四十五 ペネロペの機織り戦略
返事を迫る公卿に困る女房がいる。彰子はペネロペが機を織っては解き、求婚者を待たせた逸話を教える。即答しないこと、期限を管理すること、相手に期待を持たせつつ主導権を渡さないこと。女房はその戦術でしつこい求婚をかわす。定子方が「優柔不断」と笑うが、彰子は「返事を遅らせるのも交渉術です」と断言する。
返事を急がせる人間には、だいたい裏があります。
前世で会社員をしていた頃、私はそれを何度も学んびました。
「今日中に決めてください」
「今ここで判断を」
「簡単な確認なので」
「とりあえず承認だけ」
「皆さんもう賛成していますよ」
こういう言葉が出た時は、たいてい危ないです。相手はこちらに考える時間を与えたくない。資料を読み込まれたくない。条件を比較されたくない。他の人に相談されたくない。冷静になられると困る。
だから、急がせる。その場の空気で押し切ろうとする。恋愛でも、仕事でも、政治でも、これは同じです。即答を迫られた時ほど、即答してはいけません。
……ということを、平安宮中の女房に教える日が来た。
しかも、教材はギリシア神話です。最近の藤壺は、異国故事の活用がやや多い。クレオパトラで香の外交を学び。楊貴妃で寵愛と国家財政を冷却し。王昭君で遠方赴任を外交官に変え。西施で美貌のリスク管理を行った。
そして今度は、ペネロペである。ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる、オデュッセウスの妻。夫が長く帰らぬ中、多くの求婚者に迫られながら、機を織っては夜に解き、時間を稼いだ女性。前世の教科書では、貞淑な妻として紹介されることが多かった。
もちろん、その面もあります。けれど、今の私から見ると、ペネロペはただ待っていただけの女性ではありません。交渉の達人です。期限を設定し。進捗を演出し。相手の期待を維持し。しかし決定権は渡さない。
織っているようで、織らない。進んでいるようで、終わらせない。断ってはいないが、承諾もしていない。これは、相当高度な時間管理です。そして、その戦略を必要としている女房が、藤壺にいました。
名を、露草の君といいます。年は若いが、文の返しが丁寧で、声も柔らかく、どこか放っておけない雰囲気がある女房でした。派手な美貌ではない。花橘の君のように場を奪う華やかさもない。けれど、相手がつい「自分の話を聞いてくれそうだ」と思ってしまう優しさがありました。
こういう人は危ない。本人が悪いわけではない。むしろ、良い人です。でも、良い人は押されやすい。そして押す側は、それを嗅ぎ分けます。露草の君は、ある公卿からしつこく文を受けていました。
相手は中堅の公卿で、家柄も悪くない。歌もうまい。見た目も、まあ悪くないらしい。でも、とにかく押しが強かった。
「返事をいただけぬのは、御心が定まらぬからでしょうか」
「今宵こそ、はっきりお聞かせください」
「待つ身の苦しみもお分かりいただきたい」
「これほど文を重ねてもなお、沈黙とはお恨み申します」
重い。文が重い。
しかも、自分が待たされている苦しみを前面に出して、相手に罪悪感を持たせるタイプです。前世で言えば、既読スルーを責める長文メッセージを送ってくる人です。いえ、平安なので既読はありません。でも文を受け取ったことは周囲に見える。だから逃げにくい。
露草の君は、日に日に顔色を悪くしていった。最初に気づいたのは若菜でした。
「姫様」
若菜は香炉の灰をならしながら、小声で言いました。
「露草の君の香が、近頃乱れております」
「香が?」
「はい。衣に焚きしめる香が、日によって強すぎたり、薄すぎたり。落ち着かぬ時の香です」
次に澄子が言った。
「灯の近くで文を何度も読み返しておられました。夜更けまで」
有子が記録を確認した。
「この三日で、同じ公卿から五通届いております」
常盤が顔をしかめた。
「外でも噂になり始めています。『露草の君は、返事を引き延ばして男君を焦らしている』と」
菅原の君が怒った。
「焦らしているのではなく、困っているのです!」
「その通りです」
私は頷いた。困っている沈黙と、駆け引きの沈黙は外から見分けにくい。だから、周囲は面白い方に解釈する。宮中は、困っている女性をすぐ恋愛劇の登場人物にしたがる。最悪です。
私は露草の君を呼びました。彼女は静かに現れました。けれど、顔色はやはり悪い。
「露草の君」
「はい」
「文のことで困っていますね」
彼女の肩がびくりと揺れた。しばらく沈黙した後、小さく頷く。
「……はい」
「相手に返事をしたいのですか」
露草の君はすぐには答えなかった。それが答えだった。
「嫌ではないのです」
彼女はようやく言った。
「歌もお上手で、家柄も悪くはなく、私などに文をくださるのはありがたいこととも思います。ただ……」
「ただ?」
「急かされるほど、怖くなります」
藤壺の空気が静まった。
「返事をしなければ失礼だと思います。けれど、返せばもう決まってしまう気がして。考える時間が欲しいのに、待たせる私はひどい女なのかと」
菅原の君が泣きそうになっている。常盤が唇を引き結んでいる。赤染衛門は、静かに筆を置いた。私は露草の君を見た。
「あなたは、ひどい女ではありません」
露草の君の目が揺れる。
「返事を考える時間を持つのは、当然の権利です」
「ですが、相手は苦しいと」
「相手の苦しみは、あなたが即答する義務にはなりません」
私は少し強めに言った。これは大事です。相手が苦しんでいるから、自分の判断を早めなければならない。相手が待っているから、自分の不安を無視しなければならない。
そんなことはない。
人の感情を人質に取って返事を迫るのは、交渉としてかなり強引です。露草の君は、目を伏せた。
「では、どうすれば」
「ペネロペを知っていますか」
女房たちが、またか、という顔をした。最近、私が異国の女性を出すと、だいたい覚が増えると学習しています。赤染衛門は、すでに筆を構えています。
「姫様」
「はい」
「今回も覚でございますね」
「覚です」
「題は」
「ペネロペの機織り戦略」
「そのままでは少々異国感が強すぎます」
「では、雅に」
赤染衛門は少し考えた。
「『返事を急かされた折の扱いの覚』でいかがでしょう」
「採用します」
露草の君は、戸惑いながら私を見る。
「ぺねろぺ、とは」
「遠い国の物語に出てくる女性です。夫が長く帰らぬ間、多くの求婚者に迫られました」
小少将が息を呑む。
「それは苦しいですね」
「ええ。けれど彼女は、すぐに返事をしませんでした」
「どうされたのですか」
「機を織りました」
春枝が首を傾げる。
「機を?」
「はい。ある布を織り終えたら返事をすると言い、昼は織り、夜は解いたのです」
藤壺がざわめいた。
菅原の君が目を輝かせる。
「なんと……!」
常盤が感心したように呟く。
「進んでいるようで、進んでいない」
「そうです」
有子が冷静に言う。
「期限を設定しながら、実質的に延長していたのですね」
「その通りです」
私は頷いた。
「ペネロペは、ただ優柔不断だったのではありません。相手に『待つ理由』を与え、自分の決定権を守ったのです」
赤染衛門の筆が走る。
「即答しないこと」
私は一つ目を挙げた。
「強い圧を受けた時ほど、その場で答えない。『考える時間が必要です』と明確に言う」
露草の君が小さく頷く。
「二つ目。期限を管理すること」
「期限……」
「ただ『いつか』では相手が勝手に詰めてきます。『次の満月まで』『この行事が終わるまで』『この文への返歌を整えるまで』と、こちらから区切りを出す」
有子が記録しながら頷いた。
「曖昧に逃げず、こちらが時を定めるのですね」
「そうです」
「三つ目。相手に期待を持たせつつ、主導権を渡さないこと」
菅原の君が少し驚いた。
「期待を持たせるのですか」
「完全に断るなら、断ればよいです」
私は答えた。
「でも露草の君は、まだ考えたいのでしょう。ならば、相手をむやみに傷つけず、しかし決定を急がせない文が必要です」
露草の君は、少し不安そうに言った。
「そのような文が、書けるでしょうか」
「書けます」
私は赤染衛門を見る。
「衛門」
「はい」
「文案例を」
「承りました」
赤染衛門は、すぐに筆を取った。まず一案。
――御文の重なり、ありがたく拝見いたしました。されど、軽々しく御返り申すべきこととも思われず、しばし心を整えたく存じます。
「よいですね」
露草の君が小さく頷く。赤染衛門は続ける。
――次の月の明らかなる頃まで、御心を急がせ給わず、ただ一首の歌にて御思いを聞かせ給え。
「相手の文の量を制限していますね」
有子が言った。
「ええ」
私は頷いた。
「これ以上、長文を重ねるな、ということです」
常盤が感心する。
「雅に言うと、圧が弱まるようで強いですね」
「そういう文が一番使えます」
赤染衛門が二案目を書く。
――多くの御言の葉に、かえって返す言の葉を失い侍り。しばし静かなる間を賜らば、心のままに一言申すこともありなん。
「これは?」
露草の君が尋ねる。
「文が多すぎて困っています、と上品に言っています」
赤染衛門が説明した。露草の君が少しだけ笑った。
よし。笑えるなら大丈夫だ。
私は続けた。
「四つ目。相談先を持つこと」
「相談先」
「返事を迫られた時、一人で抱えると相手の圧に負けます。藤壺で一度見ます。赤染衛門、有子、必要なら私も確認します」
露草の君の目が潤んだ。
「よろしいのですか」
「もちろんです」
「このような私事で」
「私事ではありません」
私はきっぱり言った。
「女房が圧を受け、判断を誤れば、御殿の評判にも関わります。何より、あなた自身が傷つきます」
常盤が頷く。
「恋の文は、すぐ噂になりますからね」
「あなたが言うと重みがあります」
「かもしれません」
五つ目。
「記録すること」
露草の君が目を丸くした。
「恋文を、ですか」
「全部ではありません。日時、相手、返事の有無、内容の要点だけです」
有子がすぐに紙を用意した。
「相手がどれほど頻繁に迫っているか、後で分かるようにするのですね」
「そうです」
前世の感覚で言えば、ログを取る。圧力は、単発だと「熱心」で済まされる。でも記録すれば、頻度や内容が見える。しつこさが可視化される。可視化は強い。赤染衛門が雅に整えます。
「『御文の重なりを控え、御心の急き具合を見定むる』」
「完璧です」
――返事を急かされた折の扱いの覚。
記載事項は六つ。
一、即答を迫られても、その場で決めない。
二、考える期限は自分から示す。
三、返事までの間に許す文の量を決める。
四、相手の期待を完全に断たず、主導権は渡さない。
五、文の頻度と内容を記録する。
六、困った時は一人で抱えず、御殿内で相談する。
露草の君は、赤染衛門の文案をもとに返事を書いた。文は、柔らかかった。だが、芯があった。
――御心のほど、ありがたく思います。
――しかし、軽々しく返すべきことではありません。
――次の月の明るい頃まで、静かに考えさせてください。
――それまで、長き文を重ねるのではなく、一首ずつ、季節に寄せてお聞かせください。
要するに。急かすな。長文を送るな。期限はこちらが決める。歌一首までにしろ。である。雅は強い。文を受け取った公卿は、最初、不満そうだったらしい。
「待つ身の苦しみを、さらに延ばされるとは」
と周囲に漏らしたと常盤が聞いてきた。
「ですが」
常盤は続けた。
「露草の君の文があまりに整っていたため、『思慮深い方だ』とも言われております」
「よし」
「また、長文を送ると野暮だと思われる空気になりました」
「大変よし」
公卿は、それから一首ずつ歌を送るようになりました。露草の君は、すぐに返さない。藤壺で相談し、必要に応じて短く返す。返しすぎない。期待を持たせすぎない。しかし、無礼にもならない。
まさに機を織るように、少し進めては止め、糸を整え、時間を管理しました。相手は、以前のように一方的に攻め込めなくなった。なぜなら、露草の君が「待たされる女」ではなく、「期限を持つ女」になったからです。
これは大きい。立場が変わる。待たせている罪悪感に押されるのではなく、考える時間を管理しているのだと理解できる。露草の君の顔色は少しずつ戻っていきました。若菜が言いました。
「香が落ち着きました」
澄子も頷いた。
「夜更けまで文を読み返すことも減りました」
有子が記録を見せる。
「文の頻度も、三日に一通へ落ちています」
常盤が満足そうに言う。
「外の噂も変わりました。『露草の君は、なかなか思慮深く、簡単には靡かぬ』と」
「良い変化です」
でも、当然ながら、定子方は黙っていません。
「返事を延ばして男君を弄ぶとは」
「優柔不断ですこと」
「決められぬ女は、結局誰にも選ばれませんわ」
「藤壺では、返事をしないことまで教えるのね」
常盤がそのまま持ってきた。毎回思うが、再現が上手い。
菅原の君は怒った。
「優柔不断ではありません!」
小少将も言う。
「相手の圧に流されないために、時間を取っているだけです」
春枝が紙箱を抱えながら真剣に言った。
「紙も、乾かぬうちに重ねれば傷みます。返事も同じです」
「春枝、よい比喩です」
「ありがとうございます」
私は扇を手に取った。
ぱちり。
「返事を遅らせるのも交渉術です」
藤壺が静まる。赤染衛門が筆を構える。
「姫様、そのままでは少し強すぎますが、良い言葉です」
「雅に」
「『時を置くこともまた、御心を定めるための術にございます』」
「完璧です」
私は女房たちに言いました。
「優柔不断とは、何も決めずに流されることです。露草の君は違います。期限を決め、文の量を決め、相談先を決めています」
有子が頷く。
「管理された保留ですね」
「そうです」
「保留にも種類があるのですね」
「あります」
前世の会議でも、そうでした。だらだら先延ばしにする保留。材料が揃うまで待つ保留。相手の出方を見る保留。不利な条件を回避するための保留。全部違います。露草の君が使っているのは、交渉のための保留です。
「即答は、誠実に見えることがあります」
私は言いました。
「でも、考えずに返した言葉は、後で自分を縛ります。大事な返事ほど、時間を取るべきです」
露草の君は、静かに聞いています。その顔には、以前の怯えはありません。やがて、彼女は言いました。
「姫様」
「はい」
「私は、断ることもできるのでしょうか」
藤壺が少し静かになった。大事な問いです。
「できます」
私は答えた。
「考える時間は、必ず承諾するためのものではありません。断るために心を整える時間でもあります」
露草の君は、深く息を吸った。
「では、次の月まで考えます。そして、もし心が動かなければ、きちんとお断りします」
「それでよいです」
「その時も、文を見ていただけますか」
「もちろん」
菅原の君が目を潤ませた。
「露草の君……強くなられました」
「強くというより、立ち位置を取り戻したのです」
赤染衛門が頷く。
「相手の文の中に閉じ込められていたところを、自分の時に戻ったのですね」
「その通りです」
ペネロペの機織りは、ただ待つだけの行為ではありません。他人に奪われそうな時間を、自分の手元へ取り戻す行為です。織る。解く。また織る。外から見れば、進まない。でも、彼女はその間、自分の判断と家を守っていました。
露草の君も同じです。返事を遅らせることで、相手を弄んでいるのではない。自分の心を相手の速度から守っている。
数日後、公卿からまた歌が届きました。今度は、以前のような責める調子ではなかった。待つ夜の月を詠みつつ、露草の君の返事を待つ、という穏やかな歌でした。露草の君は、それを読んで微笑んだ。
「急かされないと、少しだけ歌の美しさが見えますね」
「よかったです」
「でも、まだ決めません」
「それでいいです」
彼女は、藤壺の女房たちと相談しながら短い返歌を書いた。返歌は、期待を完全には断たない。けれど、先へ進めすぎない。
月は見た。しかし夜明けはまだ遠い。
そういう内容でした。赤染衛門が見て、少し頷いた。
「よろしいでしょう」
菅原の君が感動していた。
「まさに機を織るような返歌ですわ」
「題にしない」
「はい」
やがて、定子方の笑いも弱まった。なぜなら、公卿の方が露草の君を雑に急かせなくなったからだ。むしろ周囲から「待てる男かどうか」を見られる立場になった。
立場逆転です。相手が急かせば、器が小さいと見える。相手が待てば、誠実に見える。どちらにせよ、露草の君が一方的に責められる構図は崩れた。これが期限管理の力です。私は扇を手に取りました。
ぱちり。
女房たちが姿勢を正す。
「返事を急かす相手に、心の主導権を渡してはいけません」
赤染衛門が筆を走らせる。
「即答しないことは、不誠実ではありません。時を置くこと、期限を定めること、相手の文の量を制すること。それも交渉術です」
露草の君は、静かに頭を下げた。
「私は、機を織るように考えます」
「はい」
「織り終えるか、解くかは、私が決めます」
「その通りです」
――返事を急かされた折の扱いの覚。
ペネロペの機は、遠い異国の物語の中だけのものではありません。宮中の文のやりとりにも、ちゃんと使えます。昼に織り、夜に解く。進めるように見せて、主導権を渡さない。相手を完全には切らず、しかし自分の時間を守る。それは、優柔不断ではありません。
戦略的保留である。
……と心の中で言ったら、赤染衛門がこちらを見た。
「姫様」
「はい」
「また妙な言葉をお考えですね」
「少しだけ」
「雅に直すなら、『思慮ある時置き』でしょうか」
「採用します」
その後、藤壺では、誰かが返事を急かされた時、常盤が小声で言うようになった。
「機を出しましょうか」
出さなくていい。でも、少し効いていた。
〜 出典 〜
『オデュッセイア』ホメロス
〜 舞台背景 〜
『オデュッセイア』(古代ギリシア語イオニア方言: ΟΔΥΣΣΕΙΑ(Ὀδύσσεια)、古代ギリシア語ラテン翻字: Odysseia, Odysseiā、ラテン語: Odyssea)は、ホメーロスの作品とされる、古代ギリシアの二大叙事詩の一つである。現存する最古の文学の一作であり、現代においてもよく知られた作品である。『イーリアス』と同様『オデュッセイア』は24巻から構成されている。この作品は、イタケー島の英雄王であるオデュッセウスに起こったことを描いており、十年にわたったトロイア戦争終了後、彼が故郷に帰還する物語である。長い期間の不在によって、彼はイタケーでは死亡したと見なされ、妻ペーネロペーと息子テーレマコスは、ペーネロペーと結婚して財産と王の地位を手にいれようと互いに争う、無法で不埒な求婚者たちの群れに抗する日々を過ごしていた。出典:wikipedia




