四十一 楊貴妃マウント、国家財政で冷却
「寵愛される女こそ勝者」と、楊貴妃を引き合いに出す女房が現れる。彰子は『長恨歌』の美しさを認めつつ、寵愛が政治と財政を歪めれば悲劇になると冷静に語る。寵姫ではなく、安定した后であることが長期的勝利だと示す。恋愛至上主義の女房たちは沈黙。
愛で国が傾く。
前世でこの言葉を聞いた時、私は半分くらい物語の比喩だと思っていました。
絶世の美女。皇帝の寵愛。豪華な宮殿。舞と音楽。民の苦しみ。乱。逃避行。そして、悲しい別れ。
いかにも詩になります。いかにも絵になります。そしていかにも後世の人が好きそうな題材です。
白居易の『長恨歌』。
玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋をうたった、あまりにも美しい詩。愛が深いほど別れは痛ましく、華やかな宮廷が崩れていくさまは、読む者の胸に残ります。
美しい。美しいものは、美しい。それは認めます。
でも。
私は前世で、経費精算と予算管理と監査対応にまみれた社会人でもありました。どんなに美しい愛でも、国庫を圧迫し、政治判断を歪め、人事を私物化し、民の生活を破壊した瞬間、話は変わります。
詩人は「長恨」と詠むかもしれません。でも、会計担当はたぶんこう言います。
――これ、誰が払うんですか?
そして、ここは平安宮中。恋の噂は、政治になります。寵愛は、権力になります。誰が帝の御心を得るかは、誰の家が栄えるかに直結します。
だからこそ、「愛される女こそ勝者」という言葉は、宮中ではかなり強い。
強いが、危ない。
その日、藤壺に現れたのは、そういう危ない言葉を美しい顔で言う女房でした。
名を、唐衣の君といいます。衣の重ねがいつも華やかで、恋歌の噂に詳しく、誰が誰に文を送ったか、誰の袖にどの香が残っていたか、そういう話を語らせると妙に生き生きする人でした。
悪い人ではありません。ただ、世界の中心を恋愛に置きすぎています。前世で言えば、社内のすべての人間関係を「誰が誰に気があるか」で解釈するタイプです。
プロジェクトの成功要因まで「部長があの人を気に入っているから」で済ませるのですが、半分当たっている時もあるから厄介です。
唐衣の君は、その日、藤壺の香の話を聞きつけて来たようです。クレオパトラ式香りの外交。いえ、赤染衛門に直された正式名称では「西の女王に学ぶ香の扱いの覚」ですが、宮中の噂はだいたい雑に広がります。
「藤壺では近頃、香まで御殿の印象づくりにお使いとか」
唐衣の君は、にこやかに言いました。私は扇を膝に置いたまま答えます。
「ええ。香は場を整えますから」
「まあ、奥ゆかしいこと」
その「奥ゆかしい」には、少しだけ棘があります。常盤が目を細めます。菅原の君が反応しそうになる。赤染衛門が、視線だけで止める。いつもの流れです。
唐衣の君は続けました。
「けれど、女が香をまとうなら、やはり御心を惹くためでございましょう。どれほど理屈を重ねても、最後に勝つのは、帝に最も愛される女では?」
藤壺の空気が、少し硬くなる。唐衣の君は、そこで得意げに言った。
「唐の楊貴妃など、まさにそうでございますわね。皇帝の御心をただ一身に受け、国中の宝を集め、詩にまで残る。女として、これほどの勝利がありましょうか」
出た。楊貴妃マウント。
絶世の美女を持ち出して、「結局、愛される女が一番」と殴ってくるやつです。
これは宮中の女房たちには刺さります。なぜなら、彼女たち自身が、日々、寵愛の強弱を肌で感じているからです。
帝の訪問が増えた。文が来た。歌を返された。袖の香を覚えられた。御前で名を呼ばれた。
それらは、女房本人だけでなく、その主の力にも関わります。だから、唐衣の君の言葉は単なる恋愛論ではありません。政治的な挑発です。
藤壺の女房たちは、ざわめいた。
「愛されることは、大切ですわ」
小少将が小さく言う。
「帝の御心が遠ければ、御殿は寂しくなりますもの」
「けれど、寵愛だけを競うのは……」
若菜が困ったように言った。
「でも、楊貴妃のように詩に残るほど愛されるのは、すごいことでは?」
春枝が紙箱を抱えながら首を傾げる。菅原の君は、すでに物語的に揺れていた。
「『長恨歌』は、美しいですもの。天にありては比翼の鳥、地にありては連理の枝……あの永遠を願う言葉は、胸に迫ります」
「引用は短めに」
私は反射的に言った。
「え?」
「いえ、こちらの話です」
著作権は平安宮中にはありません。でも前世の癖が出てしまいました。
紫式部は、少し離れたところで静かに聞いています。その顔は、面白がっているようにも、警戒しているようにも見えました。
唐衣の君が、こちらを見ます。
「中宮様は、いかがお考えですか」
問いの形をしているものの、期待している答えは明らかです。寵愛される女こそ勝者。定子様のように帝の御心を明るく惹きつける女こそ、宮中で本当に強い。
藤壺の物語や香の仕組みなど、結局は愛されるための補助にすぎない。そう言いたいのでしょう。
私はしばらく黙りました。楊貴妃。美しい。愛された。詩になった。後世に名を残した。
でも、その物語の結末はどうでしょうか。安史の乱。都を追われる皇帝。馬嵬坡。兵士たちの怒り。そして楊貴妃の死。
寵愛の物語は、国家の崩れと隣り合わせにあります。私は扇を手に取りました。
「『長恨歌』は、美しい詩です」
まず、そこから認めた。唐衣の君が少し微笑みます。
「ええ」
「玄宗皇帝と楊貴妃の愛を、後世に残るほど美しく描いています。人がその悲しみに心を動かされるのも分かります」
菅原の君が深く頷いた。
「では」
唐衣の君が言いかけたところで、私は続けた。
「ですが、国家運営としては失敗です」
空気が止まった。唐衣の君の笑顔が固まる。
赤染衛門が、静かに筆を構えた。
「姫様」
「はい」
「今回も覚になりますね」
「なります」
「題は」
「楊貴妃マウント、国家財政で冷却」
「……なりません」
「ですよね」
赤染衛門は少し考えた。
「『寵愛と政の扱いを考える覚』でいかがでしょう」
「採用します」
唐衣の君は、完全に戸惑っています。恋愛論を投げたはずが、政治財政論の議題にされたからです。藤壺ではよくあります。
「まず、寵愛そのものを否定しません」
私は言いました。
「人に愛されること、心を寄せられることは、尊いものです。帝と后の間に情があるのは、御殿にとっても大切です」
小少将がほっとした顔をした。
「ですが」
私は声を落とします。
「寵愛が政治を歪めた時、それは本人たちだけの問題ではなくなります」
赤染衛門の筆が走る。
「例えば、寵姫の一族だけが重く用いられる。必要以上の贈り物や普請が行われる。宮中の人事が情に引かれる。民の負担が増える。諫める者が遠ざけられる」
有子が真剣な顔で記録を取る。常盤は、外へ持ち出した時にどれほど刺さるかを考えています。
「そうなれば、愛は二人だけの美談ではありません。国の仕組みを壊す力になります」
唐衣の君が、少し反論する。
「けれど、楊貴妃はそれほどまでに愛されたからこそ、今も語られるのでしょう?」
「はい。語られます」
私は頷いた。
「ただし、本人は幸せに生き延びていません」
唐衣の君が黙った。
「詩に残ることと、人として勝つことは違います」
藤壺が静かになりました。これは大事です。後世に悲恋として語られることは、物語としては強い。でも、当事者にとってはどうか。
死んだ後に美しく語られても、死んでいる。国が乱れた後に愛を詠まれても、乱れている。民が苦しんだ後に涙を流されても、苦しみは戻らない。美しい悲劇を、美しいからといって勝利にしてはいけない。
「寵姫として燃え上がることは、短期的には強いです」
私は続けた。
「帝の目を引く。贈り物が集まる。周囲がひれ伏す。噂になる。詩になる」
唐衣の君の目が少し動く。
「ですが、燃え上がるものは、燃え尽きます」
若菜が、香炉の火を見た。
「強い香と同じですね」
「そうです」
私は頷いた。
「強すぎる香は、その場では人を奪います。でも、長くいると疲れる。後には煙たさが残ることもあります」
澄子が静かに言った。
「灯も同じです。火を大きくすれば明るいですが、油を早く使います」
「その通りです」
私は扇を膝に置いた。
「寵姫は、炎です。后は、炉です」
赤染衛門の筆が止まった。
「姫様、それは良い比喩です」
「ありがとうございます」
「そのまま書きます」
「お願いします」
寵姫は、燃え上がる。人の目を奪う。熱を生む。でも、火勢が強すぎれば周囲を焼きます。
后は、炉であるべきです。火を保つ。家を暖める。人が集まれる場所を作る。燃料を見て、風を見て、灰を整える。派手ではありません。けれど、長く続く。
「私が目指すのは、寵姫ではありません」
藤壺の女房たちがこちらを見る。
「安定した后です」
地味な言葉です。恋愛物語の題にはならないかもしれない。詩人は燃える恋を好みます。人は悲劇に涙します。
でも、政治は日々続く。御殿は毎日運営される。女房たちは暮らし、紙は必要で、香は焚かれ、記録は残り、帝は休む場を求めます。そこに必要なのは、一瞬の熱狂ではありません。
安心して戻れる場所。判断を歪めない距離。情はあっても、政を壊さない節度。周囲が過剰に振り回されない安定。
それが后の強さです。
唐衣の君は、まだ納得しきっていない顔でした。
「ですが、女として愛されたいと思う心は、自然ではございませんか」
「自然です」
私は即答した。
「それを否定するつもりはありません。愛されたいと思う心を恥じる必要もありません」
唐衣の君の表情が、少し緩む。
「ただ」
「ただ?」
「愛されることを、自分の価値の全てにしてはいけません」
藤壺が静まり返った。
「帝の訪れが多い日には誇り、少ない日には自分を失う。贈り物があれば勝ち、なければ負け。文が来れば価値があり、来なければ価値がない。そんな生き方は、あまりにも相手の機嫌に命綱を預けすぎています」
菅原の君が、扇を握る手を緩めました。小少将は目を伏せる。常盤も、珍しく黙っています。宮中の女たちは、皆それを知っています。
誰かの訪れを待つ夜。文が来ない朝。他の御殿へ帝が向かったと聞く時の痛み。自分ではどうにもできない評価に、心を揺らされる苦しさ。恋愛至上主義は、華やかに見えて、実は過酷です。
私は静かに言いました。
「愛は大切です。けれど、愛を唯一の通貨にすると、相場が荒れた時に破産します」
赤染衛門の筆が止まった。
「姫様」
「はい」
「通貨、相場、破産」
「……雅にお願いします」
「『御心ひとつに身の価を預ければ、移ろいのたびに心細くなる』」
「さすがです」
唐衣の君は、完全に沈黙した。私は最後に、核心を言いました。
「国を傾ける愛など、会計担当から見れば災害です」
藤壺の空気が凍った。赤染衛門が目を閉じた。
常盤が口を押さえた。菅原の君は「会計担当とは?」と小声で呟いた。春枝は紙箱を抱えたまま固まっている。
有子は、書くべきかどうか迷って筆を浮かせている。紫式部は、横を向いた。笑ったのを隠したのかもしれない。
赤染衛門が、ゆっくり目を開けた。
「姫様」
「はい」
「今の一文は、そのままでは残せません」
「分かっています」
「しかし、趣旨は残します」
「お願いします」
赤染衛門は筆を走らせた。
――国の本を揺るがすほどの寵は、政を預かる目には大いなる禍と映る。
「雅です」
「内容はかなり強いです」
「それでいいです」
唐衣の君は、深く息を吐いた。
「中宮様は、恋を軽んじておられるのかと思いました」
「軽んじてはいません」
「では、何を恐れておられるのですか」
「恋を、政治の免罪符にすることです」
唐衣の君は黙った。
「愛されているから許される。寵愛されているから誰も諫められない。美しいから費やしてよい。悲しい恋だから周囲が犠牲になってもよい。そういう空気を恐れています」
紫式部が、静かに顔を上げた。
「それは、物語にもありますね」
「ええ」
「愛することで、自分の過ちを正当化する男君」
「よくいます」
「書きます」
「ほどほどに」
紫式部は少しだけ微笑んだ。唐衣の君は、先ほどまでの華やかな勢いを失っていた。でも、不快そうではなかった。むしろ、何かを考え込んでいる。
「楊貴妃は、勝者ではなかったのでしょうか」
彼女が小さく尋ねます。私は答えました。
「物語の中では、永遠の人になりました」
「では」
「でも、政治の現場では、守られなかった人です」
唐衣の君は目を伏せた。
「愛されても、守られないことがあるのですね」
「あります」
宮中の女房たちは、誰も何も言わなかった。これは重い。寵愛とは、守りのように見えて、時に檻であり、時に矢面でもあります。帝に愛される女は、同時に人々の嫉妬、怒り、不満、政治的責任の受け皿になる。
愛されるほど安全とは限らない。だからこそ、私は寵姫ではなく、后を目指します。
個人の魅力で帝を独占するのではない。御殿として、知的で安定した場を作る。女房たちを育てる。物語を支える。香を整える。記録を残す。帝が戻れる場所を作る。
愛は、その上にあればよい。土台ではなく、灯として。
「では、覚にまとめます」
赤染衛門が言いました。
「一つ。寵愛は尊いが、政を歪めてはならない」
「二つ。悲恋として美しいことと、人生や国家として望ましいことは別である」
「三つ。愛されることを、女の価値の全てにしない」
「四つ。后は寵姫の炎ではなく、長く火を保つ炉である」
「五つ。帝の御心を得ることより、帝が安心して戻れる場を整える」
「六つ。過度な寵愛が財政・人事・政を乱す時、それは災いとして扱う」
赤染衛門が書き終えると、藤壺には重いが澄んだ空気が満ちてゆきました。唐衣の君は、ゆっくり頭を下げました。
「中宮様。私は、愛されることばかりを勝ちと思っておりました」
「自然なことです」
「でも、それだけでは危ういのですね」
「はい」
「……少し、怖くなりました」
「怖いくらいで、ちょうどよいです」
私は微笑んだ。
「怖さを知っている人の方が、恋を大切にできます」
唐衣の君は、先ほどとは違う顔で藤壺を退出した。常盤がその背を見送りながら、小声で言った。
「今日の姫様は、かなり冷やされました」
「熱い恋愛論を冷やすには、財政が効きます」
「財政とは、強いのですね」
「強いです。だいたいの夢は、請求書で現実に戻ります」
「請求書?」
赤染衛門が即座に咳払いした。
「姫様」
「はい。雅に言い直します」
「お願いします」
「多くの夢は、費えの帳を見れば形を改めます」
「よろしいかと」
春枝が紙を見つめながら言った。
「紙も、使いすぎれば費えになりますものね」
「そうです」
「大切に使います」
「あなたは時々、紙の話に戻りますね」
「紙はすべての基礎です」
「一理あります」
その夜、紫式部は少し遅くまで筆を動かしていました。私は声をかけた。
「式部」
「はい」
「楊貴妃の話、何か思うところが?」
「愛される女が、必ずしも救われるわけではないというのは、物語になります」
「でしょうね」
「愛する男が、女を守れないことも」
「重いですね」
「姫様がおっしゃったので」
「私のせいにしないでください」
紫式部は少しだけ笑った。
「ですが、よい種です」
また物語が深くなる。
唐衣の君の恋愛マウントは、結果として紫式部の材料になりました。藤壺では、挑発も最終的に素材化されます。
恐ろしい御殿です。
〜 出典 〜
『長恨歌』特に有名な結び八句
臨別殷勤重寄詞
詞中有誓両心知
七月七日長生殿
夜半無人私語時
在天願作比翼鳥
在地願為連理枝
天長地久有時尽
此恨綿綿無絶期
(訳)別れの際、玄宗は使者にことづてを託した。そこには、二人だけが知る誓いの言葉が記されていた。七月七日の夜、長生殿で、人のいない真夜中に、二人はひそかに誓いを交わした。「天では、比翼の鳥となり、地では、連理の枝となろう。」たとえ天や地にも終わりが来ることがあっても、この悲しみと愛の想いだけは、いつまでも尽きることはない。
※テスト向けポイント:「恨」という漢字は現代語の「憎しみ」ではありません「切ない想い」です。ご存知かとは思いますが、念のため。
〜 舞台背景 〜
「長恨歌」(ちょうごんか)は、中国唐の詩人白居易によって作られた長編の漢詩である。陳鴻の長恨歌伝によれば、白居易、陳鴻、王質夫の三人が仙遊寺に集まり、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の逸話を語り合い感嘆した際、王質夫「世にも奇妙な出来事は、一代の傑出した才人の手で潤色されるのでなければ、時と共に消滅してしまって、世の中に伝わらなくなってしまう。楽天、君は詩に造詣が深く、情に豊かな人だ。試みにこの出来事で歌を作って見てはどうか」と言われたことをきっかけに、「長恨歌」を作ったと書かれている。『源氏物語』をはじめ平安時代の日本文学にも多大な影響を与えた。806年(元和元年)、白居易が35歳、盩厔県尉であった時の作。七言古詩(歌行とも言う)(120句)。出典:wikipedia




