望美さんの場合
望美さんは、久しぶりに昔住んでいた駅に降り立った。
駅から出てゆっくりと歩き出す。
そして……駅近くの商店街の入り口までやって来て、彼女は、ほんの少しだけ足を止めた。
子どもの頃、母と手をつないで歩いた道。
夕方になると、どこからともなく漂ってきたコロッケを揚げる香ばしい香り。
お豆腐屋さん、お肉屋さん、お魚屋さん……。
お店を見ながら母と並んで商店街を歩く。
「望美ちゃん、今日の夕ご飯は何にしようか?」
母が私の顔を覗いて聞いたっけ?
商店街は、あの頃のままではもうなかったけれど……
ふと視線を上げた先に、どこか見覚えのある看板があった。
「あれ?ここ……。」
かつて両親と通った喫茶店だった場所。
名前は変わっている。
でも、そこにある喫茶店の佇まいは、確かに望美さんの記憶の中にある思い出の場所と重なっていた。
望美さんは、ゆっくりとカフェの扉を押した。
店内は少し明るくなっていた。
椅子もテーブルも、新しくなっている。
けれど、窓から差し込む光の柔らかさや、どこか懐かしい木の香りは、変わっていなかった。
「いらっしゃいませ。」
声をかけてきたのは、穏やかな表情の男性だった。
「お一人様ですか?」
「はい……あの、ここ……昔も喫茶店でしたよね。」
望美さんの問いに店長の隼人は少しだけ目を細めた。
「ええ。お客様は、前の店を知っていらっしゃるんですね。」
その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。
「はい。」
「そうなんですね。
時々、お客様のように昔の店を知っておられる方もご来店されますよ。
どうぞ、こちらのお席におかけください。」
窓際の席に座ると、望美さんは自然と過去の記憶が甦ってきた。
ガラスのグラスに入ったクリームソーダ。
シュワシュワと弾ける泡。
赤いさくらんぼ。
向かいには、珈琲を飲む父と母。
時には、父が頼んだホットケーキを、三人で分け合った。
「あの……クリームソーダ、ありますか?」
気づけば、望美さんは、そう口にしていた。
「はい、ございますよ。」
やわらかく微笑む隼人に、以前ここの店長だった人の面影を重ねる。
運ばれてきたグラスを見た瞬間、懐かしい思い出が込み上げてきた。
--同じだ。
あの頃と変わらない鮮やかなグリーンの液体。
上に乗った白いソフトクリーム。
ひと口飲むと、炭酸が舌に広がる感じ。
「美味しい……。あの時のままだ。」
小さくこぼれた声に、隼人がそっと近づいた。
「前のお店でも、クリームソーダをよく飲まれていたのですか?」
「はい。子どもの頃、よく両親と来てクリームソーダ、頼みました。」
少しだけ間を置いて、続ける。
「長谷川さん……でしたよね。ご夫婦でやっていらして。」
その名前に、店主は静かに頷いた。
「はい。長谷川陽子さんと、貴史さんです。」
「やっぱり……。」
胸の奥にしまっていた記憶が、ゆっくりと開いていく。
「帰りに、飴をいただいたことがあって……いつもお二人にはとても優しくして頂きました。」
隼人は、優しく微笑んだ。
「そうでしたか。お二人とも、本当に優しい方ですよね。」
望美さんは思いきって尋ねた。
「あの……あなたは長谷川さんご夫妻とご親戚なんですか?」
「いえ、直接の家族ではないのですが、ご縁があってこのカフェを継がせて頂きました。」
「そうなんですね……。」
「私は、長谷川さんご夫妻から継いだこの場所を大切にしたいと思って日々、働いております。」
その言葉を聞いたとき、望美さんは自然と頷いていた。
ああ、この人なら大丈夫。
隼人の温かそうな人柄を感じてそう思った。
カフェを出る時、望美さんは店内を振り返った。
さっきまでいた場所。
けれど、もうただの“昔の場所”ではなかった。
「また、来てもいいですか?」
望美さんがそう聞くと……
隼人は静かに笑った。
「もちろんです。またのお越しをお待ちしています。
あっ、宜しかったらこちらをどうぞ。」
小さな籠には、コーヒーキャンディや果物の味の飴が入っていた。
「じゃあ、これにします。」
望美さんは、コーヒーキャンディを一つ摘まむとジャケットのポケットに入れた。
カフェの外に出ると、夕方の風が優しく吹いていた。
変わってしまったものもある。
戻らない時間もある。
だけど……
残っているものも、確かにそこにはあった。
望美さんは、もう一度だけ振り返り、カフェ・エスポワールを見ると優しく微笑んだ。
「また、来よう。」
カフェ・エスポワールには、昔の思い出を胸にやって来る人たちもいる。
隼人は、そんな人たちにもこの店で寛いでもらいたいと思っている。
優しく温かな記憶--。
懐かしい人--。
カフェの椅子に腰掛けたら、またそうしたものに出会えるのかもしれない。
隼人は、窓の外を見ながら、そんなことを考えていた。
夕暮れの商店街には、街灯の明かりが灯り始め、空は穏やかな茜色に染まっていた。




