二 雪山マウンティング、溶ける
登華殿では、定子サロンの女房たちが庭に雪山を築き、その風流を競い合っていた。挑発の文を受けた彰子は、同じ遊びで対抗することを避け、前世の知識を生かして「長く残る雪山」を作ることを提案する。やがてその雪山は帝の目にも留まり、彰子の御殿ならではの新たな価値を生み出していく。
宮中の朝は、思っていたより寒かった。
前世の私は、平安時代というものを、どこかぼんやりと美しい絵巻物の中の世界だと思っていました。十二単。御簾。香。和歌。月。雪。雅。
けれど実際に住んでみて分かったことがあります。雅は、断熱材ではない。板敷きは底冷えする。隙間風は容赦なく入ってくる。火鉢は近づけば熱いが、離れれば寒い。そして十二単は重い。とにかく重い。
優雅に衣を重ねているように見えて、現代人の感覚からすると、これはもはや着る寝袋です。しかも動きにくい。
(ユニクロのヒートテックが恋しい……)
などと、帝の后にあるまじきことを考えながら、私は御帳台の近くで膝掛け代わりの衣を整えていました。すると、廊の方から、ざわざわと女房たちの声が近づいてきます。
赤染衛門が、少し困った顔で私の前に進み出ました。
「姫様」
「何かしら」
「登華殿の方々が……その、雪山をお作りになったそうでございます」
「雪山?」
「はい。庭に降り積もった雪を集めて、小山のように。どれほど長く残るか、皆で興じていらっしゃるとか」
(ああ。出ました。平安文学「雪見」です)
平安宮廷名物、雪を見てテンションが上がる貴族たち。もちろん、現代でも雪が降れば人は少し浮かれます。けれどこの時代の貴族たちは、雪をただ見るだけでは終わりません。
雪を詠む。雪を眺める。雪に心を託す。雪で遊ぶ。そして、その遊びに教養と機知を絡め、相手を殴る。そう。雪合戦ではありません。雪マウントです。
赤染衛門は、袖の中から一通の文を取り出しました。
「こちらが、その……登華殿より届いた文でございます」
私は文を受け取りました。薄青い紙。雪を思わせる、淡く冷たい色。香は控えめ。筆跡は流れるように美しい。そして、書かれている内容は、だいたい予想通りでした。
『登華殿の庭には、雪の山いと高く積もり侍り。春まで残らむかと女房ども申し合ひて、朝夕眺め暮らし候。梅壺の御方にも、雪を愛づる御心はおはしますや。もしや、雪よりも静かに、石のごとくお過ごしにて候ふらむ』
……。
はいはいはい。翻訳しましょう。
「こっちは雪山作って、みんなで雅に盛り上がってますけど?そちらの彰子様にも、雪を楽しむ感性くらいあります?まあ、雪より静かな石の中宮様だから、何もせず固まってるんでしょうけどね」
ということです。
「石」ネタ、さっそく使い回してきました。流行語の消費が早い。平安宮中、実質SNSです。周囲の女房たちが、悔しそうに顔を赤らめました。
「なんて無礼な……!」
「姫様、これは明らかに挑発でございます」
「こちらも雪を集めましょう!」
「ええ、もっと大きな山を作って、見返してやりましょう!」
女房たちが一斉に騒ぎ始めます。私は文を畳みながら、彼女たちを見回しました。怒ってくれるのはありがたい。忠誠心の芽が出ている証拠です。
(でも…同じ土俵で大きさ勝負をしたら負けるわね)
定子サロンは、華やかな遊びを物語にするのが上手い。清少納言を筆頭に、何気ない出来事を「まあ、なんてをかし」と言語化し、周囲に共有し、伝説化する力があります。こちらが同じように雪山を作っても、たぶんこう言われるでしょう。
――あちらも真似をなさったのね。
――まあ、お可愛らしい。
――石の中宮様も、ようやく雪を覚えられたのかしら。
駄目です。真似は二番煎じになります。ならば、別の勝ち方をします。
「衛門」
「はい」
「登華殿の雪山は、どこに作られているの?」
「庭の、日当たりのよいあたりと聞いております。皆様が御簾越しに眺めやすい場所で」
「日当たりのよい場所」
私は思わず、口元を押さえました。笑いそうになったからです。いや、分かります。見栄えは大事です。雪山を作るなら、みんなから見える場所がいい。朝日を受けて白く輝く雪山。それはきっと美しいでしょう。でも。
(溶けるわよ、それ)
雪は気分で溶けるのではありません。太陽に当たれば溶ける。風に当たれば削られる。地面の熱でも下から溶ける。表面積が広ければ溶けやすい。
当たり前です。
けれど、この時代の貴族たちにとって、雪がいつまで残るかは、半分くらい風流と運と神仏の領域なのでしょう。私は赤染衛門に尋ねました。
「庭の中で、一番日陰になる場所は?」
「日陰、でございますか?」
「ええ。日があまり当たらず、風も通りにくく、地面が冷えている場所」
「それでしたら、北側の築地近くに……。ですが、そこは見栄えがあまり」
「見栄えは後で作ればいいわ」
女房たちが首を傾げます。私は続けました。
「雪を集めてください。ただし、大きさを競うためではありません。長く残すために」
「長く……?」
「ええ。登華殿の雪山より、一日でも長く残します」
その瞬間、女房たちの目が変わりました。怒りが、好奇心に変わる。悔しさが、期待に変わる。いい反応です。
組織とは、感情を燃料にして、目的へ向けて整えるものです。怒りのまま突っ込ませれば喧嘩。方向を与えればプロジェクト。私は、ゆっくりと指示を出しました。
「まず、雪は踏み固めすぎないで。中に空気を含ませた方が冷たさを保ちやすい部分もあるけれど、崩れない程度にはまとめること。表面はなめらかにして、雨水や溶けた水が流れ落ちるように」
「は、はい」
「地面に直接置かないで。下に藁か枝を敷いて、地面の熱を避けます」
「地面の、熱……?」
「地面は雪より温かいの。下から溶けるわ」
女房たちは顔を見合わせました。たぶん、言っている意味の半分も分かっていません。けれど、私が断言しているので、とりあえず聞いています。こういう時は、難しい理屈を全部説明してはいけません。実行できる形に落とします。説明は結果が出てからでいい。
「それから、日中は薄い布か筵で覆って。完全に隠すのではなく、風と日差しを避ける程度に。夜は外して、冷気に当てる」
「雪を、覆うのでございますか?」
若い女房が驚いた声を上げました。
「それでは、せっかくの雪山が見えません」
「見せる時間を決めればいいの」
私は即答しました。
「朝と夕だけ、覆いを外します。その時に女房たちを集めて眺める。ずっと見せっぱなしにするより、希少価値が出るでしょう?」
前世の知識で言うなら、限定公開。常時展示ではなく、時間指定イベントです。人は、いつでも見られるものには飽きる。限られた時間にしか見られないものには、勝手に価値を感じる。現代の美術館も、限定スイーツも、アイドルの配信も、だいたい同じ原理です。
「さらに、雪山の周りに白い砂か薄い布を敷いて、溶けた水で泥が跳ねないように。見栄えが悪くなるから」
「まあ……」
「雪山の側には、梅の枝を一本。まだ蕾のものを。雪が残る間に蕾が開けば、春を待つ趣になります」
ここで、女房たちの目が輝きました。ようやく雅に接続されたからです。合理性だけでは、宮中では嫌われます。「便利です」「効率的です」だけでは、人は動きません。そこに、物語が必要なのです。
雪を長く残す。その雪のそばで、梅が開く。冬が粘り、春が忍び寄る。これなら、歌にもなる。噂にもなる。帝にも見せられる。
「姫様……それは、いとをかしゅうございます」
赤染衛門が、少し震えた声で言いました。私は内心で頷きます。
(よし。現場責任者が、乗ってきた)
プロジェクトは、現場責任者が乗れば半分勝ちです。その日のうちに、彰子方の女房たちは動き出しました。最初はおっかなびっくり。けれど作業が進むにつれ、妙な熱が生まれました。
「そこ、日が当たりすぎます!」
「藁をもう少し厚く!」
「布をかけるなら、こちらの薄物の方が美しゅうございます」
「梅の枝は、もう少し左へ。御簾から見た時に映えませぬ」
女房たちが、意見を出し合い始めます。私はそれを見ながら、静かに満足しました。これです。これが欲しかったのです。単なる対抗心ではなく、自分たちで工夫し、場を作り、成果を見たいと思う気持ち。
女房たちが「彰子様のために怒る」だけでは弱い。「彰子様の御殿で、自分たちが面白いことをしている」と思わせる必要があります。所属意識は、与えられるものではありません。一緒に何かを作った時に生まれるのです。
翌朝。登華殿の雪山は、噂通り見事だったそうです。日の光を受けてきらきらと輝き、女房たちが歓声を上げたとか。清少納言らしき女房が、「春まで残りそうですこと」などと機知めいたことを言い、周囲が笑ったとか。
一方、こちらの雪山は地味でした。北側の築地近く。日陰。藁の上。昼には薄布で覆われる。常時公開ではない。最初、他の御殿の女房たちは笑いました。
「梅壺の御方は、雪山まで引きこもりですのね」
「雪まで石になさるおつもりかしら」
「覆いをかけるなど、まるで病人ですこと」
ええ、言っていなさい。勝負は初日ではありません。運用です。
三日後。
登華殿の雪山は、少し低くなりました。もちろん、まだ美しい。けれど朝日と人の出入りで表面が崩れ、泥が混じり始めていると聞きました。こちらの雪山は、まだ白い。女房たちは朝と夕にだけ覆いを外し、そのたびに集まって眺めます。最初は地味だったその時間が、だんだん特別なものになっていきました。
「姫様、今日も残っております!」
「梅の蕾が、少しふくらんだようでございます」
「覆いを外す時の白さが、かえって美しゅうございますね」
女房たちは、まるで秘密を共有する少女のように笑いました。
五日後。
登華殿の雪山は、半分ほどになったそうです。
七日後。
泥が目立ち、もはや山というより残雪になったとか。
そして十日後。
登華殿の雪山は消えました。その知らせを持ってきた若い女房は、頬を紅潮させていました。
「姫様! あちらの雪山、ついに消えたそうでございます!」
「そう」
「ですが、こちらは……」
彼女は御簾の外へ目を向けます。北側の築地近く。小さくはなったものの、まだ白い雪の塊が残っていました。そのそばで、梅の蕾が一輪、ほころびかけています。赤染衛門が、感嘆したように息を吐きました。
「まことに……残りました」
「ええ」
「なぜ、このようなことが……」
私は少し考えました。ここで全部を科学的に説明しても、たぶん伝わりません。太陽光、熱伝導、対流、断熱。言葉にしたところで、女房たちには呪文に聞こえるでしょう。だから、宮中の言葉に訳しました。
「雪にも、居心地のよい場所があるのよ」
「雪の、居心地……」
「強い日に晒され、風に削られ、人に囲まれて褒めそやされれば、早く消える。静かな日陰で、余計な熱を避け、大切に扱えば、長く残る」
女房たちは黙りました。その言葉が、雪だけの話ではないと気づいたのでしょう。才能も。美貌も。寵愛も。人の心も。
見せびらかされ、消費され、褒められるために晒され続ければ、早く削れる。守られ、整えられ、適切な時にだけ光を受ければ、長く残る。赤染衛門が、深く頭を下げました。
「姫様のお考え、ようやく少し分かった気がいたします」
「本当?」
「はい。これは、雪の勝負ではございませぬな」
「ええ」
私は微笑みました。
「場の作り方の勝負です」
その日の夕方。一条天皇が、ふいにこちらへ立ち寄られました。もちろん、偶然ではないでしょう。宮中に噂が流れたのです。
――登華殿の雪山は消えた。
――梅壺の雪は、まだ残っている。
――しかも、梅の蕾が開きかけている。
帝は御簾の前に立ち、庭の雪を眺めました。
「これが、噂の雪か」
その声には、わずかな驚きが混じっていました。
「彰子」
「はい」
「なぜ、こちらの雪だけが残った」
私は御簾の奥で、少しだけ頭を下げました。
「雪が残りたがるように、場所を整えただけでございます」
「雪が、残りたがる?」
「はい。人も雪も、無理に輝かせようとすれば、早く消えますゆえ」
帝は黙りました。庭では、薄暮の光の中、小さな雪山が青白く浮かんでいます。そのそばで、梅の蕾が一つ、静かに開こうとしている。派手ではありません。登華殿のような歓声も、清少納言の鋭い言葉もない。けれど、目が離せない。帝はしばらくそれを見つめた後、低く笑いました。
「そなたは、面白いことを考える」
その瞬間、背後の女房たちが息を呑む気配がしました。「面白い。」それは、これまで定子様の御方に向けられていた言葉です。清少納言たちの機知に、華やかな遊びに、帝が向けていた評価。その言葉が今、初めて、こちらへ落ちてきた。私は顔を伏せたまま、静かに答えました。
「恐れ入ります」
内心では、拳を握っていました。大勝利ではありません。帝の心がこちらへ移ったわけでもない。定子サロンの輝きが失われたわけでもない。でも、重要なのはそこではありません。
こちらの御殿に、初めて固有の価値が生まれたのです。定子サロンは、華やかに笑う場所。彰子サロンは、静かに驚く場所。勝ち筋が見えました。
その夜、赤染衛門がこっそり教えてくれました。
「登華殿では、清少納言様がこちらの雪の話をお聞きになり、しばらく黙っておられたそうでございます」
「そう」
「その後、『雪を隠して勝つとは、ずいぶん奥ゆかしいこと』とおっしゃったとか」
私は思わず笑いました。負け惜しみにしては、上品です。さすが清少納言。切れ味がよい。
「それで?」
「周りの女房たちは笑おうとなさったそうですが……誰も、うまく笑えなかったとか」
「なぜ?」
「こちらの雪が、まだ残っておりますので」
なるほど。結果が残っている悪口は、笑いにくい。事実は、毒舌の足元を冷やす。私は庭の方を見ました。小さな雪山。開きかけた梅。それを守るように掛けられた薄布。派手ではない。でも、消えない。
それが、石の中宮と呼ばれた私の、最初の勝利でした。
〜 出典史料 〜
『枕草子』雪の山の段
さて、その雪の山は、まことの越のにやあらむと見えて、消えげもなし。黒うなりて見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心地して、いかで十五日待ちつけさせむと念ずる。されど、「七日をだにえ過ぐさじ」と、なほいへば、いかでこれ見果てむとみな人思ふほどに、にはかに内裏へ三日に入らせ給ふべし…
〜 舞台背景 〜
「雪のいと高う降りたるを……」で始まる「香炉峰の雪」ほどメジャーではない章段「雪の山」が元ネタです。でも、「香炉峰の雪」を知ってるような枕草子ヲタクな方にとっては「雪の山」も常識かもですがw




