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第2章 川音のずれ

第1部 ヘルダの冬



 水が足りないと気づくのは、たいてい桶が空になってからである。


 川が流れているうちは、朝の粥にも、家畜の水桶にも、泥のついた道具を洗うにも、同じ水が使われていることを誰も数えはしない。数えなくてよいのが、川のありがたさだった。


 北斜面で白耳が足を止めた日から、三日が過ぎていた。


 その間に雪は降らず、冬支度は少しずつ進んだ。牛を南の囲いへ移し、弱った柵を二か所直し、夏道具の残りを納屋へしまった。トーラは借りていた革紐を翌朝に返し、礼だと言って割り薪を一束、戸口へ置いていった。


 シグルとアルネは明るい時刻に北斜面も見直した。窪地には枯れ草と岩があり、羊と野兎の古い足跡があるばかりだった。父は土を掘り返さず、周囲の風と地面を確かめると、目印代わりの細い枝を一本立てた。


 何か分かるまでは、羊を近づけない。


 それで当面は足りた。少なくとも、村の暮らしを止めるほどのことではなかった。


 その日の朝、アルネは空の桶を二つ担いでヘル川へ下りた。


 夜明け前の川辺は、家畜小屋よりも静かだった。流れに沿って薄い霧が伏せ、岸辺の葦(あし)は白く凍っている。石へ下ろした桶の音が、向こう岸まで届きそうに思えた。


 共同の汲み場には、流れへ張り出した平たい石がある。村の者はそこへ立ち、氷を割る前に縁を二度叩く。川底の小さな精霊を驚かせないためだとも、こちらに用があると知らせるためだとも言われていた。


 アルネは手袋を外し、指の関節で石を叩いた。


「朝の分をもらう。桶二つだ」


 いつもなら、石の際についた薄氷が水面からわずかに離れる。人の手で割ってもよいのだが、急に砕けば、その下で休む微精霊(びせいれい)まで散らしてしまう。


 今朝は何も動かなかった。


 アルネは待った。川の精霊にも、機嫌のよい朝と、声を掛けられたくない朝がある。だから一度で応じないこと自体は珍しくない。


 だが、待つうちに別の違いへ気づいた。


 平たい石の側面には、長年の水が磨いた黒い筋がある。冬にはその筋より指一本ほど下を流れ、春の雪解けには上まで濡れる。今朝の水面は、黒い筋から手の幅ほども低かった。


 岸の氷もおかしい。冷えた朝なら流れの緩い岸から張るはずが、川の中央近くに薄い膜が残り、汲み場の下だけが不揃いに開いている。


 アルネは耳当てを外した。


 水音が弱い。


 川そのものが黙ったわけではない。石を回り、浅瀬を擦り、岸の根へ触れる音はしている。ただ、それぞれがうまく重ならず、ひとつの流れとして聞こえてこなかった。いつもなら低い音の後ろに続くはずの細かな響きが、ところどころ抜け落ちている。


「凍ったのか?」


 誰にともなく呟き、アルネは上流を見た。見える範囲に氷の詰まりはない。雪も降っていないのだから、急に水の出方が変わる理由は思いつかなかった。


 石の下で、針先ほどの青い光がひとつ動いた。


 夏なら同じ光が何本も水草の間を走る。今は一つだけだった。それもアルネの声へ寄ってくるのではなく、流れに押されまいと石陰へ身を縮めているように見えた。


 やがて薄氷が、指二本ぶんだけ岸から離れた。


「ありがとう」


 桶を差し入れるには狭かった。アルネは小刀の柄で氷の端を少し広げ、流れへ木屑を落とさないよう手で欠片を拾った。


 一つ目の桶を沈める。


 普段なら三息もあれば満ちる。今朝は底へ水が当たる音を十まで数えても、桶の重みが半分ほどしかなかった。無理に深く差し込めば泥を掻き上げる。家へ持ち帰る水を濁らせては、粥にも薬湯にも使えない。


 アルネが腰を屈めたまま流れを覗いていると、背後で空桶が触れ合った。


「場所を独り占めするには、ずいぶん寒い朝だね」


 トーラが石段を下りてきた。曲がった角の根元まで毛糸布を巻き、両手に桶を提げている。軽口を言った口元は、アルネの半分しか満ちていない桶を見るとすぐに引き締まった。


「氷が厚いの?」


「水が低い。音も違う」


 アルネは平たい石の黒い筋を示した。トーラは桶を置き、膝へ手をついて覗き込む。彼女も毎日ここへ来る。説明は長く要らなかった。


「昨日の夕方は、ここまでじゃなかった」


 トーラの指が、今の水面より上を指した。


 後から来た村人たちも足を止めた。桶を持つ者が三人、洗い物を籠へ入れた者が一人。誰も大声を出さなかったが、平たい石の周りには、朝の挨拶より先に水面を確かめる沈黙が集まった。


 水が少ない朝には、まず困る順番を決めなければならない。


 洗い物の籠は持ち帰られた。飲み水と料理の分を先に汲み、残りを家畜へ回す。汲み場の底を濁らせないよう、一人ずつ桶を沈めることになった。誰かが命じたのではない。冬の村では、足りないものの扱い方を皆が少しずつ知っていた。


 それでも列は進まなかった。桶が満ちるまで、いつもの倍以上かかった。


     *


 半分ずつ満たした桶を担いで帰ると、右肩だけが妙に重かった。


 家の中では、ラグナが大麦を鍋へ入れるところだった。彼女はアルネの遅い帰りを責めず、まず桶の中を覗いた。澄んではいるが、量が足りない。


「こっちは料理に使うわ。もう一つは飲む分。今日は布を洗わない」


 ラグナはそう言って、いつも炉脇へ置く洗い桶を壁際へ寄せた。水が減ったという話を聞く前から、使い道の順番を決めている。アルネが見ていると、母は空いた水甕(みずがめ)の蓋を閉じた。


「川を見に戻るなら、先に食べなさい」


「まだ戻るとは言ってない」


「戻らない人は、そんなふうに戸口へ桶を置かないの」


 言われてみれば、外へ出やすい向きに置いていた。アルネは桶を壁際へ動かし直したが、母の見方が変わるはずもなかった。


 ヨルンとシグルは牛小屋から戻ってきたところだった。エリンも一緒で、厚い手袋に藁をいくつもつけている。兄は川の話を聞くと、外套も脱がずに水甕の残りを確かめた。


「牛の分は?」


「朝の桶には残ってる。でも昼までは持たない」


 エリンが答えた。彼女は家畜の飲む速さをよく知っている。牛は羊より多く飲み、冷えすぎた水を嫌うものもいる。雪を溶かせば量は作れるが、薪を使い、鍋を塞ぐ。


 シグルは椅子へ座らず、戸口で考えていた。父が黙る時は、言葉を惜しんでいるのではなく、仕事を順に並べている時だ。


「朝は家畜へ残りをやる。食べたら川を見る」


「牛小屋の西柵がまだだ」


 ヨルンが確認すると、シグルは頷いた。


「お前とエリンで直せ。アルネは俺と来い」


 アルネは思わず兄を見た。ヨルンは不満そうではなかった。ただ、朝食の椀を取りながら言った。


「川が終わったら、北側の飼料を運べ。水を直して、うちの家畜を空腹にしたら同じことだ」


「分かってる」


「昨日も聞いた」


 四日前にも同じやり取りをした気がする。エリンが笑いかけたが、ラグナに椀を渡され、口を閉じた。


 食事の間、家族は普段より水を使わなかった。椀に残った粥をパンで拭い、洗う手間を減らす。炉の上では、雪を入れた小鍋がゆっくり水へ変わっていた。たった一度の朝で、いつもなら考えないことが食卓へ入り込んでいた。


     *


 日の出を過ぎる頃には、汲み場の上に十人ほど集まっていた。


 シグルとアルネ、トーラのほかは、名を呼ばなくても仕事の分かる近所の者たちだった。冬の水番を務める老人が長い棒を川へ差し、深さを測っている。棒には季節ごとの水位が刻まれていた。


「夜のうちに、指三本ぶんは落ちた」


 老人は濡れた印を見て言った。


「上で氷が詰まったなら、水はどこかへ溢れる。煙か霧が見えるはずだが、今のところ何もない」


 川沿いの道を、見える範囲まで上ることになった。全員で歩けば汲み場が空になるため、シグル、アルネ、トーラ、水番の老人の四人だけが向かった。


 川は黒樅林の西を回り、北放牧地の下を通って村へ入る。歩くほど、水音の欠け方がはっきりした。流れが岩へ当たる場所では音がするのに、その先の浅瀬へ続く響きがない。水が見えない穴へ少しずつ落ちているようだった。


 北斜面の窪地が見える曲がりまで来ると、アルネは足を止めた。


 枝の目印は立ったままだった。枯れ草にも岩にも、新しい変化はない。羊が避けた場所と川との間には、凍った斜面が広がっているだけで、地面を水が走った跡もなかった。


「あそこか」


 シグルがアルネの視線に気づいた。


「うん。でも川まで何か続いてるようには見えない」


 父は窪地と流れを順に見たが、無理に結びつけようとはしなかった。


「今は川を見る」


 短い一言で、アルネも視線を戻した。分からないものが二つあるからといって、同じ原因だと決まるわけではない。


 少し上流で、川幅が急に広がっていた。


 夏には水に隠れている砂利の洲(す)が露出し、細い流れが二手に分かれている。片方は村の汲み場へ向かう本流、もう片方は岸の下へ潜り込み、凍った土の隙間へ消えていた。倒木も、川を塞ぐ大岩もない。それなのに水の一部が、川床そのものへ吸われている。


 トーラが棒で砂利を突いた。表面は固いが、その下は柔らかい。水を含んだ小石が崩れ、穴の奥で鈍い音を立てた。


「ここを塞げば戻る?」


「急に塞げば、岸の下を削る」


 水番の老人はしゃがみ、流れの向きを見た。


「先に村側へ細い道を作る。石を組んで、少しずつ寄せるしかない」


 精霊へ頼めばすべて元へ戻る、とは誰も言わなかった。川の精霊が水を生み出しているわけではないし、崩れた砂利まで人の都合に合わせて積み直してくれるものでもない。


 村へ戻ると、作業はすぐに始まった。


 男も女も、手の空く者が石を運び、凍った地面へつるはしを入れた。子どもは小石を籠へ集め、年寄りは木樋(もくひ)に使える板を納屋から探した。水桶の列は別に残り、汲む者と掘る者が交代する。


 アルネは村側の流れへ沿って、浅い仮水路を掘った。土の表面は凍っていたが、その下は冷たい泥だった。つるはしを振るたび、手袋の内側で掌が擦れる。掘り上げた泥はすぐに縁へ固まり、次の一撃を重くした。


 昼前には、石を並べた細い溝ができた。上流側へ木板を差し込み、水を少しだけ村側へ向ける。最初の一筋が溝へ入った時、誰かが安堵の息をついた。


 だが、水は十歩も進まなかった。


 石の下へ潜り、柔らかい砂利を持ち上げる。組んだ端から濁りが噴き、板が傾いた。トーラが角を庇いながら板へ肩を当て、アルネも反対側を押さえたが、流れは二人の足元を回り込んだ。


「離れろ」


 シグルの声が飛んだ。


 アルネが一歩退いた直後、石組みの一角が崩れた。板が水へ倒れ、濁った流れが元の砂利洲へ広がる。増えたのは水ではなく、泥だけだった。


 誰も怪我をしなかった。それが最初の成果だった。


 失敗した石を拾い直す間に、日はもう真上を過ぎていた。川辺の風は朝より冷え、濡れた裾が脚へ張りつく。アルネは一度家へ戻るつもりでいたが、崩れた溝を前にすると、もう一列だけ石を置いてからでよいと思った。


 もう一列が終わる頃には、次の木板が届いた。


 それを据えれば、今度は砂利を押さえる太い枝が要る。枝を運び終えれば、家畜用の桶を先に満たした方がよい。


 気づいた時には、日の位置が昼をだいぶ過ぎたことを告げていた。


「兄さん」


 坂の上からエリンが呼んだ。片腕へ布包みを抱え、もう片方の手で小さな水桶を提げている。


 彼女は川辺まで来ると、まずアルネではなく、組み直した水路を見た。


「まだ直ってないね」


「見れば分かることを言いに来たのか」


「母さんに、兄さんが食べてないなら座らせろって言われた」


 布包みには黒パンと燻し肉が入っていた。アルネが「あとで」と言う前に、エリンは上流の石へ腰掛け、食べ終えるまで動かない顔をした。


「牛小屋は?」


「西柵は終わった。ヨルン兄さんが、北側の飼料も半分運んだ」


「残りは帰ってからやる」


 アルネがパンを受け取ると、妹は濡れた袖口へ目を落とした。


「夜に凍った坂を荷車で下りるの?」


「まだ暗くならない」


「兄さんの『まだ』は、だいたい当てにならないよ」


 言い返せなかった。アルネは石へ座り、冷えたパンを噛んだ。食べ始めると、腹が空いていたことを体が思い出したらしい。二口目から急に味が濃く感じられた。


 エリンは家畜用の水桶を、作業している者たちへ回した。量が少ないため、皆ひと口ずつしか飲まない。人が水を惜しむ隣で、川だけが行き先を変えている。そのことがアルネには妙に腹立たしかったが、怒鳴ったところで水は戻らない。


 夕方、シグルは作業を止めた。


 石組みはまだ半分で、流れも細いままだった。それでも暗い中で続ければ、また足元を崩す。父は道具を数え、翌朝使う板を高い場所へ移した。


「家へ戻る。朝、家畜を見てから来る」


 アルネが残った石へ目をやると、シグルはその視線を遮るようにつるはしを差し出した。


「川は夜も流れる。お前が見張っても増えない」


 父の言う通りだった。


 家へ戻れば、飼料運びの残りが待っていた。ヨルンは半分どころか大半を済ませていたが、最後の荷車だけはアルネの分として残していた。


「手伝うなとは言わない」


 凍り始めた車輪へ油を入れながら、兄が言った。


「ただ、自分の仕事は夜になっても消えない。明日に回せば、明日の仕事へ乗る」


「分かってる」


「それも何度も聞いた」


 ヨルンはそれ以上責めず、荷車の反対側へ手を掛けた。二人で押した方が早いという判断だけは、いつも変わらなかった。


     *


 翌日から三日、村は川と折り合いをつけるために働いた。


 最初の日には、砂利へ柳の枝を編み込み、その前へ拳大(こぶしだい)の石を並べた。次の日には、倉から運んだ木樋を溝へ渡し、少ない水を汲み場まで逃がした。三日目には夜の冷えで木樋の継ぎ目が凍り、朝から湯を運んで氷を溶かした。


 水は戻らなかった。


 それでも、運べる量は少しずつ増えた。飲み水と料理の分は確保でき、家畜の桶も日に二度は満たせるようになった。洗い物はまとめ、泥の少ない作業には雪を溶かして使う。鍛冶場では焼けた鉄を冷ます水を何度も使い、皮なめしの作業は数日延ばされた。


 普段なら別々の家で済む仕事が、川の細い流れへ集まっていた。


 アルネも毎朝、家畜の世話を終えると川へ行った。昼には牧場へ戻るつもりでいて、戻るのはたいてい日が傾いてからだった。ラグナは二日目から、昼食を持たせるのではなく、エリンに見張らせることにした。布包みを持っているだけでは、アルネが開けずに持ち帰ると分かったからだ。


 ヨルンは何も言わず、牧場の仕事をアルネの分まで全部引き受けることもしなかった。残った仕事を見える場所へ置き、帰った弟と一緒に片づけた。親切と無理の境目を、言葉で教えるより分かりやすい方法だった。


 川の異変に気づいて五日目の朝、仮水路の上流側で岸が鳴った。


 乾いた枝を折るような音だった。


 アルネたちが駆け寄ると、水を含んだ砂利が沈み、古い岸の下へ細い割れ目が走っていた。このまま流れを寄せれば、村道の足元まで削るかもしれない。かといって木板を外せば、せっかく集めた水はまた地面の下へ消える。


 村人たちは作業を止めた。


 流れる水の前で立ち止まるのは、ひどく頼りない気分になる。手を止めても、川だけは待ってくれない。


 水番の老人が平たい石の前へ行き、川へ呼び掛けた。古くから使う短い言葉で、村側へ水を戻してほしいと頼む。


 返事はなかった。


 川底の青い光は、四日前よりさらに少なく見えた。石の陰に一つ、木樋の下に一つ。それぞれが弱い流れの中で、同じ場所を保つだけで精いっぱいのようだった。


「水を増やすのは無理なのかもしれない」


 トーラが誰へともなく言った。責める口調ではない。ただ、見えているものを言葉にしただけだった。


 アルネは割れ目の前へしゃがんだ。


 流れを元へ戻してくれ、と頼むことはできる。実際、村人は何度もそう願った。だが川の底にいる小さな精霊へ、山から来る水そのものを増やせと言っても、どうしようもないのではないか。


 アルネは手袋を外し、冷たい石へ掌を置いた。羊を冬囲いへ移した日に裂いた親指の傷は、もう薄い赤い線を残すだけだった。


「水が足りない。こっちへ戻せるなら助かる」


 まず、同じ願いをそのまま伝えた。


 青い光は動かなかった。


 アルネは急かさず、割れた岸と石組みを見た。村人が積んだ石の間には、まだ水の通れる細い隙間がある。木樋は流れを受けられる。問題は、そこへ向けようとすると岸の弱い場所まで水が回ることだった。


「増やせないなら、それでいい」


 声に出すと、自分が川と相談しているようで少し妙だった。けれどヘルダでは、返事のない相手へ事情を話すことは、それほど珍しくない。


「この割れ目へ入るのだけ、避けられないか。俺たちは石を置く。通りやすい方を選んでくれ」


 しばらく、何も起こらなかった。


 青い光が一つ、石陰から出た。


 すぐに水を動かすのではなく、積まれた石の間を縫うように進む。一つ目の隙間で止まり、二つ目へ移り、木樋の縁まで行ってから戻る。何かを確かめているように見えたが、何を見ているのかはアルネには分からない。


 もう一つの光も動いた。


 次の瞬間、割れ目へ向かっていた濁りが細く途切れた。


 水量は増えていない。川幅も変わらない。ただ、石の手前で渦を作っていた流れがほどけ、二本、三本の細い筋へ分かれた。その筋は不安定な岸を避け、村人が組んだ石の間へ入り、木樋の口へ収まっていく。


「今だ。右の石を詰めろ」


 シグルの声で、止まっていた者たちが動いた。


 トーラと二人の村人が大石を運び、水番の老人が枝組みを押さえる。アルネは木樋の角度を直し、流れが乗ったところで土を詰めた。精霊が作った細い筋を潰さないよう、皆がいつもより手元をよく見た。


 川は人の注文通りにはならなかった。


 水は増えず、消えた分も戻らない。それでも危ない岸を避け、残った水を通せる形にはなった。人が石を置き、木を組み、精霊がその間を選ぶ。どちらか一つだけでは、仮水路は持たなかっただろう。


 作業を終えたアルネは、平たい石の縁を二度叩いた。


「助かった。ありがとう」


 青い光は水底へ沈み、見えなくなった。


 返事をしたのか、疲れて隠れただけなのかは分からない。アルネには、確かめる方法もなかった。


 昼過ぎには、共同の汲み場で桶が満ちるようになった。以前より時間はかかる。水位も低いままだ。それでも、底の泥を掻かずに水を取れるだけで、村人たちの顔から幾分か力が抜けた。


 ラグナが持たせたパンを食べながら、アルネは木樋の継ぎ目を見ていた。今夜の冷えに耐えるか、明朝もう一度確かめる必要がある。牧場へ戻れば、飼料袋の修繕も残っていた。


 夜にやればよい、と考えたところで、隣に立ったヨルンが先に言った。


「飼料袋は縫っておいた」


 アルネはパンを持ったまま兄を見た。


「俺がやるつもりだった」


「知ってる。夜に」


 ヨルンは木樋から落ちる水を眺めた。責める様子はない。その代わり、アルネが言いそうなことまで先に言ってしまった。


「明日は自分の仕事からやれ。川は村全員のものだ」


 アルネは少し迷い、それから頷いた。


「分かった」


「今度は覚えておけ」


 兄の口元がわずかに動いた。アルネも笑い、残りのパンを口へ入れた。


 その時、川辺の鳥が一斉に飛び立った。


 最初は、作業の音に驚いたのだと思った。


 だが飛び立ったのは岸にいた小鳥だけではない。黒樅林の上から、種類の違う鳥がまとまりもなく溢れ出した。小さな灰色の鳥、黒い嘴(くちばし)の鳥、普段は水辺から離れない白い鳥までが、互いの間隔も取らず南へ流れていく。


 川辺にいた者たちは手を止め、空を見上げた。


 林の下でも枝が揺れた。


 一羽の野兎が斜面を駆け下りた。続いて二羽、三羽。凍った畑跡へ飛び込み、村道を横切る。その後から細身の鹿が現れ、足を滑らせながらも速度を落とさず下ってきた。


「山火事か?」


 誰かが言った。


 煙は見えない。焦げた匂いもない。


「雪崩なら音がする」


 トーラが北の峰を見た。雪煙は上がらず、空も崩れる前の色ではなかった。


 森の縁から狐が一匹飛び出した。


 本来なら獲物になるはずの野兎が前を走っているのに、狐は見向きもしなかった。同じ方角へ、ただ斜面を下り続けた。


 ヨルンが低く息を吐いた。


「狼じゃないな」


 アルネもそう思った。狼に追われた群れなら散る。今、山から下りてくる生き物は、互いから逃げているのではなかった。


 どれも、上流から離れようとしていた。


 北の森は、遠目にはいつもと変わらない。黒い樅の枝が揺れ、その向こうに冬の山がある。


 逃げてくるものはいた。


 追ってくるものは、何も見えなかった。






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