六十五 恥は、傷つけられた者のものにあらず
身分ある男から無礼な扱いを受けた女房が、恥を恐れて黙ろうとする。彰子は「秋胡の妻」の逸話を思い出し、被害者に恥を負わせる社会こそ間違いだと怒る。証人・記録・安全な退避先を整え、男側に正式抗議する。宮廷恋愛の陰にある暴力を扱う重めの回。彰子の毒舌は笑いではなく、刃になる。
恥を負うべき人間を、間違えてはいけない。
前世で、私はそれを何度も思いました。無礼なことをされた人が、なぜか黙る。傷つけられた人が、なぜか隠れる。怖い思いをした人が、なぜか自分を責める。
「あの時、笑って流せばよかったのでは」
「自分にも隙があったのでは」
「大ごとにしたら迷惑では」
「相手は身分がある人だから」
「言っても信じてもらえないかもしれない」
「むしろ、こちらが噂されるかもしれない」
そうやって、被害を受けた側が、自分の口を塞ぐ。そして、周囲もそれを暗に求める。
「騒がない方がいい」
「あなたのためよ」
「忘れなさい」
「相手も悪気はなかったのでは」
「そんな話が広まったら、あなたの評判が」
違う。違うだろう。
評判を失うべきは、無礼なことをした側だ。恥じるべきは、力の差に乗じて人を傷つけた側だ。なのに世の中は、しばしば被害者に恥を背負わせます。それは、二度目の暴力です。
そして、ここは平安宮中。言葉は雅で包まれる。恋は歌にされる。文は香をまとい、夜の訪れは物語になる。でも、その陰に、すべてが美しいわけではありません。
望まぬ文。しつこい訪れ。断りにくい身分差。御簾越しに差し入れられる手。冗談のふりをした侮り。「女房ならそれくらい」と流される無礼。
宮廷恋愛という言葉は、美しい。でも、その美しい布の下に、暴力が隠れることがあります。私は、それを見ないふりはしません。
その日、薄墨の君が最初に気づきました。彼女は、以前「役に立たない」と馬鹿にされた女房です。でも今では、藤壺のかすかな揺らぎを聞く耳です。
薄墨の君は、宴の後、いつもなら片付けを手伝う撫子の君が、几帳の陰から動かないことに気づきました。
撫子の君。
若い女房だった。歌はまだ拙いが、字が柔らかく、春枝の紙選びをよく手伝っていた。目立つ方ではない。でも、よく笑う子でした。
その撫子の君が、笑っていなかった。袖を強く握り、顔色が白い。香の匂いも乱れている。いつもの彼女なら、紙を丁寧に揃えるのに、その日は指先が震えていた。
薄墨の君は、何も問い詰めなかった。ただ、そばに座った。しばらくして、撫子の君は小さく言ったらしい。
「……私が悪いのでしょうか」
その一言で、薄墨の君は赤染衛門を呼んだ。赤染衛門は、私に知らせた。藤壺の空気が、静かに固まった。
私は撫子の君を、人目の少ない部屋へ呼んだ。そこには、私、赤染衛門、有子、薄墨の君だけを置いた。
常盤は外の気配を見張る。若菜は香を弱くし、澄子は灯を柔らかくした。春枝は紙を用意したが、部屋には入らない。
菅原の君は泣きそうだったので、少し離れてもらった。真葛の君は怒りで棍棒どころか斧槍になりそうだったので、赤染衛門が目で止めていた。
撫子の君は、震えていた。
「話せるところだけでいいです」
私は言った。
「今すぐ全部を言わなくてもよいです」
撫子の君は、涙をこぼした。
「ある男君に……宴の後、呼び止められました」
有子の筆が動く。ただし、急かさない。
「身分ある方です。私などが逆らえば、無礼になると思いました。最初は歌のことを尋ねられただけで……でも」
撫子の君は、言葉を詰まらせた。薄墨の君が、そっと水を差し出す。撫子の君は、それを受け取って、小さく続けた。
「近くに寄られて、袖を取られました。『藤壺の女房は近頃評判だが、そなたも中宮様のように冷たいのか』と笑われて……返してくださいと申したのに、聞いてくださいませんでした」
部屋の空気が冷えた。私の手の中で、扇が硬くなる。
「それ以上は」
撫子の君は、顔を伏せた。
「常盤の君が通りかかった気配がして、その方は離れました。何も……何も、それ以上はございません。でも」
涙が落ちた。
「怖くて。気持ち悪くて。私が、もっとはっきり断ればよかったのでしょうか。最初に歌の話など聞かなければ。笑ってしまったから、軽く見られたのでしょうか」
「違います」
私は即答した。撫子の君がびくりとした。
「あなたは悪くありません」
声が、自分でも驚くほど低かった。
「袖を取ったのは相手です。返してほしいという言葉を無視したのも相手です。身分差を使って、あなたを怖がらせたのも相手です」
撫子の君は、泣きながら首を振る。
「でも、こんなことを言えば、私が噂になります。あの方は身分もあり、歌も知られていて……私の方が、誘ったと思われるかもしれません」
それだ。それが一番腹立たしい。被害に遭った人が、まず自分の評判を心配する。相手ではなく、自分が疑われることを恐れる。その仕組みが、加害を守っている。
私は、異国の書である『列女伝』の物語を思い出した。
秋胡の妻。結婚してすぐに夫が役人として遠方へ旅立ち、残された妻は五年間、夫を待ち続けて貞節を守った。
しかし、ようやく故郷へ戻ってきた夫は、道端で桑摘みをしている美しい女を見かけ、それが自分の妻だと気づかずに、金品をちらつかせて言い寄った。
妻はそれを拒絶して家に帰るが、その後、家へ戻ってきた夫が「あの時の不埒な男」であったことに気づく。
貞淑な妻として称えられる彼女は、夫の卑劣な振る舞いを恥じ、自ら川へ身を投げて命を絶った。
後世は、彼女を美談のように語る。貞節。名誉。悲劇。けがれなき心の証明。でも、私は思う。なぜ彼女が死ななければならなかったのか。悪いのは、彼女ではない。恥じるべきは、金品で女を買い叩こうとした無礼な男の方だ。
それなのに、彼女は自分の命をもって潔白と誇りを示さなければならなかった。そんな社会こそ、間違っている。私は扇を置いた。
鳴らさない。
今日は、いつもの「ぱちり」で場を整える回ではない。これは、笑いにしてはいけない。
「『列女伝』にある、秋胡の妻の話を知っていますか」
撫子の君は、涙の中で首を振った。赤染衛門が筆を構える。でも、その顔はいつもより硬い。
「遠い異国の昔に、無礼な男の振る舞いを受けた女性がいました」
私は言った。
「彼女は、相手の卑劣さを自分の恥のように思い詰まりました。そして、潔白を証明するように自ら命を絶ちました」
撫子の君が息を呑む。
「その物語は、貞節の鑑として語り継がれています。けれど、私は思います。彼女が死なずに済む世であるべきだったと」
赤染衛門の筆が止まる。私は続けた。
「被害者に恥を負わせる社会こそ、間違いです」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。撫子の君は、顔を覆って泣いた。薄墨の君がそっとそばにいる。私は、有子を見た。
「記録を取ります。ただし、撫子の君の名は、許可なく外へ出しません」
「承知しました」
有子の声は静かだが、強かった。
「まず安全確保です」
赤染衛門が頷く。
「撫子の君は、今夜は一人にしません。信頼できる女房の部屋へ」
「薄墨の君、お願いできますか」
「はい」
薄墨の君は即答した。
「若菜には、落ち着く香を。強い香は不要です」
「伝えます」
「澄子には、灯を柔らかく。夜に影が強くならないように」
「はい」
「常盤」
私は外へ声をかけた。常盤が静かに入る。
「その男の動きを確認してください。ただし、騒がない。誰と一緒にいたか、宴後どこを通ったか、誰が見ていたか」
「承知しました」
常盤の顔から、いつもの軽さが消えていた。
「有子。時刻、場所、宴の参加者、撫子の君が最後に確認された位置、常盤が通りかかった時刻を整理」
「はい」
「赤染衛門。正式抗議の文案を準備します。ただし、撫子の君の名を晒さず、まずは『藤壺の女房への無礼な振る舞い』として扱います」
「承知しました」
真葛の君が、部屋の外で声を抑えて言った。
「姫様。私も」
「真葛の君」
「はい」
「怒ってください。ただし、文にする時は事実だけを」
しばらく沈黙があった。
「……承知しました」
怒りを消す必要はない。ただ、怒りを証拠の形に整える。復讐は未来を焼く。でも、抗議は必要だ。損切りではなく、今回は正式な防衛です。
私は、撫子の君に向き直った。
「あなたに確認します」
彼女は涙を拭った。
「この件を、正式に扱ってよいですか。あなたの名は守ります。ですが、相手側には抗議します」
撫子の君は震える。
「もし、私の名が」
「守ります」
「でも」
「それでも怖いと思います」
私は言った。
「だから、あなたが嫌なら、今すぐには進めません。ただし、あなたが悪いことには絶対にしません」
撫子の君は、長い間黙っていた。やがて、小さく言った。
「……私のような者が黙れば、また誰かが怖い思いをするでしょうか」
胸が痛んだ。被害を受けた人に、次の誰かの責任まで背負わせてはいけない。私は首を横に振った。
「それは、あなた一人が背負うことではありません」
「でも」
「これは藤壺の問題です」
私は言った。
「あなた個人の恥ではありません。御殿に仕える女房の安全を脅かされた問題です」
撫子の君は、ようやく顔を上げた。
「……扱ってください」
「分かりました」
そこから、藤壺は静かに動いた。まず、撫子の君の退避先を整えた。薄墨の君がそばに付き、夜の間は一人にしない。若菜の香はごく淡く、澄子の灯はやわらかい。
春枝は、書きたい時にだけ書ける紙を用意した。菅原の君は泣きながら「何か言葉を」と言いかけ、赤染衛門に「今は聞くこと」と止められた。
次に、証人を集めた。常盤が、宴後の動線を確認した。
撫子の君が廊の端にいたことを見た女房が一人。問題の男がその後を追うように動いたのを見た蔵人が一人。常盤自身も、男が撫子の君の袖から手を離す瞬間を遠目に見ていた。
常盤は言った。
「私は、あの時、ただ妙だと思っただけでした。もっと早く」
「あなたのせいではありません」
私は言った。
「今、証言できることが大事です」
有子が記録する。
証言は、言葉を揃えない。それぞれが見たものだけを書く。推測は分ける。時刻を明記する。撫子の君の名は、内部記録では仮名にする。
赤染衛門が文案を書く。
――先日の宴の後、当方女房に対し、御身分に任せた無礼なる振る舞いがありました。
――当人は恐れと恥を覚え、御殿内にて保護しております。
――このような行いは、歌や戯れの名で許されるものではございません。
――今後、当方女房への接近を禁じ、正式な詫びを求めます。
強い。かなり強い。赤染衛門の文は雅だが、刃がある。真葛の君が、それを読んで言った。
「もっと相手の非を」
「事実で十分です」
赤染衛門が静かに言う。
「刃は研ぎすぎると、折れます」
真葛の君は、唇を噛んで頷いた。抗議先は、男本人だけではない。その後ろ盾にも送る。さらに、信頼できる公卿を一人、立会いの形にする。
韓非子で学んだ。情だけではなく、制度で扱う。荘王に学んだ。訴えは時機と場を整える。怒りを燃やし尽くすのではなく、未来を守る形にする。これまでの覚が、ここで全部つながる。
藤壺は、単に物語を読む御殿ではありません。女房を守る御殿です。
正式抗議の日。相手の男は、最初、軽く見ていた。
「戯れが過ぎたなら、申し訳ない」
その程度の顔だった。私は、その言葉を許さなかった。
「戯れではありません」
室内が静まる。同席した公卿が、こちらを見る。
「相手が返してほしいと申し上げた袖を離さず、身分を笠に着て怯えさせた。それを戯れとは言いません」
男の顔色が変わった。
「私は、そのようなつもりでは」
「つもりは関係ありません」
私の声は、冷たかった。
「相手が恐怖を覚え、今も安全確保を必要としている。それが結果です」
赤染衛門が控えている。有子は記録を持っている。常盤は証言者として控えている。真葛の君は沈黙しているが、目が燃えている。薄墨の君は、撫子の君のそばについているのでここにはいない。
男は、なお言った。
「ですが、名を出さぬままでは、こちらも」
「名を出さないのは、被害を受けた女房を守るためです」
私は遮った。
「あなたには、日時、場所、証言、目撃者を示しています。必要な事実は十分です」
同席した公卿が記録を見た。
「確かに、これは軽く扱えぬ」
男は黙った。後ろ盾の者も、顔を険しくした。ここで大切なのは、相手を公衆の面前で破滅させることではない。
撫子の君の安全。再発防止。藤壺の女房に手を出せば正式に抗議されるという前例。それを作ることです。私は言いました。
「求めることは三つです」
有子が控えを出す。
「一つ。当方女房への直接の接近を禁じること」
「二つ。本人および御殿への正式な詫び」
「三つ。今後、宴後の女房の移動に男房が不用意に近づかぬよう、双方で手順を定めること」
男は唇を噛んだ。最初は抵抗した。でも、証言と記録、立会いの公卿、そして後ろ盾の面子がある。ここで突っぱねれば、彼自身だけでなく家の評判にも関わる。
最終的に、詫びは出された。もちろん、完璧な謝罪ではありません。男の面子を守る文言も混じっていた。でも、重要なのは、正式記録に残ったことだ。
「戯れ」で流させなかったこと。女房側の訴えを、御殿が受け止めたこと。相手に接近禁止を認めさせたこと。それで十分とは言いません。でも、泣き寝入りではありません。
撫子の君に結果を伝えると、彼女はしばらく黙っていた。
「私の名は」
「出していません」
「相手は」
「接近しません。もし破れば、次はより大きく扱います」
撫子の君は、涙をこぼした。
「私は、汚れたわけではないのですね」
その言葉に、部屋の中の全員が息を止めた。私は、はっきり言った。
「汚れていません」
撫子の君は泣いた。今度は、少しだけ違う涙だった。怒りと安堵と、まだ消えない恐怖が混じった涙。すぐには癒えない。そんな簡単な話ではありません。
でも、少なくとも、彼女が一人で恥を抱えて沈む道は断った。菅原の君は泣きながら紙を握っていた「物語にしてよいですか」と言いかけて、自分で口を押さえた。
偉い。
紫式部は、静かに言った。
「書くなら、本人の許しを得て、形を変え、傷をさらさぬように」
「はい……」
撫子の君は、小さく笑った。
「いつか、同じように怖い思いをした人が、自分は悪くないと思える話なら」
紫式部が深く頷いた。
「覚えておきます」
その日、藤壺には新しい覚が加わりました。
――女房への無礼を泣き寝入りにせぬ覚。
赤染衛門が書いた項目は、いつもより少なかった。でも、一つ一つが重かった。
一、被害を受けた者に恥を負わせない。
二、まず安全な退避先を確保する。
三、本人の意思を確認し、名を守る。
四、証人・時刻・場所・状況を記録する。
五、噂ではなく正式抗議として扱う。
六、加害側に接近禁止と詫びを求める。
七、再発防止の手順を作る。
八、傷を物語や噂の材料にしない。
最後に、私は一文を加えさせた。
――恥は、傷つけられた者のものにあらず。
赤染衛門は、その文字をゆっくり書いた。その筆跡は、いつもより少し硬かった。
定子方からは、噂が来た。
「藤壺が男君に正式抗議をしたとか」
「ずいぶん大げさな」
「女房の袖を取った程度で」
「恋の戯れも通じぬ御殿ですこと」
常盤が、それを報告しながら、珍しく怒りを隠さなかった。
「姫様」
「はい」
「どう返しますか」
私は扇を手に取った。鳴らさない。今日は鳴らす必要がない。
「こう流してください」
「はい」
「藤壺では、嫌がる女房の袖を取ることを、恋とは呼びません」
常盤の目が、鋭く光った。
「承知しました」
赤染衛門が静かに言った。
「姫様、その一文は刃ですね」
「はい」
「笑いではありませんね」
「笑いにしません」
これは毒舌ではありません。刃です。相手を笑わせるための言葉ではありません。線を引くための言葉です。
宮廷恋愛は、美しくあってよい。歌も、文も、香も、夜の気配も、物語になってよい。でも、同意のない接近を恋に混ぜるな。嫌がる相手の袖を取るな。身分で黙らせるな。怖がった女を、後から「恥」と呼ぶな。
それは雅ではありません。ただの暴力です。撫子の君は、しばらく藤壺の奥で過ごしました。すぐに宴へ戻る必要はありません。春枝の紙を手伝う日もあれば、薄墨の君と静かに過ごす日もあった。若菜の香を少しずつ嗅ぎ分け、澄子の灯のそばで短い文を書いた。
ある日、彼女は私に言いました。
「姫様」
「はい」
「私は、前より少し怖がりになりました」
「当然です」
「でも、前より少し、怒れるようにもなりました」
「それは大事です」
「怒ってよいのですね」
「はい」
私は静かに言った。
「怒りは、あなたの尊厳が傷つけられたことを知らせる声です」
撫子の君は、泣きそうに笑った。
「では、少しずつ、その声を聞きます」
「はい」
藤壺の女房たちも変わった。
宴後の動線を複数人で確認する。若い女房を一人にしない。花橘の君は儀礼の距離をさらに厳密にした。真葛の君は「それは不適切です」を、棍棒ではなく盾として使えるようになった。常盤は、噂を防波堤に変えた。
藤壺は、少し硬くなったかもしれない。でも、それでかまいません。柔らかい場を守るには、硬い境界線が要ります。
私は、異国の書に記された秋胡の妻を思う。
彼女の悲劇は、貞節の美談として語り継がれています。でも、私は、彼女が生きて怒れる物語が欲しかった。恥を自分のものにせず、「恥じるべきはあなただ」と男を責め、周囲がそれを支え、加害者が責任を負う物語が。
藤壺では、そうします。少なくとも、この御殿の中では。私は扇を手に取った。今度は、静かに鳴らした。
ぱちり。
女房たちが姿勢を正す。
「被害を受けた者に、恥を負わせてはいけません」
赤染衛門が筆を構える。
「怖かったこと、嫌だったこと、拒んだこと。それを言える場を作ること。証人を集め、記録を残し、安全を確保し、正式に抗議すること」
撫子の君は、薄墨の君の隣で聞いていた。
「宮廷恋愛の名で、暴力を隠してはなりません」
赤染衛門が、最後の一行を書いた。
――恥は、傷つけられた者のものにあらず。
藤壺の棚に、また一枚、覚が増えた。
――女房への無礼を泣き寝入りにせぬ覚。
この覚は、他の覚よりも重い。香の導線でもない。歌合の運営でもない。語りの区切り方でもない。女房たちが、ここで働き、笑い、物語を読み、紙を選び、香を焚き、歌を詠むための、土台の覚です。
安全がなければ、雅はない。尊厳が守られなければ、文化は育たない。藤壺は、物語の御殿である前に、女房たちが傷を一人で抱えなくてよい御殿でありたい。
列女伝の悲劇を、泣き寝入りや美談で終わらせない。
それは、遠い昔の物語への、私なりの返歌だった。
〜 出典 〜
『列女伝』巻五 節義伝 「魯秋潔婦」
潔婦者、魯秋胡子妻也。既納之五日、去而宦於陳、五年乃帰。未至家、見路旁婦人採桑、秋胡子悦之、下車謂曰、「若曝採桑、吾行道遠、願託桑蔭下飡、下齎休焉。」婦人採桑不輟、秋胡子謂曰、「力田不如逢豊年、力桑不如見国卿。吾有金、願以与夫人。」婦人曰、「嘻。夫採桑力作、紡績織紝、以供衣食、奉二親、養夫子。吾不願金、所願卿無有外意、妾亦無淫泆之志、収子之齎与笥金。」秋胡子遂去。至家、奉金遺母、使人喚婦至、乃向採桑者也、秋胡子慚。婦曰、「子束髪修身、辞親往仕、五年乃還、当所悦馳驟、揚塵疾至。今也乃悦路傍婦人、下子之装、以金予之、是忘母也。忘母不孝、好色淫泆、是汚行也、汚行不義。夫事親不孝、則事君不忠。処家不義、則治官不理。孝義並亡、必不遂矣。妾不忍見、子改娶矣、妾亦不嫁。」遂去而東走、投河而死。君子曰、「潔婦精於善。夫不孝莫大於不愛其親而愛其人、秋胡子有之矣。」君子曰、「見善如不及、見不善如探湯。秋胡子婦之謂也。」詩云、「惟是褊心、是以為刺。」此之謂也。頌曰、秋胡西仕、五年乃帰、遇妻不識、心有淫思、妻執無二、帰而相知、恥夫無義、遂東赴河。
(要約)魯の国の役人である秋胡は、結婚してわずか5日で単身赴任し、5年ぶりに故郷へ帰ることになりました。その道中、道端で桑の葉を摘んでいる美しい女性を見かけ、秋胡は下心を出して「黄金をあげるから休んでいきなさい」とナンパをします。しかし女性は、「私は義父母や夫を養うために真面目に働いています。黄金などいりませんし、不貞を働く気もありません」とピシャリと撥ね退けました。秋胡は諦めて家へと急ぎます。家に着いた秋胡は、母親に挨拶をして黄金を渡し、5年ぶりに妻を呼びました。しかし、目の前に現れた妻は、なんと先ほど自分が道端でナンパした女性だったのです。妻は夫を激しく非難します。「急いで母のもとへ帰るべきなのに、道端の女にうつつを抜かし、母に渡すはずの黄金を他の女にやろうとするなんて親不孝です。親不孝で好色な人間が、まともに君主にお仕えできるはずがありません」妻は「このような不義の夫とは一緒にいられません。あなたは別の女性と再婚しなさい。私はもう誰にも嫁ぎません」と言い放つと、そのまま家を飛び出して川に身を投げ、命を絶ってしまいました。
〜 舞台背景 〜
『列女伝』(れつじょでん、簡体字: 列女传、英語: Biographies of Exemplary Women)は、中国の女性の史伝を集めた歴史書。様々な時代や階層に属する女性の言動・事跡を記録した伝記の類型を指す。前漢時代に劉向によって著された『列女伝』は、中国古代における史上初の女性類伝(女性の伝記集)であり、正史(紀伝体史書)から独立した伝記体として単独で成書され、現存する中で最も早い雑伝(雑史:正史の資料となり得る、個人の事跡や私的な出来事を記した史伝)である。出典:wikipedia




