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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜  作者: 条文小説


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六十五 恥は、傷つけられた者のものにあらず

挿絵(By みてみん)


 身分ある男から無礼な扱いを受けた女房が、恥を恐れて黙ろうとする。彰子は「秋胡しゅうこの妻」の逸話を思い出し、被害者に恥を負わせる社会こそ間違いだと怒る。証人・記録・安全な退避先を整え、男側に正式抗議する。宮廷恋愛の陰にある暴力を扱う重めの回。彰子の毒舌は笑いではなく、刃になる。

 恥を負うべき人間を、間違えてはいけない。


 前世で、私はそれを何度も思いました。無礼なことをされた人が、なぜか黙る。傷つけられた人が、なぜか隠れる。怖い思いをした人が、なぜか自分を責める。


「あの時、笑って流せばよかったのでは」


「自分にも隙があったのでは」


「大ごとにしたら迷惑では」


「相手は身分がある人だから」


「言っても信じてもらえないかもしれない」


「むしろ、こちらが噂されるかもしれない」


 そうやって、被害を受けた側が、自分の口を塞ぐ。そして、周囲もそれを暗に求める。


「騒がない方がいい」


「あなたのためよ」


「忘れなさい」


「相手も悪気はなかったのでは」


「そんな話が広まったら、あなたの評判が」


 違う。違うだろう。


 評判を失うべきは、無礼なことをした側だ。恥じるべきは、力の差に乗じて人を傷つけた側だ。なのに世の中は、しばしば被害者に恥を背負わせます。それは、二度目の暴力です。


 そして、ここは平安宮中。言葉は雅で包まれる。恋は歌にされる。文は香をまとい、夜の訪れは物語になる。でも、その陰に、すべてが美しいわけではありません。


 望まぬ文。しつこい訪れ。断りにくい身分差。御簾越しに差し入れられる手。冗談のふりをした侮り。「女房ならそれくらい」と流される無礼。


 宮廷恋愛という言葉は、美しい。でも、その美しい布の下に、暴力が隠れることがあります。私は、それを見ないふりはしません。


 その日、薄墨の君が最初に気づきました。彼女は、以前「役に立たない」と馬鹿にされた女房です。でも今では、藤壺のかすかな揺らぎを聞く耳です。


 薄墨の君は、宴の後、いつもなら片付けを手伝う撫子の君が、几帳の陰から動かないことに気づきました。


 撫子の君。


 若い女房だった。歌はまだ拙いが、字が柔らかく、春枝の紙選びをよく手伝っていた。目立つ方ではない。でも、よく笑う子でした。


 その撫子の君が、笑っていなかった。袖を強く握り、顔色が白い。香の匂いも乱れている。いつもの彼女なら、紙を丁寧に揃えるのに、その日は指先が震えていた。


 薄墨の君は、何も問い詰めなかった。ただ、そばに座った。しばらくして、撫子の君は小さく言ったらしい。


「……私が悪いのでしょうか」


 その一言で、薄墨の君は赤染衛門を呼んだ。赤染衛門は、私に知らせた。藤壺の空気が、静かに固まった。


 私は撫子の君を、人目の少ない部屋へ呼んだ。そこには、私、赤染衛門、有子、薄墨の君だけを置いた。


 常盤は外の気配を見張る。若菜は香を弱くし、澄子は灯を柔らかくした。春枝は紙を用意したが、部屋には入らない。


 菅原の君は泣きそうだったので、少し離れてもらった。真葛の君は怒りで棍棒どころか斧槍になりそうだったので、赤染衛門が目で止めていた。


 撫子の君は、震えていた。


「話せるところだけでいいです」


 私は言った。


「今すぐ全部を言わなくてもよいです」


 撫子の君は、涙をこぼした。


「ある男君に……宴の後、呼び止められました」


 有子の筆が動く。ただし、急かさない。


「身分ある方です。私などが逆らえば、無礼になると思いました。最初は歌のことを尋ねられただけで……でも」


 撫子の君は、言葉を詰まらせた。薄墨の君が、そっと水を差し出す。撫子の君は、それを受け取って、小さく続けた。


「近くに寄られて、袖を取られました。『藤壺の女房は近頃評判だが、そなたも中宮様のように冷たいのか』と笑われて……返してくださいと申したのに、聞いてくださいませんでした」


 部屋の空気が冷えた。私の手の中で、扇が硬くなる。


「それ以上は」


 撫子の君は、顔を伏せた。


「常盤の君が通りかかった気配がして、その方は離れました。何も……何も、それ以上はございません。でも」


 涙が落ちた。


「怖くて。気持ち悪くて。私が、もっとはっきり断ればよかったのでしょうか。最初に歌の話など聞かなければ。笑ってしまったから、軽く見られたのでしょうか」


「違います」


 私は即答した。撫子の君がびくりとした。


「あなたは悪くありません」


 声が、自分でも驚くほど低かった。


「袖を取ったのは相手です。返してほしいという言葉を無視したのも相手です。身分差を使って、あなたを怖がらせたのも相手です」


 撫子の君は、泣きながら首を振る。


「でも、こんなことを言えば、私が噂になります。あの方は身分もあり、歌も知られていて……私の方が、誘ったと思われるかもしれません」


 それだ。それが一番腹立たしい。被害に遭った人が、まず自分の評判を心配する。相手ではなく、自分が疑われることを恐れる。その仕組みが、加害を守っている。


 私は、異国の書である『列女伝れつじょでん』の物語を思い出した。


 秋胡しゅうこの妻。結婚してすぐに夫が役人として遠方へ旅立ち、残された妻は五年間、夫を待ち続けて貞節を守った。


 しかし、ようやく故郷へ戻ってきた夫は、道端で桑摘みをしている美しい女を見かけ、それが自分の妻だと気づかずに、金品をちらつかせて言い寄った。


 妻はそれを拒絶して家に帰るが、その後、家へ戻ってきた夫が「あの時の不埒な男」であったことに気づく。


 貞淑な妻として称えられる彼女は、夫の卑劣な振る舞いを恥じ、自ら川へ身を投げて命を絶った。


 後世は、彼女を美談のように語る。貞節。名誉。悲劇。けがれなき心の証明。でも、私は思う。なぜ彼女が死ななければならなかったのか。悪いのは、彼女ではない。恥じるべきは、金品で女を買い叩こうとした無礼な男の方だ。


 それなのに、彼女は自分の命をもって潔白と誇りを示さなければならなかった。そんな社会こそ、間違っている。私は扇を置いた。


 鳴らさない。


 今日は、いつもの「ぱちり」で場を整える回ではない。これは、笑いにしてはいけない。


「『列女伝』にある、秋胡の妻の話を知っていますか」


 撫子の君は、涙の中で首を振った。赤染衛門が筆を構える。でも、その顔はいつもより硬い。


「遠い異国の昔に、無礼な男の振る舞いを受けた女性がいました」


 私は言った。


「彼女は、相手の卑劣さを自分の恥のように思い詰まりました。そして、潔白を証明するように自ら命を絶ちました」


 撫子の君が息を呑む。


「その物語は、貞節のかがみとして語り継がれています。けれど、私は思います。彼女が死なずに済む世であるべきだったと」


 赤染衛門の筆が止まる。私は続けた。


「被害者に恥を負わせる社会こそ、間違いです」


 部屋の中に、重い沈黙が落ちた。撫子の君は、顔を覆って泣いた。薄墨の君がそっとそばにいる。私は、有子を見た。


「記録を取ります。ただし、撫子の君の名は、許可なく外へ出しません」


「承知しました」


 有子の声は静かだが、強かった。


「まず安全確保です」


 赤染衛門が頷く。


「撫子の君は、今夜は一人にしません。信頼できる女房の部屋へ」


「薄墨の君、お願いできますか」


「はい」


 薄墨の君は即答した。


「若菜には、落ち着く香を。強い香は不要です」


「伝えます」


「澄子には、灯を柔らかく。夜に影が強くならないように」


「はい」


「常盤」


 私は外へ声をかけた。常盤が静かに入る。


「その男の動きを確認してください。ただし、騒がない。誰と一緒にいたか、宴後どこを通ったか、誰が見ていたか」


「承知しました」


 常盤の顔から、いつもの軽さが消えていた。


「有子。時刻、場所、宴の参加者、撫子の君が最後に確認された位置、常盤が通りかかった時刻を整理」


「はい」


「赤染衛門。正式抗議の文案を準備します。ただし、撫子の君の名を晒さず、まずは『藤壺の女房への無礼な振る舞い』として扱います」


「承知しました」


 真葛の君が、部屋の外で声を抑えて言った。


「姫様。私も」


「真葛の君」


「はい」


「怒ってください。ただし、文にする時は事実だけを」


 しばらく沈黙があった。


「……承知しました」


 怒りを消す必要はない。ただ、怒りを証拠の形に整える。復讐は未来を焼く。でも、抗議は必要だ。損切りではなく、今回は正式な防衛です。


 私は、撫子の君に向き直った。


「あなたに確認します」


 彼女は涙を拭った。


「この件を、正式に扱ってよいですか。あなたの名は守ります。ですが、相手側には抗議します」


 撫子の君は震える。


「もし、私の名が」


「守ります」


「でも」


「それでも怖いと思います」


 私は言った。


「だから、あなたが嫌なら、今すぐには進めません。ただし、あなたが悪いことには絶対にしません」


 撫子の君は、長い間黙っていた。やがて、小さく言った。


「……私のような者が黙れば、また誰かが怖い思いをするでしょうか」


 胸が痛んだ。被害を受けた人に、次の誰かの責任まで背負わせてはいけない。私は首を横に振った。


「それは、あなた一人が背負うことではありません」


「でも」


「これは藤壺の問題です」


 私は言った。


「あなた個人の恥ではありません。御殿に仕える女房の安全を脅かされた問題です」


 撫子の君は、ようやく顔を上げた。


「……扱ってください」


「分かりました」


 そこから、藤壺は静かに動いた。まず、撫子の君の退避先を整えた。薄墨の君がそばに付き、夜の間は一人にしない。若菜の香はごく淡く、澄子の灯はやわらかい。


 春枝は、書きたい時にだけ書ける紙を用意した。菅原の君は泣きながら「何か言葉を」と言いかけ、赤染衛門に「今は聞くこと」と止められた。


 次に、証人を集めた。常盤が、宴後の動線を確認した。


 撫子の君が廊の端にいたことを見た女房が一人。問題の男がその後を追うように動いたのを見た蔵人くろうどが一人。常盤自身も、男が撫子の君の袖から手を離す瞬間を遠目に見ていた。


 常盤は言った。


「私は、あの時、ただ妙だと思っただけでした。もっと早く」


「あなたのせいではありません」


 私は言った。


「今、証言できることが大事です」


 有子が記録する。


 証言は、言葉を揃えない。それぞれが見たものだけを書く。推測は分ける。時刻を明記する。撫子の君の名は、内部記録では仮名にする。


 赤染衛門が文案を書く。


 ――先日の宴の後、当方女房に対し、御身分に任せた無礼なる振る舞いがありました。


 ――当人は恐れと恥を覚え、御殿内にて保護しております。


 ――このような行いは、歌や戯れの名で許されるものではございません。


 ――今後、当方女房への接近を禁じ、正式な詫びを求めます。


 強い。かなり強い。赤染衛門の文は雅だが、刃がある。真葛の君が、それを読んで言った。


「もっと相手の非を」


「事実で十分です」


 赤染衛門が静かに言う。


「刃は研ぎすぎると、折れます」


 真葛の君は、唇を噛んで頷いた。抗議先は、男本人だけではない。その後ろ盾にも送る。さらに、信頼できる公卿を一人、立会いの形にする。


 韓非子で学んだ。情だけではなく、制度で扱う。荘王に学んだ。訴えは時機と場を整える。怒りを燃やし尽くすのではなく、未来を守る形にする。これまでの覚が、ここで全部つながる。


 藤壺は、単に物語を読む御殿ではありません。女房を守る御殿です。


 正式抗議の日。相手の男は、最初、軽く見ていた。


「戯れが過ぎたなら、申し訳ない」


 その程度の顔だった。私は、その言葉を許さなかった。


「戯れではありません」


 室内が静まる。同席した公卿が、こちらを見る。


「相手が返してほしいと申し上げた袖を離さず、身分を笠に着て怯えさせた。それを戯れとは言いません」


 男の顔色が変わった。


「私は、そのようなつもりでは」


「つもりは関係ありません」


 私の声は、冷たかった。


「相手が恐怖を覚え、今も安全確保を必要としている。それが結果です」


 赤染衛門が控えている。有子は記録を持っている。常盤は証言者として控えている。真葛の君は沈黙しているが、目が燃えている。薄墨の君は、撫子の君のそばについているのでここにはいない。


 男は、なお言った。


「ですが、名を出さぬままでは、こちらも」


「名を出さないのは、被害を受けた女房を守るためです」


 私は遮った。


「あなたには、日時、場所、証言、目撃者を示しています。必要な事実は十分です」


 同席した公卿が記録を見た。


「確かに、これは軽く扱えぬ」


 男は黙った。後ろ盾の者も、顔を険しくした。ここで大切なのは、相手を公衆の面前で破滅させることではない。


 撫子の君の安全。再発防止。藤壺の女房に手を出せば正式に抗議されるという前例。それを作ることです。私は言いました。


「求めることは三つです」


 有子が控えを出す。


「一つ。当方女房への直接の接近を禁じること」


「二つ。本人および御殿への正式な詫び」


「三つ。今後、宴後の女房の移動に男房が不用意に近づかぬよう、双方で手順を定めること」


 男は唇を噛んだ。最初は抵抗した。でも、証言と記録、立会いの公卿、そして後ろ盾の面子がある。ここで突っぱねれば、彼自身だけでなく家の評判にも関わる。


 最終的に、詫びは出された。もちろん、完璧な謝罪ではありません。男の面子を守る文言も混じっていた。でも、重要なのは、正式記録に残ったことだ。


 「戯れ」で流させなかったこと。女房側の訴えを、御殿が受け止めたこと。相手に接近禁止を認めさせたこと。それで十分とは言いません。でも、泣き寝入りではありません。


 撫子の君に結果を伝えると、彼女はしばらく黙っていた。


「私の名は」


「出していません」


「相手は」


「接近しません。もし破れば、次はより大きく扱います」


 撫子の君は、涙をこぼした。


「私は、汚れたわけではないのですね」


 その言葉に、部屋の中の全員が息を止めた。私は、はっきり言った。


「汚れていません」


 撫子の君は泣いた。今度は、少しだけ違う涙だった。怒りと安堵と、まだ消えない恐怖が混じった涙。すぐには癒えない。そんな簡単な話ではありません。


 でも、少なくとも、彼女が一人で恥を抱えて沈む道は断った。菅原の君は泣きながら紙を握っていた「物語にしてよいですか」と言いかけて、自分で口を押さえた。


 偉い。


 紫式部は、静かに言った。


「書くなら、本人の許しを得て、形を変え、傷をさらさぬように」


「はい……」


 撫子の君は、小さく笑った。


「いつか、同じように怖い思いをした人が、自分は悪くないと思える話なら」


 紫式部が深く頷いた。


「覚えておきます」


 その日、藤壺には新しい覚が加わりました。


 ――女房への無礼を泣き寝入りにせぬ覚。


 赤染衛門が書いた項目は、いつもより少なかった。でも、一つ一つが重かった。


 一、被害を受けた者に恥を負わせない。

 二、まず安全な退避先を確保する。

 三、本人の意思を確認し、名を守る。

 四、証人・時刻・場所・状況を記録する。

 五、噂ではなく正式抗議として扱う。

 六、加害側に接近禁止と詫びを求める。

 七、再発防止の手順を作る。

 八、傷を物語や噂の材料にしない。


 最後に、私は一文を加えさせた。


 ――恥は、傷つけられた者のものにあらず。


 赤染衛門は、その文字をゆっくり書いた。その筆跡は、いつもより少し硬かった。


 定子方からは、噂が来た。


「藤壺が男君に正式抗議をしたとか」


「ずいぶん大げさな」


「女房の袖を取った程度で」


「恋の戯れも通じぬ御殿ですこと」


 常盤が、それを報告しながら、珍しく怒りを隠さなかった。


「姫様」


「はい」


「どう返しますか」


 私は扇を手に取った。鳴らさない。今日は鳴らす必要がない。


「こう流してください」


「はい」


「藤壺では、嫌がる女房の袖を取ることを、恋とは呼びません」


 常盤の目が、鋭く光った。


「承知しました」


 赤染衛門が静かに言った。


「姫様、その一文は刃ですね」


「はい」


「笑いではありませんね」


「笑いにしません」


 これは毒舌ではありません。刃です。相手を笑わせるための言葉ではありません。線を引くための言葉です。


 宮廷恋愛は、美しくあってよい。歌も、文も、香も、夜の気配も、物語になってよい。でも、同意のない接近を恋に混ぜるな。嫌がる相手の袖を取るな。身分で黙らせるな。怖がった女を、後から「恥」と呼ぶな。


 それは雅ではありません。ただの暴力です。撫子の君は、しばらく藤壺の奥で過ごしました。すぐに宴へ戻る必要はありません。春枝の紙を手伝う日もあれば、薄墨の君と静かに過ごす日もあった。若菜の香を少しずつ嗅ぎ分け、澄子の灯のそばで短い文を書いた。


 ある日、彼女は私に言いました。


「姫様」


「はい」


「私は、前より少し怖がりになりました」


「当然です」


「でも、前より少し、怒れるようにもなりました」


「それは大事です」


「怒ってよいのですね」


「はい」


 私は静かに言った。


「怒りは、あなたの尊厳が傷つけられたことを知らせる声です」


 撫子の君は、泣きそうに笑った。


「では、少しずつ、その声を聞きます」


「はい」


 藤壺の女房たちも変わった。


 宴後の動線を複数人で確認する。若い女房を一人にしない。花橘の君は儀礼の距離をさらに厳密にした。真葛の君は「それは不適切です」を、棍棒ではなく盾として使えるようになった。常盤は、噂を防波堤に変えた。


 藤壺は、少し硬くなったかもしれない。でも、それでかまいません。柔らかい場を守るには、硬い境界線が要ります。


 私は、異国の書に記された秋胡の妻を思う。


 彼女の悲劇は、貞節の美談として語り継がれています。でも、私は、彼女が生きて怒れる物語が欲しかった。恥を自分のものにせず、「恥じるべきはあなただ」と男を責め、周囲がそれを支え、加害者が責任を負う物語が。


 藤壺では、そうします。少なくとも、この御殿の中では。私は扇を手に取った。今度は、静かに鳴らした。


 ぱちり。


 女房たちが姿勢を正す。


「被害を受けた者に、恥を負わせてはいけません」


 赤染衛門が筆を構える。


「怖かったこと、嫌だったこと、拒んだこと。それを言える場を作ること。証人を集め、記録を残し、安全を確保し、正式に抗議すること」


 撫子の君は、薄墨の君の隣で聞いていた。


「宮廷恋愛の名で、暴力を隠してはなりません」


 赤染衛門が、最後の一行を書いた。


 ――恥は、傷つけられた者のものにあらず。


 藤壺の棚に、また一枚、覚が増えた。


 ――女房への無礼を泣き寝入りにせぬ覚。


 この覚は、他の覚よりも重い。香の導線でもない。歌合の運営でもない。語りの区切り方でもない。女房たちが、ここで働き、笑い、物語を読み、紙を選び、香を焚き、歌を詠むための、土台の覚です。


 安全がなければ、雅はない。尊厳が守られなければ、文化は育たない。藤壺は、物語の御殿である前に、女房たちが傷を一人で抱えなくてよい御殿でありたい。


 列女伝の悲劇を、泣き寝入りや美談で終わらせない。


 それは、遠い昔の物語への、私なりの返歌だった。

〜 出典 〜

『列女伝』巻五 節義伝 「魯秋潔婦」


 潔婦者けっぷは魯秋胡子妻也ろのしゅうこしのつまなり既納之五日すでにこれをいれていつか去而宦於陳さりてちんにつかえ五年乃帰ごねんにしてすなわちかえる未至家いまだいえにいたらざるに見路旁婦人採桑みちのかたわらにふじんのくわをとるをみ秋胡子悦之しゅうこしこれをよろこび下車謂曰くるまをくだりていいていわく、「若曝採桑なんじさらしてくわをとる吾行道遠われみちをゆくこととおし願託桑蔭下飡ねがわくはそういんにたくしてさんをくだし下齎休焉さいをくだしてここにやすまん。」婦人採桑不輟ふじんくわをとることをやめず秋胡子謂曰しゅうこしいいていわく、「力田不如逢豊年たにつとむるはほうねんにあうにしかず力桑不如見国卿くわにつとむるはこくけいをみるにしかず吾有金われにこがねあり願以与夫人ねがわくはもってふじんにあたえん。」婦人曰ふじんいわく、「ああ夫採桑力作それくわをとりりきさくし紡績織紝ぼうせきしょくじんし以供衣食もっていしょくにきょうし奉二親にしんにほうじ養夫子ふうしをやしなう吾不願金われはこがねをねがわず所願卿無有外意ねがうところはけいにがいあることなく妾亦無淫泆之志しょうもまたいんいつのこころざしなし収子之齎与笥金しのさいとしきんとをおさめよ。」秋胡子遂去しゅうこしついにさる至家いえにいたり奉金遺母こがねをほうじてははにおくり使人喚婦至ひとをしてつまをよばしめいたるに乃向採桑者也すなわちさきのくわをとるものなり秋胡子慚しゅうこしはず婦曰つまいわく、「子束髪修身しそくはつしゅうしんし辞親往仕おやをじしてゆきつかえ五年乃還ごねんにしてすなわちかえる当所悦馳驟まさにちしゅうをよろこび揚塵疾至ちりをあげてとくいたるべきところなり今也乃いまやすなわ悦路傍婦人ちみちのかたわらのふじんをよろこび下子之装しのそうをくだし以金予之こがねをもってこれにあたう是忘母也これははをわするるなり忘母不孝ははをわするるはふこう好色淫泆いろをこのみいんいつなるは是汚行也これおこうなり汚行不義おこうはふぎなり夫事親不孝それおやにつかえてふこうなれば則事君不忠すなわちきみにつかえてふちゅうなり処家不義いえにおりてふぎなれば則治官不理すなわちかんをおさめておさまらず孝義並亡こうぎならびほろべば必不遂矣かならずとげじ妾不忍見しょうはみるにしのびず子改娶矣しはあらためてめとれ妾亦不嫁しょうもまたかせず。」遂去而東走ついにさりてひがしにはしり投河而死かわにとうじてしす君子曰くんしいわく、「潔婦精於善けっぷはぜんにくわし夫不孝莫大於不愛其親それふこうはそのおやをあいさずして而愛其人そのひとをあいするよりだいなるはなし秋胡子有之矣しゅうこしこれあり。」君子曰くんしいわく、「見善如不及ぜんをみてはおよばざるがごとくし見不善如探湯ふぜんをみてはゆをさぐるがごとくす秋胡子婦之謂也しゅうこしのつまのこれいうなり。」詩云しにいう、「惟是褊心これこのへんしん是以為刺ここをもってそしりをなす。」此之謂也これのいうなり頌曰しょうにいわく秋胡西仕しゅうこにしにつかえ五年乃帰ごねんにしてすなわちかえる遇妻不識つまにあいてしらず心有淫思こころにいんしあり妻執無二つまとることにふたごころなし帰而相知かえりてあいしり恥夫無義おっとのむぎなるをはじ遂東赴河ついにひがしのかわにおもむく


(要約)の国の役人である秋胡しゅうこは、結婚してわずか5日で単身赴任し、5年ぶりに故郷へ帰ることになりました。その道中、道端で桑の葉を摘んでいる美しい女性を見かけ、秋胡は下心を出して「黄金をあげるから休んでいきなさい」とナンパをします。しかし女性は、「私は義父母や夫を養うために真面目に働いています。黄金などいりませんし、不貞を働く気もありません」とピシャリと撥ね退けました。秋胡は諦めて家へと急ぎます。家に着いた秋胡は、母親に挨拶をして黄金を渡し、5年ぶりに妻を呼びました。しかし、目の前に現れた妻は、なんと先ほど自分が道端でナンパした女性だったのです。妻は夫を激しく非難します。「急いで母のもとへ帰るべきなのに、道端の女にうつつを抜かし、母に渡すはずの黄金を他の女にやろうとするなんて親不孝です。親不孝で好色な人間が、まともに君主にお仕えできるはずがありません」妻は「このような不義の夫とは一緒にいられません。あなたは別の女性と再婚しなさい。私はもう誰にも嫁ぎません」と言い放つと、そのまま家を飛び出して川に身を投げ、命を絶ってしまいました。


〜 舞台背景 〜

 『列女伝』(れつじょでん、簡体字: 列女传、英語: Biographies of Exemplary Women)は、中国の女性の史伝を集めた歴史書。様々な時代や階層に属する女性の言動・事跡を記録した伝記の類型を指す。前漢時代に劉向によって著された『列女伝』は、中国古代における史上初の女性類伝(女性の伝記集)であり、正史(紀伝体史書)から独立した伝記体として単独で成書され、現存する中で最も早い雑伝(雑史:正史の資料となり得る、個人の事跡や私的な出来事を記した史伝)である。出典:wikipedia

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