔やまれてならない。これじゃ天罰が下るね。僕にはどうすることもできないんだ。でもきみは立派な女性だよ」

 

 ユージンはアンジェラの傍らでうなだれて、泣きじゃくった。大きな痛ましい嗚咽だった。しばらくしてから我に返り、アンジェラに新しい勇気を与えてしまったことに気がついた。彼があまりに同情的に見えたので、彼の愛情は回復するかもしれない、スザンヌは遠ざけられるかもしれない、とアンジェラはさっそく思うだろう。ユージンはそれがありえないことだと知っていたので泣いたことを後悔した。

 

 二人はそこから、対話、口論、反感、また徐々に同情的な歩み寄りまで進んで、結局改めて仲たがいしただけだった。アンジェラはユージンをあきらめきれなかった。ユージンは、自分が二人の共有財産を分けること以外の何かをするよう求められていることがわからなかった。どんな形であれ、もう一切アンジェラとは関わりたくないと強く思っていた。同じ家に住むかもしれないが、それだけだった。スザンヌを自分のものにして、彼女のためだけに生きるつもりだった。どんな形であれ干渉しようとすれば、恐ろしい結果を迎えることになる、とアンジェラを脅した。もしデイル夫人と連絡を取ったり、スザンヌに何かを言ったり、仕事に支障が出ることをしたら、アンジェラとは別れるつもりだった。

 

「状況を説明するとね」ユージンは言った。「きみは僕の言うとおりにしても、しなくてもいい。しなければ、きみは僕と僕が言ったすべてを失う。言うとおりにすれば、僕はここに留まる。そうしようと思う。体裁を保ちたいのは山々だが、僕は自由が欲しいんだ」

 

 アンジェラはこのことを考えに考えた。一度はデイル夫人を呼び出して内緒で連絡を取り、スザンヌにもユージンにも事前に知らせないでスザンヌを寄り付かないようにしてもらおうと考えたが、これをしなかった。これこそアンジェラがやるべきことであり、デイル夫人も同意したであろうことだったが、恐怖と混乱が彼女を踏みとどまらせた。次はスザンヌに手紙を書くか話をするかだったが、スザンヌを前にしたときの自分の気持ちに自信がなかったので、手紙を書くことにした。月曜日、アンジェラはユージンが会社に出ている間に病床で長い手紙を書いた。その中で、自分の状況を何度も繰り返し、ユージンがすべきだと自分が思うことを述べながら、ユージンの人生の歴史をほぼ記した。

 

「彼はこの状態の私を無視できるのに、あなたには誠実だと、どうしたら思えるのですか、スザンヌ?」アンジェラはある箇所で尋ねた。「彼は他の誰に対しても誠実だったことがありません。あなたは自分の人生を投げ捨てるつもりですか? 今、あなたの地位は保証されています。彼はあなたに何を加えることができますか? それはあなたがまだ持っていないものですか。もしあなたが彼を奪えば、それは確実に知られます。傷つくのはあなたであって、彼ではありません。男性はこういうことから、特にこの手ののぼせ上がりから回復します。それに、世間はそれを何とも思いません。しかし世間があなたを許すことはないでしょう。それからはあなたは『悪い女』になり、子供でも生まれたら、取り返しがつかないことになるでしょう。あなたは彼を愛していると思っているのでしょうが、本当にそこまで愛しているのですか? これを読んだら立ち止まって考えてください。彼の性格を考えてください。私は慣れました。私は最初に間違えてしまい、変えようにも手遅れなのです。世間は私に何もしてくれません。私は悲しみや嫌悪を感じるかもしれませんが、少なくとも追放はされませんし、友人や世間を憤慨させることもないでしょう。でもあなたは……目の前にあるすべてのものを持っています。やがて誰かがあなたの前に現れるでしょう。その人はあなたが愛する人であり、あなたに求めることも、みすみすあなたを犠牲にすることもないでしょう。お願いだから考えてください! あなたに彼は必要ありません。結局こんなことを言うのは情けないのですが、私には必要なんです。事情は私があなたに言ったとおりです。あなたは本当にこの訴えを無視することができるのですか?」

 

 スザンヌはこれを読んで大変なショックを受けた。アンジェラがユージンを、こと女性に関する限り、移り気で、嘘つきで、不誠実と評したからだ。スザンヌは自分の部屋でこの問題をじっくり考えた。さすがにこれは彼女を躊躇させずにはいられなかった。しかし、しばらくするとユージンの顔が、彼の美しい心が、彼を取り巻くすべてのものを包み込むような楽しさと完璧さの雰囲気が、よみがえった。ユージンはまるで美の幻影だった。とても柔和で、とても甘美で、とても愉快だった! ああ、彼と一緒にいること、彼の美しい声を聞くこと、彼の激しい愛撫を感じること! 人生はこれとつり合う何を彼女に提供できただろう? それに、ユージンは彼女を必要としていた。彼と話し合い、手紙を見せて、それから決めることにした。

 

 ユージンは月曜日と火曜日の朝に電話をくれて、一日か二日してやってきた。氷室で待ち合わせて、いつものように意気揚々と笑顔で現れた。彼は会社に戻っていて、アンジェラが破壊の挙に出る差し迫った兆候にまったく気づかなかったので、勇気を取り戻していた。このすべてが……アトリエと愛するスザンヌの件が……丸く収まることを期待していた。二人が自動車の座席につくと、スザンヌはさっそくアンジェラの手紙を取り出して、何も言わずにユージンに手渡した。ユージンは静かにそれを読んだ。

 

 アンジェラは自分にもっと好意的だと思っていたので、ユージンはこれを読んで愕然とした。彼はスザンヌが彼の求愛に悩むか確信はなかったが、それでもこれが、このすべてが、本当なのは知っていた。運命は親切かもしれない。二人は一緒に幸せになるかもしれない。とにかく、今、彼は彼女のことがほしかった。

 

「それで」ユージンは手紙を返しながら言った。「これが何だっていうの? 彼女の言うことを信じるのかい?」

 

「そうかもしれないけど、どういうわけか、あなたと一緒だと、どうでもいい気がするの。あなたから離れているときは違うのよ。私、あまり自信がないわ」

 

「僕がきみの思うとおりのいい人かどうかもわからないかい?」

 

「何を考えたらいいのかわからないわ。彼女があなたについて言うことは、すべて本当だと思う。確信はないけど。あなたがいないときは違うのよね。あなたがいてくれると、すべてがうまくいくような気がするのに。私はそのくらいあなたを愛しているんだわ。ああ、わかりきったことよね!」スザンヌはユージンに抱きついた。

 

「それじゃあ、この手紙は本当に何も問題ないんだね?」

 

「はい」

 

 スザンヌは大きな丸い目でユージンを見た。これは昔からある話で、恋は盲目だった。二人は何マイルも走り……デイル夫人がその日、外出していたので……何かを食べるためにドライブインに立ち寄って海を眺めた。帰りの道は海を縁取るように続いていた。そして互いに何度もキスを交わした。スザンヌはすっかり夢中になり、これがどうのように始まっていくのかを正確に知ることができた。

 

「では、この件は私に任せて」スザンヌは言った。「私から母に伝える。ちゃんと理屈が通じれば、説得できると思うわ。これはそういうふうにした方がずっといいと思うの。私はごまかすのが嫌いなの。むしろこっちから母に話したいわ。それでやむを得なければ立ち向かうまでよ。でも、そうしなければならないとは思わない。母には何もできないわ」

 

「こればかりはわからないな」ユージンは慎重に言った。ユージンはスザンヌの勇気には随分敬服するようになっていた。そして、無鉄砲な行動をとらないように娘をおさえてくれる、というデイル夫人が彼に寄せる信頼をかなり当てにしていた。しかし自分たちの目的がどのように達成されるかまではわからなかった。

 

 ユージンは何も言わずにしばらくしてから不倫の関係を始めたかった。彼は全然急がなかった。スザンヌのことは欲しかったが、彼女への気持ちは単なる肉体的なものではなかったからだ。彼女は奇妙な読書と哲学のせいで、世の中に反抗していて、それがどうやって自分を傷つけるのかわからない、と主張した。

 

「でもね、スザンヌ、きみは人生をわかってないよ」ユージンは言った。「人生はきみを傷つけるんだ。ニューヨーク以外ならどこでも、きみを粉々にしてしまうよ。ここは大都会だ。世界都市だからね。ここは物事が完全に同じってわけじゃないんだ。でもとにかく、きみはそれらしいふりをしないといけないよ。その方がずっと楽なんだ」

 

「あなたは私を守れるの?」スザンヌはアンジェラが訴えた問題を持ち出してはっきりと尋ねた。「私だってしたくはないわ……できないわよ、今はまだね」

 

「わかるよ」ユージンは言った。「ああ、守れるとも、絶対に」

 

「じゃあ、それについて考えたいわ」スザンヌは改めて言った。「私はこういうことには正直でいたいの。母には言うだけは言っておきたいわね。行動するのはそれからよ。その方がはるかにいいわ。私の人生は私のものなんだから私がしたいようにするの。誰にも関係ないわ、たとえ母でもね。私が無駄にしたいと思えば、するかもしれないわ。ただ私はそんなことをしているとは思わないけど。私は自分で選んだように生きたいのよ。まだ結婚したくはないし」

 

 これは自分の人生で最も奇妙な経験だと感じながら、ユージンはスザンヌの話に耳を傾けた。こんなことは見たことも、聞いたことも、経験したこともなかった。クリスティーナ・チャニングの場合とは違っていた。彼女には考慮すべき芸術があった。スザンヌにはそういうものが何もなかった。彼女にあったのは、すてきな家庭、上流階級の将来、お金、幸せで安定した普通の生活を送るチャンスだった。確かにこれは愛だった。なのにユージンは途方に暮れていた。それでも、たくさんのいいことが、意識的にうまい具合に起きていたので、このすべては親切な神の摂理によって自分のために目論まれたのだと信じてしまいそうだった。

 

 アンジェラはすでに事実上屈服していた。スザンヌの母親だって屈するのではないか? アンジェラは母親には何も言わないだろう。デイル夫人はアンジェラよりも強くなさそうだった。スザンヌが言ったように、彼女なら母親をいいなりにすることができるかもしれない。もしスザンヌがやろうと決めたら、彼は本当に彼女をとめられるだろうか? スザンヌはある意味強情で、わがままだったが、急速に成長を遂げていて、ものすごく論理的に考えていた。ひょっとしたら彼女ならこのくらいのことはできるかもしれない。誰にそんなことがわかるだろう? 二人は、風がさざなみのように背の高い緑色の猫草を揺らす緑色の沼地を通って、手前に子供と鴨がいるかわいい農家の庭や、美しい邸宅や、遊んでいる子供たちや、ぶらぶらしている労働者たちを横目に、木々が顔をなでんばかりのすてきな小道を飛んで帰ってきた。その間ずっと、互いを元気づけ、変わらぬ愛を誓い、互いに寄りすがっていた。スザンヌもアンジェラと同じように、ユージンの顔を両手で押さえて、目をのぞき込むのが大好きだった。

 

「私を見てよ」ユージンが考えを変える可能性を悲しそうに取り上げたときに、一度スザンヌは言った。「まっすぐに私の目を見て。何が見える?」

 

「勇気と決意」ユージンは言った。

 

「他には?」

 

「愛だ」

 

「私が変わると思う?」

 

「いや」

 

「本当?」

 

「思わない」

 

「さあ、まっすぐ私を見て、ユージン。私は変わらない。私は変わらないわ、聞こえてる? あなたが私を欲しくなくなるまで、私はあなたのものよ。これで幸せになるかしら?」

 

「ああ」ユージンは言った。

 

「そして、私たちがアトリエを手に入れたら」彼女は続けた。

 

「僕たちがアトリエを手に入れたら」ユージンは言った。「家具を完璧にそろえて、少ししてから人寄せでもしようかな。きみは僕のかわいいスザンヌになるんだ、僕のフラワーフェイス、僕の咲き誇るギンバイカ。ヘレン、キルケ、ダイアネム」

 

「私はあなたの週末の花嫁になるのね」スザンヌは笑った。「どちらに転ぶのかしらね。女神それとも疫病神」

 

「それだけでも叶えばね」ユージンは別れ際に言った。「せめてそれだけでも」

 

「まあ見ててよ」スザンヌは言った。「あなたは成り行きを見てればいいの」

 

 数日が経過した。スザンヌは活動なるものを始めた。手始めに、夕食の席や母親と二人きりのときに、結婚の問題を取り上げて、この重要な問題について母親に探りを入れて発言を記憶に留めるつもりだった。デイル夫人は、いろんなことを哲学的に考えるのが大好きな経験主義的な思想家の一人だったが、自分自身の問題には決してはっきりとは適用しない人だった。この結婚の問題にしても、自分の肉親以外のすべての人に対しては、この上なく開放的で悟りきった意見を持っていた。夫人の考えでは、もちろん彼女の肉親以外の話だが、少女が成熟し、自分が健全で知的な成人だと思うものになって、そのときまでに結婚がもたらす状況に満足せず、結婚したくなるほど熱烈に愛している男性はいなくて、自分の評判に傷をつけることなく強い愛欲を満たせる何かの手段を準備できたなら、それは当人が処理すればいい問題だった。デイル夫人には特に異論はなかった。不幸な結婚あるいは政略結婚をしたために憧れの男性とそういう関係を続けている上流階級の女性を彼女は知っていた。社交界の外では、これに関係する最も厳格なモラルについて水面下で微妙な了解があった。それに、守旧派の厳しい慣習を笑う享楽的な一派があって、時々彼女は歓迎されて出入りしていた。用心に越したことはない……極力用心しなければならない。尻尾をつかまれてはならなかった。しかし、つかまれなければ、まあ、誰の人生でもルールを決めるのは、その人自身だった。

 

 スザンヌはこの意見のどれとも関係がなかった。スザンヌは名門とも結婚できる美しい少女で、しかも彼女の娘だった。デイル夫人は富や肩書きだけのために、巨万の富と肩書きしか取り柄のない惨めな人と娘を結婚させたくなかった。例えばユージンのような、優れた社会的地位や富、あるいは本物の個人的才能を持つふさわしい青年が現れて、スザンヌと結婚することを願っていた。どこかの有名な教会で盛大な結婚式が行われるだろう……セント・バーソロミュー教会あたりで。豪華な結婚披露宴、たくさんの贈り物、すてきなハネムーン。スザンヌを見て、どんな楽しい母親になるのだろう、とよく考えたものだった。とても若くて、壮健で、活発で、有能であり、表にこそ出さないが情熱的だった。踊ると、どれだけ熱心に人生をうけとめているかが伝わった。いい青年が現れるだろう。それも長くはかかるまい。このすてきな春の日々が、近いうちに活躍するだろう。実際、色目を使う男は大勢いたが、スザンヌは誰一人相手にしなかった。恥ずかしがり屋で、照れ屋で、人目を避けたがる様子だったが、何よりも恥ずかしがり屋だった。母親は、娘の頭脳に押し寄せていた過激で無秩序な反社会的思考と同じように、このすべてを隠した鉄の意志をまったく知らなかった。

 

「ねえ、お母さんは、女の子は結婚すべきだと思う?」 ある晩、二人きりになったときに、スザンヌは母親に尋ねた。「もし結婚を一生耐えられる状態だと考えなければの話なんだけど?」

 

「いいーえ」母親は答えた。「どうしてそんなことを聞くの?」

 

「だって、お母さんは、私たちが知っている結婚した人たちの間にあったたくさんのトラブルを見てるでしょ。ああいう人たちって、一緒にいてもあまり幸せじゃないんだもの。人は独身のままでいた方がいいんじゃないかしら? それに本当に愛せる人が見つかっても、幸せになるのに必ずしも結婚する必要はないでしょ?」

 

「最近、どんな本を読んだの、スザンヌ?」目に少し驚きの表情を浮かべて顔をあげながら母親は尋ねた。

 

「最近は何も読んでないわ。どうしてそんなことを聞くの?」母親の声の変化に気づいたので、スザンヌは上手に切り返した。

 

「あなたはどんな人と話をしていたの?」

 

「あら、それがどうしたっていうの、お母さん? 私はお母さんがまったく同じ意見を言うのを聞いたことがあるんだけど?」

 

「そうね、言ったかもしれないわ。でも、そんなことを考えるには、あなたは若過ぎると思わない? 哲学的に物事を論じているときだって、自分が思うことのすべてを言うわけじゃないわ。すべてを支配する条件ってものがありますからね。もし女の子がうまく結婚できなかったら、もし容姿とかお金がないのが障害だったら……理由はたくさんあるでしょうけど……そういう事情があるなら、許されるかもしれないけど、でも、どうしてあなたがそんなことを考えなくてはいけないの?」

 

「美人だから、少しお金があるから、上流階級とも結婚できるからってね、お母さん、それで私が結婚したがることにはならないわ。私は結婚なんかしたくないのかもしれない。多くの人たちがどういう状況かをお母さんが見るのと同じで、私だって見るもの。どうして私だとだめなのかしら? そのとき、私はすべての男性を遠ざけなければならないの?」

 

「まあ、スザンヌ! あなたがこんな議論をするのをこれまで聞いたことがなかったわ。最近、誰かと話をしたか、何か過激な本でも読んだのね、きっと。お願いだからそんなこと考えないで。あなたは若くて見た目も良すぎるほどなんだから、そんな考えで遊ぶんじゃありません。だって、あなたなら、ほとんど望みどおりにどんな青年でも手に入れられるでしょ。きっとあなたなら、一緒に幸せに暮らせる相手や、この人となら一緒に暮らしてみたいと思う相手を見つけられるはずだわ。やってみて失敗したときに、他のことを考えればいいのよ。少なくとも、こんな御託を並べる前に、人生について何かを学ぶ時間を十分に作れるでしょ。あなたはまだ若いんですからね。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」

 

「お母さん」スザンヌはほんの少しだけむっとして言った。「私にそういう言い方をしないでほしいわ。私はもう子供じゃないわ。大人の女性なのよ。考え方だって大人よ……子供じゃないわ。私にだって自分の意見や多少の考えがあることをお母さんは忘れてるわ。私は結婚したくないのかもしれない。するとは思わないの。もちろん、今私を追い回してる愚かな生き物の誰ともしないわ。私が望んでも、私は独身のままでどこかの男性と一緒になってはいけないのかしら? 私よりも前にだって他の女性たちがしてきたことでしょ。たとえしていなくても、私がしていけない理由にはならないでしょ。私の人生は私のものなんだから」

 

「スザンヌ・デイル!」恐怖の震えが心臓の繊維を駆け抜け、母親は立ち上がりながら叫んだ。「あなたは何の話をしているの? あなたは、私が過去に言った何かをもとにして、こんなことを考えているの? だとしたら確かに、身から出た錆ね。あなたは結婚したいとかしたくないとかを考える立場にないでしょ。男性のことをほとんど何も知らないんだから。どうして今そんな結論を出さなきゃいけないの? お願いだから、スザンヌ、早まってそんな恐ろしいことを考え始めないでちょうだい。二、三年かけて世の中をよく見てごらんなさい。お母さんはあなたに結婚しろと言ってるんじゃないのよ。でも、あなたが愛してやまない人、あなたのことを愛してくれる人に出会うかもしれないでしょ。もしあなたが立ち止まって確認せず、人生があなたのために何を用意してくれたのかを見せてくれるのを待ちもせず、今もてあそんでいるこんな愚かな意見の陰に自分を投げ捨てることにでもなったら、あなたはその人に何を差し出すつもりなの? スザンヌ、スザンヌ」……スザンヌはもどかしくなって窓の方を向いてしまった……「恐ろしい娘ね! そんなことはない、そんなことがあってたまるもんですか。ねえ、スザンヌ、お願いだから、何を考えて、何を言い、何をするかに気をつけてね! あなたのすべての考えを知ることは、母さんだってできないわ。そんなことできる母親なんていないもの。でもね、立ち止まって考えて、少し待ちなさい!」

 

 デイル夫人は、鏡のところへ行って髪にリボンをつけ始めたスザンヌを見た。

 

「お母さんって」スザンヌは冷静に言った。「ほんと、面白いわね。外で人さまと夕食をとるときと、ここで私と一緒にいるときとじゃ、言うことが違うんだもの。私はまだ取り返しのつかないことはしてないわ。自分が何をしたいのか、わかっていないんだもの。私はもう子供じゃないのよ、お母さん。そのことは覚えておいて。これでも大人の女性よ。もちろん自分の人生設計くらい自分でできるわ。お母さんがやっているようなことをやりたくないのは確かだわ……言うこととやることが違ってるってことよ」

 

 デイル夫人はこの胸をえぐる言葉にすっかりひるんでしまった。スザンヌは突然、議論の流れの中で、覚悟のほどと、論理の率直な力強さと穏やかさを発展させ、母親を驚かした。この娘はどこでこんなものを身につけたのだろう? 誰と付き合っていただろう? 夫人は、娘がこれまでに出会ったり知り合ったりした女性や男性を頭に思い浮かべた。娘の親しい友だちは誰だろう?……ヴェラ・アルマーディング、リゼット・ウッドワース、コーラ・テネック……賢く、聡明で、社会経験の豊富な娘が六人浮かんだ。仲間内ではこういう話をしているのだろうか? 彼女たちと過度に親密な男性がいるのだろうか? このすべてを解決する方法はひとつしかなかった。スザンヌがこのような考えに陥って、それを吸収する気でいるのなら、すぐに行動を起こさなければならない。旅行だ……二、三年娘と一緒に立て続けに旅行して、女の子が悪影響を受けやすいこの危険な時期を守る必要があった。ああ、口は災いの元だ! それにしても愚かなことを考えたものだ! 彼女の言ったことがすべて事実なのは間違いなかった。大体がそういうものなのだ。しかしスザンヌが! 娘のスザンヌに限ってまさか! 彼女は時間があるうちに娘を連れ去り、年齢を重ねて成長させ、経験を通してもっと賢くなってもらうつもりだった。若い娘と男性がこんな話をしたり主張したりしているところに、娘が居続けるのは決して許されることではない。これからはスザンヌの読むものにもっとじっくり目を通そう。娘の交友関係に目を光らせよう。こんなにかわいい娘が、このような情けない反社会的な無秩序な考えによって堕落させられねばならないとは、何て残念なことだろう。いったい、彼女の娘はどうなってしまうのだろう? 彼女はどういう立場でいたいのだろう? 神さま! 

 

 デイル夫人は足元で広がり続けるこの社会の裂け目を見下ろし、怖くなってたじろいだ。

 

 断じてあってはならないことだ! スザンヌはただちに彼女自身からも、そんな考えからも、救われなければならない。

 

 そしてデイル夫人は、どうすれば簡単にうまく旅行の話を切り出せるかを考え始めた。相手を警戒させないように……母親が圧力をかけていると思わせないように……スザンヌを誘わなくてはならなかった。しかし、これからはここに新しい秩序が確立されねばならなかった。デイル夫人は話し方を改めなくてはならなかった。行動を改めなくてはならなかった。スザンヌと子供たちみんなは、自分たちからも他人からも守られなくてはならなかった。これが、この会話がデイル夫人に教えた教訓だった。

 


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