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陽子さんの場合

その日、陽子さんはタクシーから一人降り立った。


車が走り去り、陽子さんはゆっくりとカフェの扉の前に歩み寄る。


「こんにちは。」

陽子さんはカフェ・エスポワールの扉を開けた。


「あっ、陽子さん。」

店長の隼人がすぐに気がつき、足早に陽子さんに近づく。


「いらっしゃいませ。今日は潤さんと一緒じゃないんですね。」


「えぇ。潤さんは今日仕事が入ってしまって……。

どうしようかなと思ったんだけど、ホームからタクシーでここまで来ちゃった。」


「そうでしたか……。潤さんは、仕事かぁ。

でも、お一人で来てくださったなんて嬉しいです。」


「ふふ……、一人でもまだ、来られるわよ。

かつての私の職場なんだし。」

陽子さんが笑顔で答えた。


「そうですよね。陽子さんに今日は珈琲を淹れてもらおうかな。」


「あら、本当に?」

陽子さんは、隼人を嬉しそうに見上げた。


「えぇ、陽子さんがよろしければお願いします。

まずは、席におかけください。」


陽子さんは、案内された席に腰掛けると、ぐるりと店内を見渡した。


陽子さんは、かつて夫の貴史さんとこの喫茶店を経営していた。


その頃の店名は、『喫茶 ひだまり』だった。


陽子さんは、自分の席から懐かしそうに隼人のいるカウンターを見た。


自分と夫も十数年前、あのカウンターに立っていたっけ。

夫も私も元気で毎日、お客さんに珈琲や紅茶を淹れていたな……。


自家製のアップルパイも美味しいと評判だった。


陽子さんはそっと目をつぶるとその頃のことがまるで今のことのように瞼に浮かんだ。


自分たち夫婦のもとに隼人の実の父親である潤さんがやってきて、三人で喫茶店を切り盛りしていたこともあった。


事故で記憶を失っていた潤さんは、自分たち夫婦を実の親のように慕ってくれたーー。


今は、潤さんの息子の隼人がこの店を継いでくれている。

隼人は、実の父親を潤さん、育ての親である壮一のことを父さんと呼び、どちらの父親のことも大切に想っていた。



どこか今でも『喫茶 ひだまり』の温もりを感じさせる店内。


常連さんたちの雰囲気も皆リラックスしているように見えて、あの頃と変わらない。


誰もが心から寛げる、そんなお店にしたいねと当時、陽子さんは夫の貴史さんと話していた。


「隼人君、ちゃんと私たちの精神を継いでくれているのね。ありがたいわ。」

陽子さんは一人呟いた。


その時、カフェの扉が開き、隼人の双子の妹、咲耶さんが入ってきた。


「あっ、咲耶。陽子さん、もう来られてるよ。」

隼人に声をかけられた咲耶さん。


「陽子さん、お久しぶりです。」

咲耶さんは陽子さんを見つけると、声をかけた。


「あら、咲耶さん。わざわざ来てくれたの?」


「はい。隼人から聞いて……。

嬉しくて飛んできちゃいました。」


「そんな風に言われると嬉しいわぁ。」


「貴史さんは、最近、お加減どうですか?」


「あの人はねぇ……。もう、ほとんど1日中眠っていて。

でも、たまにこのお店のことを思い出すみたい。

珈琲淹れなきゃなとか急に言い出すのよ。」


「そうなんですね。

貴史さん、活躍されていたんですものね。

この喫茶店で……。」


「そうなの。結構、格好良かったのよ、あの人。」


「まぁ。

貴史さん、イケメンマスターだったんですね。」

ニコニコと笑う陽子さんを前にして、咲耶さんも嬉しそうにそう言って微笑んだ。


「陽子さん、良かったら、こちらに来て頂けますか?」


楽しく話していた二人の元に隼人がやって来て、陽子さんをカウンターへと促した。


店内にお客さんは疎らな時間だった。


「さっ、陽子さん、エプロンをかけてくださいね。」


「あら、いいの?エプロンお借りしても。」


咲耶さんが陽子さんにエプロンを着せる手伝いをし始めた。


後ろの紐をリボン結びにすると

「これでよしっと。」と咲耶さんは陽子さんの背中に向かって声をかけた。


「陽子さん、珈琲淹れてもらえますか?

僕と咲耶に。」


隼人の言葉に「もちろん!」と陽子さんも笑顔で頷いた。


陽子さんは、ゆっくりとカウンターの内側に立った。


その場所に立つのは、何年ぶりだろう。


目の前に並ぶ器具やカップは新しくなっているものもある。

けれど、空気はどこか懐かしいままだった。


「……少し、緊張するわね。」

胸に右手をあて、そう言う陽子さんに隼人が優しく話しかけた。


「大丈夫ですよ。陽子さんの珈琲、楽しみにしてます。」


咲耶さんも頷く。

「私も。ずっと飲んでみたかったんです。」


二人の言葉に背中を押されるように、陽子さんは静かに息を整えた。


棚からドリッパーを取り出し、丁寧にペーパーフィルターをセットする。


豆の入った容器を開けた瞬間、ふわりと香ばしい香りが立ちのぼった。


「……いい香り。」


思わずこぼれたその言葉に、かつての日々が重なる。


貴史さんが豆を挽いてくれて、

自分はその隣でお湯を沸かしてーー


「陽子、今日はちょっと深めにいこうか。」


そんな声が、今でもすぐそばで聞こえてくるようだった。


陽子さんは、そっと目を細める。


「今日は……少しだけ、優しい味にしようかしら。」

静かにそう呟くと、ミルに豆を入れ、ゆっくりと挽き始めた。


ゴリ、ゴリ……と、規則正しい音がカウンターに響く。


その音を、隼人と咲耶さんは黙って聞いていた。


やがて挽き終えた粉をフィルターに移し、軽くならす。


ケトルから細くお湯を注ぐと、粉がふわりと膨らんだ。

「……あぁ。」

思わず、陽子さんの口から小さな声が漏れる。


蒸らしの時間。

ゆっくりと、ゆっくりとーー

時間が流れていく。

まるで、あの頃に戻ったかのように。


何回かに分けて、静かにお湯を落としていく。


お湯の筋は細く、途切れず、丁寧に。


カウンターの中には、言葉のない静かな時間が広がっていた。


やがて、最後の一滴がポタリと落ちる。


陽子さんは、そっとドリッパーを外した。

「……できたわ。」


白いカップに、ゆっくりと珈琲を注ぐ。


立ち上る湯気とともに、やさしい香りが広がった。


「どうぞ。」

差し出されたカップを、隼人は両手で受け取る。


「いただきます。」

ひと口、ゆっくりと口に含む。


その瞬間、隼人の表情がふっとほどけた。

「……優しい味ですね。」


咲耶さんも自分のカップを手に取り、そっと口をつける。

「本当だ……何だか、ほっとする。

良い香りだし、癒されます。」


その言葉を聞いた陽子さんは、ほっとした表情を見せた。

「昔からね、あまり主張しすぎない味が好きだったの。 でも、ちゃんと心に残るような……そんな珈琲を淹れたくて。」


隼人は、カップを見つめながら静かに頷いた。

「……ちゃんと、届いていますよ、僕たちに。

陽子さんの珈琲の味。」


その一言に、陽子さんの目が少し潤んだ。


「ありがとう。今日は、久しぶりに珈琲を淹れられて楽しかったわ。」


「陽子さん、今度は僕が陽子さんに珈琲を淹れますから召し上がっていってくださいね。」


「わかったわ。隼人君の珈琲、いただくわね。」


その後、陽子さんは隼人が淹れた珈琲をゆっくり飲んで、シフォンケーキも楽しんだ。


「陽子さん、私……陽子さんの珈琲の味、忘れません。

凄く美味しかったから。」


咲耶さんの言葉に

「そう?そう言ってもらえて良かったわ。

また珈琲、淹れてあげるわね。」

陽子さんはそう言うと立ち上がった。


「陽子さん、今度僕がホームまで行って貴史さんをカフェにお連れしますよ。

車椅子のまま、いらっしゃれますからね。」


「本当に?隼人君、ありがとう。

待ってるわね。」

陽子さんは、隼人の手を取り、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。


「はい。」


その後、隼人は、陽子さんのためにタクシーを呼び、咲耶さんと二人で陽子さんを見送った。



「今日の珈琲を淹れていた陽子さん、格好良かったね。」


咲耶さんがそう言うと隼人も

「うん。生き生きしてたよね。」と微笑んだ。


このカフェが今ここにあるのは、陽子さんと貴史さんのお蔭で……

自分たちもまた、このカフェでお客さんとの新たな出会いを待っている。


カフェ・エスポワールは、大切な思い出と共にまた、ゆっくりと時を刻み出した。


カフェの前の歩道には、ハナミズキの花が咲き始め、道行く人の目を楽しませている。


新緑の季節ももう、間近である。


隼人と咲耶さんもハナミズキの花を見上げながら、眩しい光に目を細めた。

















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