光一さんの場合
商店街の通りを、光一さんはゆっくりと歩いていた。
ポケットのスマートフォンから音声案内。
「目的地まで、あと80メートルです。」
足元では、盲導犬のジョンが落ち着いて歩いている。
「このまま真っ直ぐだよ、ジョン。」
若いゴールデン・レトリバー、ジョンの歩みは落ち着いていて、迷いがない。
スマートフォンの音声案内が目的地周辺に着いたことを告げた。
「ジョン、そろそろ着くみたいだ。」
光一さんが小さく声をかけると、ジョンの尻尾がかすかに揺れた。
春の風が頬をなでる。どこかで花の香りがした。
視力を失ってから、光一さんは匂いや風の変化に敏感になった気がする。
やがてジョンが足を止めた。
どうやら目的の場所に着いたらしい。
風に乗って珈琲の香りが漂う。
ジョンが少し歩調を変え、カフェ・エスポワールの入り口前で止まった。
店の中から、光一さんとジョンの姿を見て出てきた店長の隼人が声をかけた。
「いらっしゃいませ。」
その声は穏やかで優しさに満ちた声だった。
「よろしければ、テラス席があります。」
「では、テラス席で。」
光一さんが答える。
「こちらです。」
隼人が案内すると、ジョンがテラス席に光一さんを導いた。
「お客様の右手に椅子があります。」
隼人が椅子の場所を知らせると光一さんは、静かに椅子に座った。
光一さんの足元にジョンが伏せた。
「何になさいますか?ブレンドコーヒーがおすすめですが……。
カフェ・オレや紅茶もご用意しております。」
「じゃあ、ブレンドでお願いします。」
「かしこまりました。」
隼人が店内に入り、しばらくするとブレンドコーヒーを運んできた。
「お待たせしました。ごゆっくりお過ごしください。」
光一さんは、コーヒーを一口飲むとカップをソーサーに置いた。
「美味しいな……。
来てよかったよ、ジョン。」
そう言うと光一さんは、優しくジョンの頭を撫でた。
春の風に、桜の花びらが舞っていた。
その桜の花のひとひらが、ジョンの鼻の上に舞い落ちた。
プルプルッとジョンが頭を振る。
「どうした?ジョン。」
ジョンはクウンと鳴くと光一さんの方を見た。
しばらくするとカフェの扉が開き、隼人が現れた。
「あの……これ、犬のおやつなんですが……。
ボーロです。
良かったら、ワンちゃんに食べさせてあげてください。」
「えっ、いいんですか?」
「はい。犬用のボ-ロで無添加です。
安全に食べていただけるかと……。
勿論、今日はサービスさせて頂きます。」
「そうですか。ありがとうございます。
じゃあ、お言葉に甘えて。」
甘いミルクの香りがするボーロを一粒、小袋から取り出すと光一さんは、ジョンに与えた。
ジョンは嬉しそうにボーロを食べた。
「ジョン、良かったな。」
「ジョンちゃんって言うんですね。」
「はい。僕の相棒です。
今日は、スマホで犬連れで入れるカフェを探したら、こちらが出てきたので、訪ねてみました。
ブレンドコーヒー、凄く美味しかったですよ。」
「ありがとうございます。そう言って頂けて良かったです。」
「こちらこそ、ジョンにボーロ、ありがとうございました。
また、来ます。」
そう言って光一さんは立ち上がった。
ジョンも光一さんと共に立ち上がり、出口に向かってゆっくりと歩き出した。
「是非、またお越しください。
お待ちしています。」
隼人は、光一さんとジョンを丁寧に見送った。
それから……
時々、光一さんとジョンはカフェ・エスポワールのテラス席を訪れるようになった。
ジョンはカフェに来る子どもたちに人気だった。
皆ジョンのことを「可愛いね~。」と言いながら遠くから眺めていた。
ある日、たくちゃんがお母さんとカフェにやって来た。
たくちゃんは、前からジョンのことが気になって仕方がない。
「ねぇ、ママ。あのワンちゃん、撫でてみたい。」
「そうねぇ。じゃあ、飼い主さんにお願いしてみたら?」
たくちゃんは頷くと恐る恐る光一さんの側に行き、
「あの……ワンちゃんの頭を撫でてもいいですか?」
と聞いた。
「あぁ、いいですよ。ジョン、いいよな?」
ジョンは顔を上げて、光一さんを見た。
たくちゃんは、しゃがんでそっとジョンの頭を撫でた。
ジョンは気持ち良さそうに目を細めた。
「可愛い~。」
たくちゃんは、嬉しそうにジョンを見つめている。
「良かったわね、拓人。
ありがとうございます。撫でさせてくださって。」
たくちゃんのお母さん、真弓さんも光一さんにお礼を言った。
「いえ。いつも、ジョンは僕と二人っきりなんで。
こうやって、他の方に可愛がってもらえて良かったです。」
「まぁ。本当ですか?ジョン君、大人しいんですね。」
「仕事中はそうですが……
実は家では結構、甘えん坊でやんちゃなところもあるんですよ。」
「そうなんですね。」
「ママ、ジョン君、甘えん坊なんだね。」
たくちゃんは、嬉しそうに真弓さんを見上げた。
「拓人に似てるかもね。」
真弓さんは、そう言って笑った。
別の日には、飯倉さんが隼人から犬用ボーロを買って、「あの……これ、ワンちゃんにどうぞ。」と光一さんに渡すこともあった。
光一さんは、ちょっとびっくりしたような顔をしたが、すぐに飯倉さんに
「ありがとうございます。ジョンが喜びます。」
とお礼を言った。
こうして、光一さんは、カフェ・エスポワールにやって来るお客さんたちと徐々に仲良くなっていった。
光一さんは、近所で鍼灸師をしているという。
仲良くなったお客さんたちが、光一さんのお店を訪ねることもあるようだ。
隼人が作ったテラス席。
色々なお客さんがワンちゃんを連れて訪ねては、他のお客さんとも交流するようになってきた。
誰かの世界が他の人の世界に触れて少しだけ広がっていく--。
隼人は、そんな瞬間を見ると胸が高鳴った。
カフェ・エスポワールは、人と人、人と犬、犬と犬を繋ぐ場所になったのかもしれない。
今日も誰かがカフェの扉を開ける--。
次のお客さんは、どんな人だろう?
隼人は毎日わくわくしている。




