はじめ これは嫁入りではなく、出陣です
転生した先は、平安時代。そして迎えたのは、藤原道長の娘・彰子として一条天皇へ入内する日。帝にはすでに最愛の中宮・定子がおり、私は都中から「政略結婚の姫」と見られる完全アウェーの立場。それでも中身が転生者である彰子は、現代社会で培った処世術を武器に、この雅で残酷な宮中へ足を踏み入れる。
――見る人、耳目驚かぬは無し。
なるほど。確かに、それはそうでしょう。晩秋の都大路を、極彩色の行列がゆっくりと進んでいるのです。
公卿、殿上人、女房、童女、下仕え。選び抜かれた人々が、これでもかというほど豪奢な装束をまとい、牛車の前後を固めています。
衣は重なり、香は漂い、車の飾りは陽を受けてきらきらと光る。道の端に控える人々は、息を呑み、頭を垂れ、あるいは好奇心を隠しきれない目でこちらを見ています。
まさに、平安貴族の財力と権力を煮詰めて、金箔をまぶしたような光景。前世の私なら、たぶんこう言ったでしょう。
――うわ、結婚式の演出費、いくら?
けれど、問題はそこではありません。この行列の中心にいるのが、十二歳の少女であること。
そして、その少女――つまり私が、これから向かう先が、すでに最愛の妻を持つ帝のもとであること。さらに言えば、その結婚が、本人の恋愛感情など一ミリも関係ない、父親の政治戦略によって組まれた大型案件であること。
現代日本なら、児童相談所、労基署、家庭裁判所、ついでに週刊誌がまとめて出動する案件です。しかし残念ながら、ここは現代日本ではありません。千年以上昔の、平安時代。
そして私は、藤原彰子。
左大臣・藤原道長の長女。この時代の権力モンスターが、己の栄華を完成させるために帝のもとへ送り込む、最高級の政治カードです。
……うん。設定が重い。
牛車が、がたりと揺れました。その拍子に、重ねた衣がずしりと肩に食い込みます。表着、打衣、単、袴。色とりどりの絹は、見た目だけなら美しい。赤。白。濃紫。晩秋の景色に映えるよう計算された重ねの色目は、たぶん見る人が見ればため息をつくほど見事なのでしょう。けれど、着ている側の感想は一つです。
重い。…とにかく重い。
現代人の感覚で言えば、最高級ブランドの布団を何枚も肩に巻きつけられたまま、姿勢よく座らされているようなものです。しかも寒い。雅は、断熱材ではありません。
「彰子様、お加減はいかがでございましょう」
隣に控えていた女房が、心配そうに声をかけてきました。彼女の衣も、今日のために新調されたのでしょう。光沢のある唐衣が美しく、髪も丁寧に整えられています。
けれど、その目の奥には、隠しきれない不安が揺れていました。無理もありません。彼女たちは知っているのです。私たちがこれから向かう先が、歓迎の場ではなく、戦場であることを。
「大丈夫よ」
私は静かに答えました。声は小さく。表情は控えめに。十二歳の姫君らしく、余計な感情は見せない。それだけで、女房は少し安心したように頭を下げました。たぶん彼女は、こう思ったのでしょう。
――彰子様は、お若いのに落ち着いていらっしゃる。
違います。落ち着いているのではありません。感情の出し方を、前世で嫌というほど学んだだけです。
私は、覚えています。満員電車。蛍光灯の白い光。締切直前の資料修正。上司の「これ、簡単でいいから」に潜む地獄。社内チャットの既読圧。会議室で笑顔のまま交わされる責任の押しつけ合い。そして、女子社員同士の、丁寧語で行われるマウンティング。
そう。
私は元・現代日本の会社員でした。たぶん、過労と事故の合わせ技で死んだのだと思います。ようやく取れた連休の初日、もう何も考えたくないと思いながら帰っていたことだけは覚えています。
そして次に目覚めた時、私はこの世界にいました。薄暗い寝殿造の屋敷。御簾。几帳。香。長すぎる髪。やたらと丁寧に話す周囲の人々。最初は、夢だと思いました。次に、時代劇の撮影かと思いました。
けれど、鏡に映った自分の顔を見て、理解しました。ふっくらとした頬。まだ幼い輪郭。けれど、妙に整った顔立ち。そして、周囲の人々が私を呼ぶ名前。
彰子様。
藤原彰子。歴史の教科書で見た名前です。藤原道長の娘。一条天皇の中宮。後一条天皇、後朱雀天皇の母。のちに上東門院と呼ばれる女性。
つまり私は、平安時代の超重要人物に転生してしまったのです。普通なら喜ぶところでしょうか。歴史に名を残す女性。権力者の娘。将来は国母。勝ち組確定。
いいえ。
そんな単純な話ではありません。歴史上の勝ち組というのは、当人にとって幸せだったとは限りません。むしろ、周囲の期待と政治の都合に押し潰されながら、何とか生き残った結果、後世から「勝った」と呼ばれているだけの可能性が高いのです。しかも、私が放り込まれた時点は、非常に面倒な時期でした。
長保元年(西暦999年)、十一月一日。
私は今日、一条天皇のもとへ入内します。けれど帝には、すでに最愛の女性がいます。
正妻・藤原定子。
美しく、聡明で、華やか。帝に深く愛され、清少納言をはじめとする才気あふれる女房たちに囲まれた、宮中の太陽のような女性。彼女の御方には、笑いがある。機知がある。教養がある。帝との思い出がある。「あちらにいれば、何か面白いものが見られる」という期待があります。対して、私は?
父・道長の政治力で送り込まれる十二歳の姫。実績なし。帝の愛情なし。本人の意思も、たぶんほぼ考慮なし。世間の見方は、分かりきっています。
――左大臣殿が、権力で姫君を押し込んだ。
――定子様がお可哀想。
――あちらの姫君はおっとりしている、石のようだ。
はい。
最悪の初期評判です。現代なら、配属初日にすでに社内チャットで変なあだ名がついている状態。しかも相手部署には、社内人気ナンバーワンの美人管理職と、発信力抜群の広報エースがいる。こちらにあるのは、権力者の父と、大量の予算と、気まずい沈黙。
……うん。やっぱり設定が重い。
牛車の外から、馬の蹄の音が聞こえました。おそらく父、藤原道長が、得意満面で進んでいるのでしょう。今日の行列は、単なる嫁入りではありません。父にとっては、政治的デモンストレーションです。
見よ。これが左大臣家の力だ。これだけの人を動かせる。これだけの財を注ぎ込める。娘にはこれだけの価値がある。そう、都中に見せつけるための、雅な圧力。
前世風に言えば、株主総会前の大型PRイベントです。そして私は、その中心商品。父の未来を担う、最重要投資案件。出発前、父は私に言いました。
「彰子、顔を上げなさい。お前は、この藤原氏の望みなのだよ」
声は優しかった。けれど、その目は父親のものではありませんでした。愛娘を嫁がせる寂しさではない。不安げな少女を気遣う温かさでもない。そこにあったのは、値上がり確実の銘柄を見つめる投資家の目でした。
お前が帝の心を掴めば、藤原氏はさらに栄える。お前が皇子を産めば、私は外祖父となる。お前が中宮となれば、我が家の栄華は盤石となる。たぶん、そういう計算がぎっしり詰まっていたのでしょう。
腹が立つか、と聞かれれば。もちろん、立ちます。
自分の人生を道具にされて、何も思わないほど私は聖人ではありません。けれど同時に、こうも思いました。使われるだけで終わるつもりはない。父が私を投資案件として見るなら、こちらも父を資金源として見ればいい。
財力。人脈。調度。紙。香。女房。教育環境。
全部、使わせてもらいます。父が私を駒として盤上に置くなら、その駒が勝手に盤面そのものを組み替えても、文句は言えないでしょう。私は、父の道具では終わりません。
この呪詛と陰謀の迷宮で、生き残る。定子様の華やかさに呑まれず、清少納言の言葉に斬られず、帝の無関心に潰されず、女房たちの不安を組織に変えます。
愛されることを、目標にはしません。なぜなら、愛は不安定だから。帝の愛は、すでに定子様のものです。そこに十二歳の私が飛び込んで、「私を見てください」と泣いたところで、勝てるわけがありません。
だから、別のものを取りにいきます。信用。習慣。居心地。必要性。そして、時間。人の心は、強い光に一瞬で奪われることもある。けれど、長く身を置く場所は、必ずしも一番眩しい場所とは限りません。
定子様が太陽なら、私は石でいい。でも、ただの石ころではありません。場を支える礎石。刃を研ぐ砥石。光を溜める宝石。積み上げれば城壁になる石。誰かが私を石と呼ぶなら、その意味はこちらで変えてみせます。
悪口は、否定するだけでは相手のものです。受け取り、磨き、別の価値を与えた時、それはこちらの武器になります。
牛車が、また揺れました。御簾の隙間から、冷たい風が入り込みます。ここは、絵巻物の中の美しい世界ではありません。雅で、残酷で、言葉一つ、扇の角度一つ、文の紙色一つで人の評判が変わる場所。
女たちは男に選ばれるだけの存在に見えて、その実、御簾の内側で情報を操り、人を動かし、噂を流し、場の空気を作る。
――平安宮中。
つまり、超高難度の政治空間です。前世で身につけた処世術が、どこまで通じるかは分かりません。けれど、少なくとも私は知っています。声の大きい人が、最後に勝つとは限らない。華やかな人が、最後まで残るとは限らない。最初に馬鹿にされた人間が、ずっと下にいるとも限らない。
勝てる場所を選ぶ。勝てない土俵には乗らない。相手の評価軸を読み、必要なら評価軸そのものを変える。怒りを目的に変え、不安を仕組みに変え、沈黙を戦略に変える。それが、私の生存戦略です。
「彰子様。もうすぐ、内裏に到着いたします」
女房の声は、わずかに震えていました。彼女も怖いのでしょう。もちろん私も怖くないと言えば嘘になります。一条天皇が、私をどう見るのか。定子様の女房たちが、どんな噂を流すのか。父が、どこまで私に圧力をかけてくるのか。この幼い身体で、どこまで宮中の空気に耐えられるのか。
私は、重い袖を少しだけ整えました。扇を手に取り、口元を隠します。十二歳の少女らしく、うつむき加減に。けれど、心の中では顔を上げて。
内裏の門が見えてきました。ここをくぐれば、もう戻れません。父の娘として。帝の女御として。定子様の対抗馬として。そして、後世に名を残す藤原彰子として。私は、この場所で生きていく。
ならば、最初に決めておきましょう。これは、嫁入りではありません。
――出陣です。
〜 出典史料 〜
『栄花物語』彰子入内
大殿の姫君、十二に成らせ給へば、年の内に御裳着有りて、やがて内にと思し急がせ給ふ。万せさせ給へり。女房の有様共、彼の初雪の女御殿に参り込みし人々よりも、これはめでたし。御几帳御屏風より始め、なべてならぬ様なり…
〜 舞台背景 〜
「栄花物語」の第6巻、超有名な「耀く藤壺」からのプロローグです。なんか今話のストーリーに既視感があるのですが、翻訳するとこうとしか書けません。決して誰かの話をパクった訳ではないですw




