四十八 孫子、戦わずして勝つ
定子方から大規模な歌合勝負を挑まれる。彰子は真正面から受けず、審判・題・会場・日程を調整し、相手の得意分野を分散させる。さらに有力な見物人を事前に味方につけ、勝敗より評判が残る構造を作る。結果、勝負は引き分けだが、世評では彰子方の運営力が評価される。まさに戦わずして勝つ。
勝負は、始まる前に半分決まっている。
前世でそう言うと、少し嫌な顔をされることがありました。
「実力で勝てばいい」
「正々堂々やればいい」
「結果がすべてでしょう」
分かります。分かりますが、甘い。勝負には、競技そのもの以外の部分があります。誰が審判をするのか。どんな題で競うのか。どこで行うのか。いつ行うのか。誰が見ているのか。終わった後、誰がどのように語るのか。
前世の会社でも同じでした。プレゼン勝負など、資料の出来だけで決まるわけではありません。事前に誰へ根回ししたか。決裁者が何を重視しているか。会議の時間帯が午前か夕方か。先に発表するのか、後に発表するのか。議事録に何が残るのか。そういうもの全部で、結果は作られます。
つまり、勝負とは、当日の腕前だけではなく、設計です。そして、ここは平安宮中。歌合は、ただ歌を詠むだけの会ではありません。
誰の御殿が雅か。どの女房が才あるか。誰が帝や公卿の心をつかむか。どのサロンが宮中の文化をリードしているか。そういうものが、歌一首の上に重く乗ります。
以前、藤壺は歌合で痛い目を見ました。歌そのものの勝敗だけではありません。場作り、見物人の反応、評判の残り方。そういうものを軽く見ていました。
その反省から、藤壺はかなり変わりました。物語を連載し、朗読会を整え、感想札を集め、写本を管理し、香を導線化し、女房の役割を再配置し、正論の出し方まで覚にしました。
もはや、ただの若い中宮の御殿ではありません。かなり文書化された御殿です。
……そこは少し心配ですが、まあよいでしょう。
そんな藤壺に、定子方から挑戦状が来ました。大規模な歌合勝負です。
「まあ、ずいぶん華やかな御文ですこと」
常盤が文を広げて言いました。声は明るいが、目は笑っていない。赤染衛門が静かに文面を確認する。
有子はすでに記録帳を開いている。春枝は紙の質を見ている。小少将は文の色合わせを見ている。若菜は香の残り方を嗅ぎ分けようとしている。
澄子は灯の下で文字の流れを見ている。菅原の君は、もう少し顔が戦闘態勢だった。紫式部は、少し離れたところで黙っている。
文の内容は、こうでした。
近頃、藤壺では物語や香、語りの趣にて評判を得ているとか。ならば、宮中の雅の本筋である歌にて、改めて両御殿の才を比べてはいかがか。題は春夏秋冬、恋、旅、別れ、月、雪、花。人数は多く。見物人も広く。華やかに。
要するに。
――最近そちら、調子に乗っていますね。歌で正面から勝負しましょう。
です。菅原の君が扇を握った。
「受けましょう!」
「即答しない」
「ですが、これは挑戦です!」
「挑戦だからこそ、即答しないのです」
私が言うと、菅原の君はぐっと黙った。
成長している。「ペネロペの機織り戦略」が効いている。小少将が不安そうに言った。
「しかし、受けねば逃げたと思われませんか」
「受け方を選びます」
「受け方」
「真正面から、相手の指定通りに受ける必要はありません」
私は文を見た。定子方は強い。清少納言の機知。華やかな場の勢い。即興の反応。その場でぱっと人を惹きつける力。
大規模な歌合。多題。見物人が多い。華やかさ重視。これは明らかに定子方の土俵だ。藤壺がそのまま乗れば、相手の得意な光の中で戦うことになる。
それは愚かです。私は扇を手に取った。
ぱちり。
「孫子です」
藤壺が静まった。
赤染衛門が、もう諦めたように筆を構える。
「姫様」
「はい」
「覚ですね」
「覚です」
「題は」
「孫子、戦わずして勝つ」
「……今回は比較的そのままでも通じますが、雅に直します」
「お願いします」
赤染衛門は少し考えた。
「『歌合を受くる折の備えの覚』でいかがでしょう」
「採用します」
常盤が小声で尋ねる。
「孫子とは、唐土の兵法の方でございますか」
「そうです」
「歌合に兵法を?」
「使います」
菅原の君が目を丸くした。
「歌は戦でございますか」
「宮中では、ほぼ戦です」
赤染衛門が咳払いした。
「雅に」
「……歌は御殿の評判をかけた競いです」
「よろしいかと」
私は女房たちに向き直った。
「孫子には、戦わずして勝つ、という考えがあります」
「戦わずに、勝つ」
若菜が小さく復唱する。
「相手を打ち負かすことだけが勝ちではありません。こちらの目的を達し、相手に決定的な成果を与えず、世評で優位に立つこと。それも勝ちです」
紫式部が、静かに言った。
「勝敗の名ではなく、後に残る印象を取るのですね」
「その通りです」
私は文を指した。
「まず、相手の条件をそのまま飲みません」
有子が筆を構える。
「一つ。審判」
「定子方が推す審判だけでは偏ります。双方から一名ずつ、さらに中立の公卿を一名」
常盤が頷く。
「中立とは、どちらにも顔を立てたい方ですね」
「はい。完全な中立など宮中には少ないです。だからこそ、複数にします」
「二つ。題」
私は文に書かれた題を見た。
春夏秋冬、恋、旅、別れ、月、雪、花。
華やかで、分かりやすく、即興の機知が映える題が多い。定子方向きです。
「題を分散させます」
「分散?」
「華やかな題だけでなく、余韻や構造を見る題を入れます。『待つ』『返らぬ文』『移ろう香』『見えぬ心』など」
菅原の君の目が輝く。
「あはれの題ですわ!」
「そうです。ただし重くしすぎない。定子方の得意な『花』『月』も残しておきます」
小少将が頷く。
「相手の強みを完全に消すと、不公平に見えますものね」
「その通りです」
「三つ。会場」
私は続けた。
「相手は華やかな広い場を望んでいます。こちらは、広すぎず、声と言葉が届く場を提案します」
澄子が言った。
「灯と香が効く広さですね」
「はい。藤壺の場作りが生きる程度の大きさ」
若菜が香炉を見る。
「強い香で酔わせるのではなく、集中できる空気に」
「お願いします」
「四つ。日程」
有子が筆を走らせる。
「日程も重要でございますか」
「重要です」
前世でも、会議の日程は勝敗に直結した。忙しい日の夕方に重い議題を入れれば、判断は雑になる。準備期間が短ければ、即興に強い側が有利になる。逆に準備期間を取りすぎると、相手も万全になる。
「相手の勢いで即開催は避けます。準備期間を取り、しかし長引かせすぎない。十日後がよいでしょう」
「なぜ十日」
「こちらの準備には足りる。相手が大きな演出を積み増すには少し足りない」
常盤が感心したように言う。
「嫌な日数ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
「五つ。見物人」
ここが最も重要だった。
「有力な見物人を、事前に味方につけます」
菅原の君が驚く。
「それは、根回しでは?」
「根回しです」
「言い切られましたね」
「雅に言えば、事前の御挨拶です」
赤染衛門が頷く。
「こちらが何を大切にして歌合に臨むのか、先にお伝えするのですね」
「そうです」
見物人は、ただ見るだけではない。後で語る。噂を作る。評価軸を広げる。だから、勝負の前に評価軸を渡しておく。
「どちらの歌が勝ったか」だけでなく、
「運営が整っていた」
「題が面白かった」
「女房たちの役割がよく見えた」
「藤壺は場を育てる御殿だ」
そう語ってもらえるようにする。勝敗だけに絞らせない。これが大事です。
「勝負そのものに勝てなくても、評判で勝てます」
真葛の君が、少し考えながら言った。
「つまり、勝敗の判定軸を複数にするのですね」
「その通りです」
「歌の出来、場の運営、題の工夫、女房の連携、見物人の満足」
「ええ」
常盤が笑った。
「勝負を、勝負だけにしない」
「はい」
紫式部が静かに言った。
「物語と似ていますね。結末だけでなく、読み終えた後に何が残るか」
「そうです」
こうして、藤壺の歌合準備が始まりました。まず、返答文。赤染衛門が書いた。
――このたびの御趣向、まことに雅なることと存じます。
――両御殿の才を競うばかりでなく、宮中の趣を広げる場となりますよう、題・判者・場所・時日につき、少し整えたく存じます。
美しい。
だが要するに、「そのままでは受けません。条件調整します」である。相手は少し苛立ったでしょう。でも、文面が丁寧なので、断れない。
次に、判者の選定。
定子方推薦の一人は受ける。こちらからは赤染衛門の縁を使って歌に理解のある公卿を推す。第三の中立判者には、帝の近くにいて、どちらの御殿にも顔を立てたい人物を置く。
常盤が情報を集めました。
「中立判者候補の源中納言様は、前回、若菜の香と菅原の君の語りに好意的でした」
「よいです」
「ただし、定子方の華やかさもお好きです」
「だからこそ中立に見えます」
次に、題。
定子方の題を全部は崩さない。花、月、恋は残す。ただし、そこへ「待つ文」「移ろう香」「見えぬ心」を加えます。清少納言のような即興の「をかし」が映える題と、紫式部の「あはれ」が生きる題を混在させるのです。
相手の得意分野を消すのではありません。分散させます。孫子である。
……と心の中で言ったら、赤染衛門がこちらを見た。
「姫様、今、満足そうでしたね」
「少しだけ」
「兵法を楽しみすぎませぬよう」
「はい」
会場は、広すぎない中規模の御殿を選んだ。定子方はもっと華やかな広間を望んだが、こちらは「歌の声と判者の言葉が届きやすい場所」を理由に押しました。
これが通った。香は若菜。灯は澄子。紙は春枝。几帳と色は小少将。記録は有子。外の噂の導線は常盤。全体進行は赤染衛門。語りと場の余韻づくりは菅原の君。批評の言い方は真葛の君。儀礼演出には花橘の君も入った。
藤壺、総力戦です。ただし、表向きはあくまで雅な歌合。裏側は、ほぼプロジェクト運営でした。
当日。
定子方は、やはり華やかでした。衣の色が明るい。女房たちの笑みが軽やか。清少納言の一言で、開始前から場に笑いが起きる。
強い。これは強い。
定子様の御前の空気は、やはり一瞬で人を惹きつける。その場の光を作る力は、簡単には真似できない。
藤壺の女房たちに緊張が走る。菅原の君が小声で言った。
「やはり、華やかです」
「認めましょう」
私は答えた。
「認めた上で、自分たちの場を作ります」
若菜が香を整える。強すぎず、しかし沈む香。澄子が灯を調整する。明るすぎず、暗すぎず。小少将が几帳の色を整える。花橘の君が入口で儀礼の美しさを見せる。
春枝が題札を美しく並べる。有子が記録を始める。常盤が見物人の表情を見る。赤染衛門が進行を告げる。
最初の題は「花」。
定子方が強かった。清少納言に近い女房が、散る花の一瞬を鋭く切り取る歌を出した。場がぱっと明るくなる。見物人が笑い、頷く。
藤壺も悪くない。しかし、瞬発力では負けます。菅原の君が悔しそうにする。
「まだです」
私は言った。
次の題は「待つ文」。
藤壺の空気が変わった。紫式部の物語で鍛えられた女房たちは、この題に強い。露草の君のペネロペ式もある。夕顔の君の撤退戦もある。文を待つ女の心、返せぬ苦しみ、届かぬ言葉。それらが歌に沈む。
判者の一人が、深く頷いた。
「これは、藤壺らしい」
有子の筆が走る。
次は「月」。
ここは互角。
定子方は明るく冴えた月。藤壺は雲間に沈む月。見物人の好みが分かれる。
次は「移ろう香」。若菜の顔が少し赤くなる。藤壺の香り外交で鍛えた題だ。藤壺の歌は、去った後に袖に残る香を詠んだ。場が静かになった。
帝も、少し目を伏せられた。勝ったかどうかは分からない。でも、残った。
常盤が小声で言う。
「反応、深いです」
「よし」
定子方も負けていない。
「恋」の題では、華やかな機知と鮮やかな返しで場をさらった。清少納言の一言がまた効く。藤壺の女房たちが少し押される。
だが、赤染衛門の進行は崩れない。真葛の君は、批評を求められた時、棍棒を出さずに的確に言う。花橘の君は、場の美しさを保つ。菅原の君は、歌の背景を語りすぎず、一言だけ余韻を足す。
「この歌の文は、返事を待つ者ではなく、返せぬ者の側に灯を置いたように思われます」
見物人が、はっとした。
長くない。だが効く。菅原の君、成長している。勝負は進んだ。判定は、拮抗した。
定子方が勝つ題もあれば、藤壺が勝つ題もある。判者の評も割れる。見物人も、それぞれ好みを語る。
最終結果は、引き分け。
定子方の女房たちは、少し不満そうだった。おそらく、もっと明確に勝つつもりだったのだろう。
藤壺の女房たちは、表向き静かに受け止めた。でも、私は分かっています。これは、勝ちです。
いえ、歌合の勝敗では引き分け。そこは事実です。でも、世評は違いました。その日の夕方から、宮中にはこういう声が流れ始めた。
「定子方の歌は、やはり華やかで見事だった」
「しかし、藤壺の題の立て方は面白かった」
「香や灯、几帳まで整っていて、歌が聞きやすかった」
「判者の選び方も公平だった」
「藤壺は、運営が上手い」
「女房たちの役割がよくできている」
「歌だけでなく、場全体で雅を作っていた」
常盤が報告した時、目が輝いていた。
「姫様。評判は、かなり良いです」
「どのあたりが?」
「勝敗は引き分け。でも、『藤壺は運営で見せた』という声が多いです」
「よし」
「また、『定子方は華やか、藤壺は整っている』と」
「十分です」
定子方に華やかさで勝つ必要はない。華やかさは、相手の強みだ。無理に奪うと、こちらが不自然になる。
藤壺は、整っている。場を設計できる。女房の能力を活かせる。歌、香、灯、紙、進行、記録、評判まで含めて一つの文化にできる。それが残れば勝ちだ。
帝も、後日おっしゃった。
「先日の歌合、勝敗は分かれたが、彰子の御殿はよく整えていたな」
この一言で、十分でした。有子の御前反応控えに、丁寧に記された。
――帝、藤壺の整えを御覧じ給ふ。
赤染衛門が静かに頷く。
「目的は達しましたね」
「はい」
菅原の君が少し首を傾げる。
「でも、勝負は引き分けでした」
「そうです」
「それでも勝ちなのですか」
「はい」
「なぜ」
私は扇を膝に置いた。
「相手は、歌で藤壺を打ち負かしたかった。けれど、それはできませんでした」
「はい」
「こちらは、藤壺が歌だけでなく、場全体を運営できる御殿だと示したかった。それはできました」
菅原の君の目が開く。
「目的が違ったのですね」
「そうです」
勝敗とは、相手と同じ物差しだけで測るものではありません。相手が「歌で勝つ」ことを目的にしている時、こちらは「評判を残す」ことを目的にする。相手が「一日の勝利」を狙う時、こちらは「今後の評価軸」を取りに行く。
これが、戦わずして勝つ、です。
いえ、実際には歌合で戦いましたが、決定的な正面衝突は避けました。相手の得意分野を分散させ、条件を整え、見物人の評価を設計し、世評で勝ちました。
孫子様、ありがとうございます。
心の中で拝んでいると、赤染衛門がこちらを見た。
「姫様」
「はい」
「また何か、兵法めいたことをお考えですね」
「少しだけ」
「覚にまとめます」
「お願いします」
赤染衛門は筆を走らせた。
一つ。挑まれても即答せず、条件を整える。
二つ。判者は複数とし、公平に見える形を作る。
三つ。題は相手の得意を消さず、分散させる。
四つ。会場・日程は、こちらの場作りが生きる形にする。
五つ。有力な見物人へ事前に趣旨を伝える。
六つ。勝敗だけでなく、後に残る評判を設計する。
最後に、こう書かれた。
――勝たずとも、負けぬ形を作り、後の評を得ること。
藤壺の女房たちは、その一行を見つめた。
定子方は、今日も華やかだ。清少納言の言葉は鋭く、場を明るくする。大規模な歌合では、その力はやはり強い。
でも、藤壺ももう、ただ受け身の御殿ではありません。挑まれた勝負を、そのまま飲まない。条件を整える。評価軸を増やす。女房たちの役割を活かす。勝敗の外側に、評判を残す。
私は扇を手に取りました。
ぱちり。
女房たちが姿勢を正します。
「真正面から勝つことだけが、勝ちではありません」
赤染衛門が筆を構える。
「相手の強みを認め、土俵を整え、こちらの目的を達する。時には、引き分けこそ最良の勝ちです」
菅原の君が、深く頷いた。
「戦わずして勝つ、でございますね」
「ええ」
「でも、少し戦いました」
「宮中では、まったく戦わないのは難しいです」
常盤が笑った。
「では、燃やさずに勝つ」
「それもよいですね」
――歌合を受くる折の備えの覚。
定子方が仕掛けた大規模歌合は、勝負としては引き分けに終わりました。でも、宮中に残った言葉はこうだった。
――藤壺は、整っている。
地味です。花のような称賛ではありません。笑いをさらう一言でもない。絶世の美貌の噂でもない。けれど、長く効きます。
整っている御殿には、人が安心して来る。任せられる。また行きたくなる。文化が続く。
定子方が一瞬の光なら、藤壺は場を保つ灯。その灯は、歌合の後も静かに残っていました。
戦って勝つよりも、重い勝ちとして。
〜 出典 〜
『孫子』謀攻篇
是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。
(テスト向け訳文)だから、百度戦って百度勝ったとしても、それが最善の策というわけではない。実際に戦火を交えることなく、敵の軍勢を降伏させることこそが、最高の中の最高の策である。
〜 舞台背景 〜
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの斉国(今の中国の位置にあった国で春秋時代とも呼ばれる)の軍事思想家孫武または紀元前340年ごろ戦国時代の斉国の孫臏の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の軍事理論書のうち、最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。出典:wikipedia




