第1章 冬支度の朝
第1部 ヘルダの冬
羊は、冬が来たからといって素直にはならない。
少なくとも、白耳はそうだった。
アルネが後脚についた泥を落とそうとすると、老いた雌羊は鼻息を荒くし、狙い澄ましたように蹄を振った。身を引くのが半歩遅れ、乾きかけの泥が頬へ飛ぶ。まだ夜の色が残る家畜小屋で、エリンの笑い声だけが朝を待たずに明るかった。
「好かれてるね、兄さん」
妹は柵へ腰掛け、こちらを助けるでもなく眺めていた。赤みのある髪を一本に編み、外套の裾は膝まで泥だらけだ。十五歳の細い体でも、羊を前にすると妙に肝が据わって見える。
「代わってやる」
アルネが手綱を差し出すと、エリンはようやく柵から降りた。けれど受け取ったのは手綱ではない。白耳の顎へ手を添え、耳の後ろを二度掻いただけだった。
それで白耳はおとなしくなった。
「扱う人の問題みたい」
朝から負けを認めるのは癪だったが、羊相手に理屈を並べても仕方がない。十七年をこの村で暮らして、アルネはその程度の分別なら身につけていた。白耳の脚を取り直し、蹄の間に挟まっていた小石を抜く。腫れはなく、熱もない。足を下ろしてやると、老雌羊は礼の代わりに干し草へ鼻を突っ込んだ。
羊の体温と乾いた草の匂いが籠もる小屋にも、板壁の隙間から入る風だけはもう冬のものだった。息を吸えば鼻の奥が痛み、床近くには薄い霜が降りている。アルネは頬の泥を袖で拭い、指先へ息を吹きかけた。
「白耳は平気?」
今度のエリンの声からは、からかう調子が消えていた。彼女は羊を番号や毛の色だけで見分けているのではない。歩き方も、食べ方も、機嫌の悪い時にどちらの耳を伏せるかも覚えている。そのことをアルネは知っていたし、少しばかり悔しくも思っていた。
「小石だけだ。今日は歩かせられる」
そう答えると、エリンは白耳の鼻先へ干し草を寄せた。安心したと言葉にする代わりらしい。
小屋の奥で、束ねた草が重く擦れる音がした。
「終わったなら、東の柵を開けろ」
飼料棚の脇にヨルンが立っていた。兄は話している間も、去年の干し草と今年の干し草を縄の色で選り分けている。アルネより五つ年上で、厚い肩も節くれ立った手も、すでに父と並んで牧場を支える者のものだった。
「古い束から使う。新しいのは奥だ」
ヨルンは手前に交じった二束を顎で示した。アルネには、昨夜そこへ置いた覚えがあった。
「湿っていたから、風を通そうと思った」
「なら朝には戻せ。考えたことまで干し草は覚えてくれない」
兄の言い方はいつも少し固い。だが、怒っているのではないことも分かる。ヨルンは人より先に春までの飼料を見て、その次に今日の手間を見ているのだ。目の前で困っている一つへ手を伸ばしがちなアルネとは、物を見る順番が違った。
アルネは返事の代わりに束を担いだ。乾いた草の端が首筋へ入り、ひどく痒い。エリンは白耳を柵から出しながら、兄たちを横目で見ていたが、今度は口を挟まなかった。手伝うべき時と面白がってよい時の区別は、彼女なりについている。
小槌の音が、戸口近くで三度鳴った。
父のシグルは、冬囲いの革帯を引いて緩みを確かめていた。寡黙な人で、家族が話している時も、たいてい先に仕事の方を見ている。留め具の木釘を打ち終えてから、ようやく顔を上げた。
「昼までに北の羊を下ろす」
それは相談というより、今日という一日の骨組みだった。ヨルンがすぐ頷き、エリンは白耳の手綱を短く持ち直す。
アルネは開いた戸口から空を見た。山の稜線はまだ墨を引いたように暗く、その上だけが灰色へほどけ始めている。雪雲は見えない。けれどヘルダの冬は、空に断ってから来るとは限らなかった。
「牛は明日?」
「今日、柵を直す。移すのは明日だ」
シグルはそれだけ答え、次の革帯へ手を移した。明日も使う柵だから今日直す。それ以上の説明は要らないらしい。
父の短い言葉を、アルネは冷たいとは思わなかった。戸の隙間を塞ぐ手や、割れた蹄を見逃さない目の方が、この人には長い話よりよく似合う。
*
冬支度というものは、始める日より終わる日の方が決めにくい。
薪を積めば屋根の緩みが目に入り、屋根へ上れば煙突の煤が気になる。夏道具を片づけるそばから、凍った朝に要る道具が増えていく。だからヘルダでは、誰も「今日で全部終わる」とは言わなかった。せいぜい、雪が来る前にここまでは、と仕事へ順番をつけるだけだった。
家へ戻ると、煮た大麦と燻し肉の匂いがアルネたちを迎えた。
石積みの炉には赤い火が伏せるように燃え、鍋の底を静かに温めている。外気を連れて入った五人には、決して広くない部屋だった。けれど狭いからこそ、炉の熱も、濡れた外套から立つ匂いも、誰かが椅子を引く気配もすぐに届く。冬の家は、壁だけで人を守るのではないのかもしれないと、アルネは時々思う。
母のラグナは鍋をかき混ぜながら、戸口へ視線だけを向けた。
「ヨルン。座る前に、髪の草を外で落として」
名を呼ばれた兄は、自分の肩と頭を確かめた。干し草が三本、明るい髪へ刺さっている。
「小屋で落とした」
「落ちていないから言ってるの」
ラグナの目から逃れられるものは少ない。ヨルンが黙って外へ戻る間に、アルネは自分の髪も撫でておいた。母はそれを見たが、何も言わなかった。何もついていなかったのか、先回りした息子へ言わずにいてくれたのかは分からない。
エリンは木の椀を並べ、最後に小さな陶杯へ薄い麦酒を注いだ。炉の前へしゃがみ、ほんのひと口ぶんを火へ垂らす。
「今日も頼むね」
炎は酒を受けて青く細まり、それから鍋底を舐める高さまで戻った。返事だったのか、酒が燃えただけなのか。ヘルダでそこを言い争う者はいない。朝に挨拶をし、よく燃えたなら礼を言う。それは魔術というより、戸口で隣人へ声を掛けるのに近かった。
ラグナが鍋を下ろした。席へ着こうとしたアルネの前で、彼女は木杓子を持ったまま手を出す。
「左手」
言われて初めて、親指の付け根がひりついていることに気づいた。飼料縄で薄く裂いたらしい。血は止まり、仕事に障るほどでもない。
「これくらいなら――」
「平気だと言う前に見せなさい」
母の声は穏やかだったが、断れる余地はなかった。アルネが手を預けると、ラグナは傷を水で拭い、薬草を混ぜた脂を塗った。指を曲げられるだけの余裕を残して布を巻く。その手つきは早く、息子の言い訳よりよほどよく働いた。
小さな傷を見つけられるのは、いまだに少し気恥ずかしい。けれど巻かれた布の温かさを嫌だと思ったことはない。アルネは礼を言い、ようやく椅子へ座った。
朝食の間、シグルとヨルンは今日運ぶ羊の順番を確かめた。二百十四頭を一度に狭い村道へ入れれば、先頭と最後尾で動きがばらける。老いた羊と子の小さいものを中ほどへ置き、白耳には先頭近くを歩かせる。頑固ではあっても、道はよく知っていた。
「アルネは西側につけ。柵の片づけまで手を出すなよ」
大麦粥を食べながら、ヨルンが念を押した。
「分かってる」
「昨日も聞いた」
兄の視線が、包帯を巻かれた左手へ落ちた。言いたいことは分かる。頼まれていない仕事を見つけ、先に片づけようとして、元の仕事を遅らせる。アルネには覚えがありすぎた。
「今日は羊だけ見る」
「それならいい」
ヨルンは追及せず、椀へ戻った。勝った気はしなかったが、喧嘩にもならない。兄弟の間では、そういう決着が多かった。
外戸が風に押され、わずかに開いた。ラグナは立ち上がり、外戸と内戸の間へ掛ける厚い羊毛布を引き寄せた。
「戸を二つ開けておけば、どちらの炉にも火は残らない」
布の端を確かめながら、母は昔から聞き慣れた言葉を口にした。彼女の祖母がよく言っていたものだ。冬の心得なのか昔話の切れ端なのか、アルネは知らない。ラグナから伝わる古い言葉には、その二つが混じっていることが多かった。
「今は一つしか開いてないよ」
エリンが戸の方を見て言うと、ラグナは布越しに娘を見た。
「なら、開いているうちに出なさい。羊が待ってるわ」
エリンは残っていた粥を急いで口へ運んだ。古い言葉に言い返せても、今日の仕事には勝てなかった。
*
日が山の端へかかる頃、ヘルダの道は人と家畜で埋まり始めた。
山羊を冬囲いへ追う者がいれば、軒下へ薪を積む者もいる。煤色の髭を持つドワーフの鍛冶屋は、仕事を始める前の酒を炉へひと垂らしし、森沿いに住むエルフの女は、長い耳へ布を巻いて屋根板を打ち直していた。どちらもアルネにとっては見慣れた朝の隣人で、珍しがる理由などなかった。
その誰もが、冬に追われていた。
冬は種族を選ばない。屋根の穴から入る雪も、足りなくなる薪も、相手の耳や角を見て遠慮してはくれなかった。
羊の群れは、村外れへ続く凍った道を白く埋めた。先頭にヨルン、最後尾にシグルがつき、アルネとエリンは左右から逸れる羊を戻していく。蹄が霜を砕く音と、首の鈴が重なり、朝の静けさを少しずつ押しのけていった。
白耳は先頭近くを歩いていた。小屋での騒ぎなど忘れたように顎を上げ、ときおり後ろを振り返る。その姿だけ見れば、二百頭あまりを自分が率いているつもりなのかもしれない。
村道が細くなる場所で、前の群れが詰まった。
曲がった角を持つトーラ・ニルスドッティルの薪橇が、轍へ片輪を落としていた。引き綱の一本が切れ、丸太を積んだ橇は道を半ば塞いでいる。トーラは肩を入れて動かそうとしていたが、一人でどうにかなる重さではなかった。
「悪いね。羊を止めさせた」
白い息を吐きながらトーラが言った。厚い毛糸を巻いた耳が、申し訳なさそうに伏せられている。
アルネは群れを見た。後ろから来る羊が前の羊へ寄り、道の両側へ膨らみ始めている。このまま待てば畑跡へ入り込む。かといって、橇の脇を無理に通せば、丸太か羊の脚を傷めるだろう。
腰の道具巻きには、南小屋の戸へ使う新しい革紐があった。
「これを綱へ足そう。橇を脇へ寄せるだけなら持つ」
アルネが革紐を抜くと、前方から戻ってきたヨルンが眉を寄せた。
「それは戸の留め具だ」
「古い方へ油を入れれば、今日一日は使える」
「油を入れるのもお前だぞ」
兄は叱るように言ったが、アルネの手から革紐を取り上げはしなかった。その代わり橇の後ろへ回り、丸太が崩れない場所へ肩を当てる。口より先に手を貸すところは、父によく似ている。
「結ぶなら早くしろ。羊が畑へ入る」
アルネは切れた綱へ革紐を回し、凍っても外せるよう木片を噛ませた。トーラが綱を引き、ヨルンとアルネが後ろから押す。橇は一度、氷の轍へ抵抗し、それから鈍い音を立てて道端へ乗り上げた。
肩から力を抜いた時、アルネの手袋には丸太の湿り気が染みていた。朝の包帯が少し引きつったが、傷は開いていない。
「薪を下ろしたら返すよ」
トーラが革紐を確かめながら言った。
「明日でいい。暗い道で急いで、また切る方が困る」
アルネが答えると、ヨルンは小さく息を吐いた。その息が呆れたものか、寒さのせいかは、白くなってしまえば見分けがつかない。
「南小屋の古い帯は、お前が削れ」
「分かってる」
返事を聞いたヨルンは、もう群れの先頭へ戻っていった。手を貸したことも、余計な仕事が増えたことも、それ以上は言わない。アルネは濡れた手袋を握り直し、道へ広がりかけた羊を追った。
村では、親切は立派な言葉を伴わないことが多い。黙って橇を押す肩や、後で削ることになる革帯の方が、たいていは役に立った。
放牧地へ入る山口には、人の腰ほどの積み石がある。誰が最初の一つを置いたのかは、村で一番年寄りの者も知らなかった。それでも山へ入る時には、皆が何かを置き、何かを言う。
シグルは小袋から燕麦をひとつまみ取り、石のくぼみへ落とした。
「今日で下りる。春まで静かに」
父の声は、人へ向ける時とほとんど変わらなかった。願いを大きく飾れば、よく聞いてもらえるというものでもないらしい。
山から細い風が下り、麦の殻を二、三枚だけさらっていった。
アルネは積み石の脇へしゃがみ、ずれていた小石を元へ戻した。夏の間、何度この前を羊と通ったか分からない。
「世話になった。帰りも通してくれ」
返事はなかった。ただ風が頬を撫で、羊の背を波のように揺らした。それで十分だった。精霊は人間の呼び声すべてに姿を見せるわけではないし、山は戸口まで出てきて客を迎えるものでもない。
エリンも燕麦を少し置いた。今度は軽口を言わず、白耳の首を進む方へ向ける。積み石を越える時だけは、彼女も山の静けさを邪魔しなかった。
*
北の放牧地は、夏の名残をすっかり失っていた。
膝まで伸びていた草は短く刈られ、残った茎には白い霜がついている。羊が踏むたび、薄い氷を砕くような音がした。黒樅林は山裾を暗く縁取り、その向こうに雪の残る峰が立っている。空は高かったが、日の色にはもう力がない。
午前の仕事は、羊を歩かせながら夏の道具を回収することだった。シグルとヨルンが柵杭を抜き、アルネは水桶の泥を落として重ねる。エリンは群れの外側を回り、遅れる羊や腹の具合が悪そうな羊を見つけては印をつけた。
作業は単調だった。だからこそ、少しの違いにも気づく。
昼近く、アルネは革手袋を外し、家から持ってきた黒パンを割った。干した肉を挟み、冷えたまま噛む。風を避けて岩陰へ集まった家族の間では、話より咀嚼の音の方が多かった。
シグルは食べ終えるとすぐ、抜いた杭の数を確かめた。ヨルンも同じ数を数えていたらしく、二人は短く数字を照らし合わせる。エリンは自分の肉を少しだけ白耳へ見せ、寄ってきた鼻先から素早く隠した。
「やる気がないなら、見せるな」
アルネが言うと、エリンは肉を自分の口へ入れた。
「朝、兄さんを蹴った分はもう食べたでしょ」
白耳は納得しなかった。少女の肩へ鼻を押しつけ、岩陰から追い出しかねない勢いで迫る。エリンは笑いながら逃げた。その声に、シグルでさえ口元を少し緩めた。
短い昼休みが終わると、群れをひと回りさせてから村へ下ろすことになった。冬囲いへ入れば、春まで広い斜面を歩く機会は減る。羊に残った草を食ませ、脚の悪いものがいないかを最後に見る。それも冬支度の一つだった。
午後の日差しが北斜面へ届き始めた頃、白耳が止まった。
理由はなかった。
少なくとも、アルネには見えなかった。
老雌羊は浅い窪地の手前で前脚を踏ん張り、耳をぴたりと前へ向けている。後ろから別の羊がぶつかっても進まない。むしろ一歩退き、鼻から荒い息を吐いた。
エリンがすぐに気づき、群れの横から寄ってきた。彼女は白耳の顎へ手を添えたが、朝のようにはいかなかった。
「脚じゃない。震えてる」
妹の声が低くなった。からかう時の軽さはない。
アルネは窪地を見渡した。枯れ草と灰色の岩、葉を落とした低木があるだけだ。狼なら風下の羊が先に騒ぐ。山猫なら、これほど開けた場所へじっと伏せてはいない。腐った獣の臭いもなく、雪の前に現れる毒茸も見当たらなかった。
若い雄羊を一頭、窪地へ向けてみた。二、三歩は進んだものの、白耳と同じ辺りで首を振り、急に右へ逸れた。後ろの羊までつられ、群れの形が崩れる。
「追わなくていい。迂回させて」
アルネが言うと、エリンはすぐ白耳の向きを変えた。羊の扱いでは、自分より妹の判断を信じた方が早い。二人で群れの端を押さえ、その間にヨルンが近づいてきた。
「何がいる?」
兄は窪地ではなく、まず散りかけた羊を見た。
「まだ分からない。二頭とも同じ場所を嫌がった」
アルネは杖を手に、柵を越えた。風向きを頬で確かめ、窪地の手前から円を描くように歩く。凍りかけた土には、羊と野兎の足跡しかない。岩陰へ杖を差し入れても、獣が飛び出す気配はなかった。
地面へ膝をつき、手袋越しに土へ触れる。湿り方も固さも、周りと変わらない。草の根元を分け、低木の枝を持ち上げる。何もない。
鳥の声が途切れた。
アルネは顔を上げた。
黒樅林の梢は風に揺れている。それなのに、ほんの一息の間だけ、羽音も鳴き声もしなかった。
すぐに一羽が鳴いた。別の枝からも声が返り、林は何事もなかったように冬の音を取り戻す。
「アルネ」
斜面の下からヨルンが呼んだ。兄は開けた柵を押さえ、群れが窪地を避けて通れる道を作っていた。
「何かあったか?」
「見つからない。もう少し上まで見れば――」
言いかけたアルネへ、ヨルンは首を振った。
「羊が二百十四頭いるのは分かってる。まず、分かっている方を小屋へ入れるぞ」
何もない場所は逃げない。兄が以前にも使った理屈だった。目の前の不思議より、日が落ちる前に群れを山から下ろす方を選ぶ。面白みはないが、冬を越すには必要な判断だった。
アルネは窪地へ目を戻した。
枯れ草が風に伏せている。岩も、低木も、先ほどと同じ場所にある。見えないものを探すために、見えている羊を危険へ置くわけにはいかなかった。
「分かった。戻る」
杖を地面から抜き、斜面を下りる。エリンが開けた道へ白耳を導くと、老雌羊は窪地から離れる方角なら、何事もなかったように歩き出した。後ろの群れも続く。
「朝のこと、謝った方がいい?」
アルネが白耳を見ながら尋ねると、エリンは羊の背を撫でた。
「白耳は干し草で許してくれるよ。兄さんより話が早いから」
笑うべきか迷っているうちに、白耳がひと声鳴いた。どうやら返事まで妹の味方らしい。
群れは北斜面を大きく迂回し、山口へ向かった。
*
夕暮れには、二百十四頭すべてが南の冬囲いへ入った。
数え終えたヨルンが帳面へ印をつけ、シグルが最後の柵を閉める。木の留め具が落ちる音は、長い一日の終わりに打つ楔のようだった。
アルネの肩と腰には、遅れて疲れが集まっていた。濡れた手袋はすっかり冷え、指を曲げるたび革が固く鳴る。それでも、小屋の中で羊が干し草を噛む音を聞くと、今日やるべきことの大半は片づいたのだと思えた。
トーラへ渡した革紐の代わりには、古い革帯を使った。表面の固くなったところをアルネが小刀で削り、ヨルンが油を擦り込む。二人で戸へ取りつけると、見栄えは悪くても朝までは持ちそうだった。
「新しいのを貸した分、これを明日も見ろ」
留め具を引いて確かめながら、ヨルンが言った。
「分かってる」
アルネは今日だけで何度目か分からない返事をした。兄はその言葉を信用したのかどうか、もう一度だけ自分で帯を引いた。それから、わずかに頷く。
シグルは北斜面のことを、帰り道で一度だけ尋ねた。アルネが見たものを順に話すと、父は手袋を外し、古い柵へついた泥を落としながら聞いていた。
「明るい時に見る」
「明日?」
「仕事が済んでからだ」
それで十分だった。気のせいだと笑われなかったことに、アルネは少しだけ肩の力を抜いた。
家へ戻ると、炉には朝より太い薪がくべられ、煮込み鍋から湯気が立っていた。外套を脱ぐ者、濡れた靴下を炉辺へ広げる者、椀を運ぶ者が狭い部屋ですれ違う。誰かの肘が誰かの背へ当たり、そのたびに短い文句が出る。それも含めて、冬の家の音だった。
ラグナはアルネの左手をもう一度取り、包帯を替えた。傷が開いていないのを確かめると、今度は何も言わず結び目を小さくした。
「北の斜面に何かいたの?」
食卓でエリンが母へ話したらしい。ラグナは鍋をよそいながら、アルネに尋ねた。
「何も見つからなかった。跡も、臭いもなかった」
「何もないのに、白耳が嫌がったのね」
母はそれ以上、理由を決めつけなかった。山のことをすべて人が知っているとは、ヘルダの者は考えない。分からないものを分からないまま置いておくのも、冬を生きる知恵の一つだった。
夕食が始まると、話題は牛小屋の柵と明日の天気へ移った。ヨルンは補修に要る板の数を挙げ、シグルはそのうち二枚を古い戸から取ると言った。エリンは白耳への干し草を増やしてよいか尋ね、ラグナに「自分の分からなら」と返されて黙った。
窓の外では、家々の煙が風に押されて同じ方角へ流れていた。ヘル川の音が遠くにあり、黒樅林の向こうでは山が夜へ沈んでいく。アルネが生まれる前からあった景色で、明日の朝にもそこにあるはずの景色だった。
それでも、あの窪地だけが胸のどこかに残っていた。
白耳が見つめていたもの。
若い雄羊まで足を止めた場所。
何もなかった。少なくとも、アルネには見えなかった。
炉の薪が崩れ、小さく火の粉が上がった。エリンが空いた椀を重ね、ヨルンは明日使う縄を手元で確かめている。シグルは黙って戸の閂を下ろした。ラグナが炉へ鉄蓋を寄せると、部屋の明かりは少しだけ柔らかくなった。
暮らしは、いつもの形へ戻っていた。
アルネもそれに従い、椅子から立った。窪地のことは、明るい時にもう一度見ればいい。
羊は理由を語らない。
だから人は、足跡を見て、風を嗅ぎ、分からなければ日を改めて確かめる。ヘルダで暮らすとは、たぶんそういうことだった。




