第3章 山の声
第1部 ヘルダの冬
山から獣が下りてきた翌朝、ヘルダの者たちが最初にしたのは、山へ登ることではなかった。
柵を見て、家畜を数え、北の空を確かめた。
夜の間に煙が上がった形跡はない。黒樅林の上には薄い雲がかかっていたが、山火事の匂いはしなかった。雪崩が起きたなら、白い筋か雪煙が斜面に残る。峰は昨日までと同じ姿で、朝の弱い光を受けていた。
狼なら足跡がある。大きな群れならなおさらだ。狩りに慣れた者たちが川沿いと林の縁を見回ったが、見つかったのは鹿と野兎と狐の跡ばかりだった。それらはどれも、山へ向かうのではなく、山から離れる方角へ重なっていた。
原因が分からない時ほど、暮らしの側から確かめるしかない。
アルネは南の冬囲いで羊を二百十四頭数えた。ヨルンも別に数え、帳面の印と合わせた。牛にも不足はない。白耳は干し草の山へ鼻を埋め、昨日の騒ぎなど自分には関係がないという顔をしていた。
「こっちは全部いる」
アルネが言うと、ヨルンは帳面を閉じた。
「二度数えた。牛もいる。次は北の共同囲いだ」
村の北端には、三軒の家が冬の間だけ一緒に使う山羊囲いがあった。昨夕、山から下りてきた鹿が外柵へぶつかり、横木を一本外している。夜のうちに応急の縄は張られていたが、泥と雪の上には、人と獣の跡が入り乱れていた。
囲いの中では、エリンが山羊の間を歩いていた。
彼女は一頭ごとに耳や角へ目をやり、ときには背を押して場所を替えさせる。山羊は羊より数が少ないぶん、誰の家のどの個体かを見分けやすい。それでも動き回る角の群れを数えるのは、指を立てるだけでは足りなかった。
「二十四」
エリンは囲いの戸へ刻んだ印へ、指先を当てた。
「昨日の朝は二十七いた。三頭足りない」
曲がった角の間から、トーラが顔を上げた。自分の角には灰色の毛糸布を巻いているため、山羊の中にいても見間違えることはない。
「灰毛も?」
「いない。右の角が欠けたのも、小さい鉄鈴も見てない」
トーラの灰毛の雌山羊は、右角の先が少し欠けていた。首につけた鈴も、ほかの山羊より低い音がする。エリンは夏の放牧で何度も聞いており、姿より先にその音を覚えていた。
シグルは外れた横木を持ち上げ、折れ方を見た。
「鹿に押された後で出たな」
泥の縁に、小さな蹄の跡が三つ重なっている。向きは北東、黒樅林の方だった。
「昨日の騒ぎについていったのかもしれない」
アルネが言うと、トーラは囲いの外へ出た。雪の薄い場所へ膝をつき、跡をひとつずつ確かめる。
「二頭は道へ戻ってる。こっちは新しい」
彼女が示した跡は、村道へ回り込み、刈り終えた畑へ続いていた。もう一組は林の方角へ伸び、途中で鹿の跡に踏まれて消えている。
捜索はその朝から始まった。
ただし、村じゅうが山へ入ったわけではない。ヘル川の仮水路は、夜ごとに凍りつく継ぎ目を見なければならなかった。家畜へ水を運ぶ者も、壊れた柵を直す者も要る。冬の仕事は、一つ困り事が増えたからといって、ほかが消えてくれるほど親切ではなかった。
午前のうちに二頭は見つかった。一頭は畑跡の干し草塚へ潜り込み、もう一頭は村道脇の溝で縄を枝へ絡ませていた。どちらも怪我はなく、腹を空かせているだけだった。
灰毛だけが戻らなかった。
*
それから三日、村人たちは仕事の合間に林の縁を捜した。
初日は足跡を追えた。灰毛の小さな蹄は、黒樅林へ入る樹脂採り道の手前まで続いていた。だが夜に細かな雪が降り、翌朝には古い跡と新しい跡の区別がつかなくなった。
二日目には、川沿いの低地と北斜面を見た。山火事も雪崩もなく、大きな肉食獣の寝床も見つからない。北斜面の窪地は相変わらず何の変哲もなく、シグルが立てた細枝だけが雪から突き出ていた。けれど野兎の足跡は、その周りだけを弧のように避けていた。
三日目の夕方、林の縁の低木から、灰色の毛が数本見つかった。枝には細い革紐の擦れた跡もあった。少なくとも、囲いを出た後もしばらくは生きて歩いていたらしい。
帰る時刻を越えてまで捜す者はいなかった。
山で失った家畜を惜しまないわけではない。だが、暗くなってから人まで戻らなくなれば、捜す人数が一人増える。冬山では、親切と無謀の間に、日暮れという分かりやすい境があった。
四日目の朝、空は久しぶりに澄んだ。
風は弱く、昼まで新しい雪は来ない。シグルは朝食の前に外へ出て雲を見てから、林へ入る者を決めた。
シグル、ヨルン、トーラ、アルネ。それに足跡を見るのが得意な村人が二人。六人で樹脂採り道まで上がり、そこから二人ずつに分かれる。捜すのは、黒樅林の縁から古い炭焼き跡まで。それより奥へは行かない。
「日が南の割れ峰に触れる前に戻る」
シグルは食卓で言った。短い言葉だったが、それが今日の捜索の端になった。
ヨルンは骨笛を三本、机へ置いた。
「一度は居場所、二度は集まれ。長く三度なら、何をしていても戻る。聞こえなければ、決めた場所へ戻れ」
「魔物でも見つけたら?」
エリンが山羊用の革紐を巻きながら尋ねた。彼女も行くつもりで用意していたらしい。
「見つけないのが一番だ」
ヨルンは真顔で答えた。
その言い方がおかしかったのか、エリンは一度だけ鼻で笑った。しかしシグルが彼女の手元を見て、首を振る。
「お前は残れ」
「灰毛の癖を一番知ってるのは私だよ」
「だからこそ、お前は家畜を見ていろ」
父は言葉を足さなかった。川の水が少ない今、南の囲いと牛小屋を空けるわけにはいかない。エリンもそれは分かっている。反論の代わりに、巻いた革紐をアルネへ渡した。
「灰毛は深い雪を嫌う。樹脂採り道から外れても、赤柳の出てる斜面を選ぶはず。あと、鈴が低い。ほかの山羊みたいに鳴らないから、聞き落とさないで」
「分かった」
「兄さんの『分かった』は――」
「今日は捜す話だろ」
先を言われる前に返すと、エリンは少し不満そうに口を閉じた。ヨルンが横で骨笛の紐を確かめている。笑わなかったところを見ると、同じことを言うつもりだったのかもしれない。
ラグナは炉辺で、アルネの背負い袋を開いた。
黒パン、燻し肉、小さな水筒、火口箱。包み布と傷薬も入っている。アルネが用意したつもりのものを一つずつ見た後、母は細長い清潔な布をもう一枚加えた。
「昼になったら食べること。怪我をしてから布が要ると気づかないこと」
「まだ怪我してない」
「だから今、持たせてるの」
ラグナは袋の口を締めた。左親指に残る薄い赤線へ一度だけ目をやったが、もう包帯を巻こうとはしなかった。
アルネは羊毛の上着へ厚い外套を重ね、腰へ小刀を差した。山羊を引く革紐、十歩あまりの麻縄、火口箱。手には、羊を追う時から使っているトネリコの杖を持つ。武器らしいものは小刀だけだったが、それも肉を切り、革を削り、絡んだ縄を断つための道具だった。
家を出る時、エリンが戸口から呼び止めた。
「灰毛を見つけても、正面から追わないで。怖がると角から来るから」
「それは白耳で覚えた」
「白耳は兄さんが嫌いなだけ」
朝の冷気の中で、アルネは少し笑った。笑えるうちに笑っておくのは、冬の仕事へ出る時の悪くない習慣だった。
*
黒樅林は、村から見れば一枚の暗い壁に見える。
中へ入れば、壁ではない。樹脂を採る道があり、薪にする倒木があり、春には茸の出る湿地がある。夏なら木漏れ日が斑に落ち、斧の音や鳥の声が遠くから届いた。アルネも幼い頃から何度となく入り、迷わない範囲を体で覚えていた。
だからこそ、その日の森がいつもと違うことも分かった。
雪は枝に遮られ、林の外ほど深くない。代わりに凍った根が土から浮き、踏む場所を誤れば足首を取られる。黒樅の幹には古い樹脂採りの切り跡が白く残り、傷口から出た匂いが冷たい空気へ混じっている。
そこまでは、いつもの森だった。
鳥が少なかった。
まったくいないわけではない。高い枝で一羽が鳴き、遠くで別の声が返る。ただ、声と声の間が長すぎた。風が梢を渡っても、普段なら幹の洞や根元で感じる小さな精霊の気配が薄い。見ようとして見えるものではないが、長く使われた家から人の気配だけが抜けた時のような空き方だった。
六人は山口の積み石へ燕麦を置いてから林へ入った。
「家畜を一頭捜す。昼を越えない。通してくれ」
シグルが告げた言葉を、風は運ばなかった。燕麦の殻は石のくぼみに留まり、黒樅の枝も動かなかった。
返事がないこと自体は珍しくない。それでもアルネは、ヘル川の水底にいた青い光を思い出した。あれらも最初は動かなかった。人間が困っているからといって、精霊にできることが増えるわけではない。
樹脂採り道の入口で、六人は三組に分かれた。
シグルとトーラは川へ下る西の斜面。二人の村人は北斜面の外縁。アルネとヨルンは、灰毛の毛が見つかった道をそのまま進む。
「双子岩までだ」
別れる前にシグルが言った。
「跡が続いても、そこで一度集まる」
アルネたちは頷いた。骨笛を一度ずつ鳴らすと、乾いた音が木々の間を抜けた。遠くまで届いたようにも、すぐ幹へ吸われたようにも聞こえた。
ヨルンは先を急がなかった。雪の薄い場所では土を、深い場所では沈み方を見る。アルネは少し離れ、左右の低木を確かめた。
足跡は多かった。
鹿の細い跡、野兎の跳ねた跡、狐の一直線な跡。種類は違っても、ほとんどが林の外へ向かっている。古いものの上へ新しいものが重なり、斜面の下側だけが踏み荒らされていた。
「冬の移動じゃないな」
ヨルンがしゃがんだまま言った。
「狐まで同じ道を使ってる」
アルネは黒い鼻先で雪を割った跡を見た。前を走る野兎へ向きを変えた形はない。捕食するものとされるものが、同じ方角へ急いでいる。
一本だけ、逆向きの足跡があった。
山羊の蹄だった。
灰毛のものと断定はできない。けれど大きさは合う。跡は樹脂採り道から赤柳の生える斜面へ外れ、再び奥へ戻っていた。
「エリンの言った通りだ」
アルネが呟くと、ヨルンは立ち上がった。
「本人に聞かせるな。来年から全部任されるぞ」
兄の冗談は短く、声も低かった。それでも森の静けさが少しだけ遠のいた。
二人は跡を追った。
やがて、雪の上に丸い空白が現れた。
小さな開けた場所だった。倒木も、穴も、獣の匂いもない。中央には薄く雪が積もり、その上だけ足跡がない。周囲を走る狐も鹿も、そこへ入らずに縁を回っていた。
アルネは北斜面の窪地を思い出した。
「回ろう」
先にそう言ったのはヨルンだった。原因を調べようとはしない。今日の仕事は家畜を連れ帰ることで、何もない場所へ二人で踏み込むことではない。
アルネも異論はなかった。空白を左へ迂回し、山羊の跡へ戻る。背中を向けても、何かに見られている感じはしなかった。それがかえって妙だった。
双子岩の手前で、鈴が鳴った。
低く、くぐもった音だった。
アルネとヨルンは同時に足を止めた。音は一度きりで、右手の斜面から聞こえたようにも、前方の窪みから聞こえたようにも思えた。
ヨルンが雪へ目を落とす。山羊の跡は二手に分かれていた。一方は赤柳の斜面を横切り、もう一方は倒木の下へ続いている。歩き回ったのか、別の山羊の古い跡が混じったのかは分からない。
「俺は下を回る」
ヨルンは左の浅い谷を示した。
「お前は道から外れるな。倒れた樅まで見て、いなければ戻れ」
「笛は?」
「見つけたら一度。危なければ三度。十数えて聞こえなければ戻る」
二人が離れても、互いの姿は幹の間に見えていた。ヨルンが谷へ下り、アルネは樹脂採り道の上側を進む。無謀な別行動ではない。山羊が怯えて動き回っている時には、二人で同じ跡を踏むより、逃げ道を挟んだ方が捕まえやすい。
少なくとも、その時はそう考えた。
十歩進んだところで、鈴がもう一度鳴った。
今度ははっきり右前からだった。
アルネはヨルンへ腕を上げ、倒れた樅を指した。兄も下から頷く。まだ姿は見えている。
倒木を越えると、斜面がわずかに窪んでいた。
灰毛の山羊がいた。
首の革紐を折れた根へ絡め、前脚を踏ん張っている。右角の先が欠け、小さな鈴が喉元で震えていた。アルネを見ると逃げようとしたが、紐が張って首を引いた。
「動くな。今、外す」
山羊に通じる言葉ではない。それでも声を低くし、正面を避けて近づいた。灰毛は鼻息を荒くしたが、角から来なかった。空腹と疲れの方が勝っているらしい。
あと五歩というところで、山羊がアルネではない方を見た。
耳が伏せられた。
喉の奥で、鳴き声にならない音がした。
アルネもそちらを見た。
黒樅の根元に、何かが伏せていた。
最初は岩に見えた。灰黒い背は雪の中で低く、肩に重なった骨の板が樹皮のようだった。だが岩なら、息をするたび脇腹が膨らむことはない。
それは狼より低く、猪ほど重そうな獣だった。前脚だけが妙に長く、黒い爪が雪へ浅く食い込んでいる。細い頭には耳らしいものがなく、口の端から内向きに曲がった歯が覗いていた。
アルネは見たことがなかった。
見たことがないというだけで、森の獣はひどく恐ろしくなる。狼なら目を合わせてよい時と、背を見せてはいけない時を教わっている。熊なら食べ物を捨て、走らず、風下を避ける。だが目の前のものが何を追い、何に驚き、どれほど速く走るのか、アルネには何一つ分からなかった。
魔物は、山羊ではなくアルネを見た。
骨笛へ手を伸ばす。
魔物の肩が上がった。
吹けば、飛びかかる。
そう思ったのは理屈ではなかった。アルネは笛から手を離し、杖を横へ寝かせた。戦うためではない。山羊と魔物の間へ、一本ぶんの距離を作るためだった。
灰毛の革紐は根へ二重に巻きついている。結び目を外す時間はない。
アルネは小刀を抜いた。
魔物が低く身を沈める。
アルネは山羊へ走った。
根元へ膝をつき、革紐へ刃を当てる。一度で切れなかった。凍った革が硬い。二度目で半分裂け、灰毛が首を振った。三度目に紐が切れた。
「下へ行け!」
山羊の尻を杖で押す。灰毛は角を振り、倒木を飛び越えた。鈴の低い音が斜面を下っていく。
魔物が動いた。
速かった。
アルネは杖を両手で突き出した。狙って打つ余裕はない。長い前脚と口の間へ、木を一本差し込んだだけだった。
衝撃で腕が痺れた。
魔物は杖へ噛みつき、頭を振った。乾いた音を立てて、トネリコの柄が折れる。アルネは半分になった杖を放し、斜面へ走った。
戦士なら背を向けないのかもしれない。
アルネは戦士ではなかった。背を向けなければ、逃げられない。
開けた道を避け、若い黒樅が密集する方へ入る。肩の骨板が広いなら、幹の間で速度を落とす。そう考えたつもりだったが、最初の二歩で凍った根を踏み、左膝から雪へ落ちた。
背後で雪が裂ける音がした。
振り返る余裕はなかった。折れた杖の短い方を捨て、両手で幹を押して立つ。外套の右袖が強く引かれた。
布が裂けた。
熱いものが上腕を走る。
アルネは声を飲み込み、細い木々の間へ体を押し込んだ。魔物の爪がもう一度伸びたが、肩の骨板が二本の幹へ当たり、鈍い音がした。
止まったのは一息だけだった。
それで十分だと思うしかない。
前方に、樹脂採りの者が雨水を避けるため使う浅い溝があった。夏なら飛び越えられる幅だが、今は雪に隠れ、底の深さが分からない。アルネは腰の麻縄を外し、先の輪を太い根へ掛けた。
結び直す指が一度滑った。
怖い時、手は頭より先に急ぐ。急いだ結び目は、羊にも人にも信用できない。アルネは息をひとつ吐き、普段どおり縄を根へ二度回した。
背後で幹が軋んだ。
輪を引いて締まりを確かめ、溝へ身を下ろす。半分まで降りたところで、魔物が縁へ出た。
アルネは残りを滑った。
靴が凍った土へ当たり、左膝に痛みが突き上げる。だが立てる。上では魔物が前脚を伸ばし、縄を爪で掻いた。
「それは俺のだ」
言っている場合ではなかった。
アルネは縄を引いた。外すつもりだった輪は根へ食い込み、戻らない。魔物が体重をかけると、麻が嫌な音を立てた。
諦めて小刀を入れる。
縄の半分が根に残り、切れた端が溝へ落ちた。同時に、縁の雪が崩れた。魔物の前脚が空を掻き、重い体が胸まで溝へ落ちる。
倒したわけではない。雪と土に足を取られただけだ。
アルネはそれを確かめず、溝沿いに走った。
*
どれだけ走ったか分からなかった。
森の中では、距離より先に息が尽きる。アルネは古い樹脂桶の残骸を見つけ、ようやく足を止めた。肺が冷たい空気を拒み、喉の奥が鉄のような味をしている。
耳を澄ます。
追ってくる音はなかった。
ヨルンの笛も聞こえない。
アルネは自分の骨笛を探した。紐は首にある。三度、長く吹く。息が足りず、最後の音はかすれた。
返事はなかった。
木々の密度と斜面の向きから見て、予定の道より東へ入り込んでいる。溝沿いに逃げたせいで、ヨルンとの間へ小さな尾根を挟んだらしい。戻るには、魔物がいた方を回らなければならない。
右腕が脈を打っていた。
外套の袖をめくると、上腕に三本の浅い傷が走っている。血は出ているが、爪は深く入っていない。ラグナが入れた布を歯と左手で巻き、結び目を締める。母へ何と言われるかを考えられるうちは、まだ歩ける。
左膝は曲げると痛んだが、体重はかけられた。
アルネは折れ残った杖を拾っていないことに気づいた。麻縄も半分を失った。灰毛を見つけた代わりとしては、ずいぶん高くついた。それでも鈴は斜面を下っていった。ヨルンたちの方へ逃げたなら、少なくとも家畜捜索の目的は果たせる。
まず林の外へ向く。
空の明るい方角を探し、尾根を南へ回ることにした。十歩進むごとに立ち止まり、音を聞く。魔物の気配はない。鳥の声もない。
風まで、どこかへ行っていた。
アルネは倒れた黒樅の根を回った。
そこで、小さなものが動いた。
根返りが作った暗がりに、獣が一匹うずくまっている。
狐ほど鼻先は長くなく、猫より耳が尖っていた。体は子山羊よりずっと小さい。灰金色の毛は濡れたように伏せ、細い尾だけが体へきつく巻きついている。淡い色の目が、根の間からアルネを見ていた。
獣ではない、とすぐに分かった。
足元の雪に、重さに見合う跡がない。耳の先の毛は風もないのにわずかに揺れ、輪郭が木漏れ日のように薄くなったり戻ったりする。小精霊が動物の姿を取ることは珍しくない。けれど火なら熱が、水なら湿りが、木なら樹脂や葉の匂いが、どこかしらに現れるものだった。
目の前のものには、アルネの知るどの気配もなかった。
それでも、精霊であることだけは分かる。
名を知らない相手は、危険かもしれない。ましてその日は、見たことのない魔物に追われたばかりだった。
アルネは近づかなかった。
小さな精霊の耳が伏せられ、口元から細い歯が覗いた。威嚇のつもりらしいが、立ち上がる力はない。前脚を踏ん張るたび、体が小さく震えた。
「取らない」
アルネは両手を見える位置へ出した。右腕の布へ血が少し滲んでいる。これでは安心させる姿には見えないだろう。
「捕まえない。そっちを空ける」
根返りの左側には、低木の間を抜ける隙間があった。アルネはその反対へゆっくり移り、逃げ道を塞がない位置に腰を下ろした。
精霊は動かなかった。
アルネは背負い袋を下ろした。中から燻し肉を一切れ出し、半分に折る。精霊が肉を食べるかどうかは分からない。火の精霊へ干し肉を差し出しても、たぶん困らせるだけだ。だが目の前のものは、肉を見た時だけ耳をわずかに上げた。
「要るなら置く」
根から三歩離れた雪のない石へ肉を置く。水筒の木蓋にも少しだけ水を注いだ。
小さな精霊は、アルネの手を見ていた。
肉ではなく、指の動きを追っているようだった。
アルネはもう一歩下がった。自分も残りの黒パンを出し、ゆっくり噛む。昼になったら食べろという母の言葉を、こういう形で守ることになるとは思わなかった。
しばらく、二つの咀嚼音のうち一つしか森にはなかった。
やがて精霊が鼻先を出した。
一歩進み、止まる。アルネを見る。逃げ道を見る。さらに一歩進む。肉へ届く直前で、北の方角から雪の落ちる音がした。
精霊は全身を縮めた。
尾が腹へ巻きつき、耳が頭へ貼りつく。肉を取ることも、隙間へ逃げることも忘れたように、ただ北を見た。
「あっちに何かいるのか」
アルネは声を低くした。
答えは期待していなかった。
精霊の口がわずかに開いた。最初に出たのは息のような音だった。次に、掠れた小さな声が、はっきり言葉の形を取った。
「ここは嫌」
それだけだった。
アルネは北を見た。黒樅の幹が並び、その向こうには同じ森が続いている。どこからどこまでを「ここ」と言うのか、この精霊が何を嫌がっているのかは分からない。
ただ、ここにいたくないらしい。
「俺も今は、あまり好きじゃない」
精霊は返事をしなかった。言葉の意味が全部通じたのかも分からない。だが淡い目はアルネへ戻った。
遠くで、低い唸り声がした。
同じ魔物か、別のものか。判断する材料はない。小さな精霊は肉から離れ、根の奥へ身を押し込んだ。奥行きはほとんどなく、隠れたつもりでも尾の先が見えている。
アルネは立ち上がった。右腕が痛み、左膝も固くなり始めている。自分一人でも、暗くなる前に村へ戻らなければならない。
「俺は南へ行く。村がある」
精霊へ道を説明している自分が、少しおかしく思えた。けれど山口で返事のない風へ話すのと、大きな違いはない。
「来るなら止めない。ここに残るなら、それもお前が決めろ」
抱き上げれば早い。弱っているのだから、布へ包んで運ぶこともできる。
けれど、逃げ道を残しておいてから手を伸ばすのは、ひどく質の悪い約束に思えた。
アルネは背負い袋から火口箱と残りの食べ物を出し、腰の革帯へ移した。袋の口を大きく開いて雪のない場所へ置き、燻し肉をその手前へ移す。
「歩けないなら、これを使えばいい。嫌なら使わなくていい」
そう言って、背を向けた。
待つ間に、右腕の布を締め直す。膝を曲げ、まだ動くことを確かめる。骨笛を一度鳴らした。
今度は遠くから、短い返事があった。
ヨルンの笛だった。
アルネは息を吐いた。返事を二度吹き、集まる合図にする。
背後で、雪を掻く小さな音がした。
振り返らない。
袋の布が擦れ、留め具がかすかに鳴った。しばらくしてから目だけを向けると、小さな精霊は袋の中へ半身を入れていた。いつでも飛び出せるよう、前脚を縁へ掛けたままアルネを見ている。
信じた顔ではなかった。
ここに残るよりはましだと、そう決めただけなのだろう。
アルネにも、それで十分だった。
「閉じない。揺れたら噛むなよ」
精霊の耳が少し動いた。了承か警告かは分からない。
アルネは袋を片方の肩へ掛けた。傷のない左へ重みを寄せ、口は開けたままにする。中の小さな体が身を固くしたが、飛び出しはしなかった。
南へ歩き始める。
十歩ほど進んだところで振り返ると、石の上の燻し肉はなくなっていた。
*
ヨルンたちと合流したのは、双子岩よりだいぶ下だった。
灰毛の山羊は先に戻っていた。切れた革紐を首から垂らし、トーラに角を押さえられながら赤柳の枝を食べている。自分を危険へ置いたことなど、もう忘れたような顔だった。
ヨルンはアルネの姿を見るなり、山羊ではなく裂けた袖を見た。
「何があった」
「見たことのない魔物がいた。灰毛の近くに」
アルネは背負い袋を揺らさないよう立ち止まった。中の精霊は動かない。
「灰色で、肩に骨みたいな板がある。前脚が長い。杖を折られた」
ヨルンの顔から、弟が戻ったことへの安堵がすぐに引いた。代わりに、仕事の時の硬い表情になる。
「追ってきたか」
「溝へ落ちた。死んではいない。東へ回ってきたから、道の上にいるかもしれない」
シグルはアルネの後ろを見た。森は静かだった。父は骨笛を長く三度吹き、全員へ帰還を告げた。
「今日は終わりだ」
トーラが灰毛の首へ新しい革紐を通した。山羊を見つけた喜びより、森の方へ向ける警戒が勝っている。
「それ、魔物の爪?」
彼女がアルネの腕を指す。
「浅い。布は巻いた」
「浅いかどうかは、あんたの母親が決めることだね」
反論できる者は、その場にいなかった。
ヨルンはアルネの背負い袋へ手を伸ばしかけた。
「持ってやる」
「左で持てる」
「お前が決めることじゃない」
兄の言い方はラグナに似ていた。だが袋の中身まで移されれば、小さな精霊は逃げるか、恐怖で噛みつくだろう。
「火口箱と食べ物は腰にある。袋は軽い。今はこのままにしたい」
ヨルンは弟の顔を見た。理由を聞きかけたようだったが、森で長話をする時ではないと判断したらしい。
「なら歩け。遅れたら持つ」
それだけ言い、斜面の下側へついた。アルネが足を滑らせれば支えられる位置だった。
帰り道では、誰も大きな声を出さなかった。
シグルが先を見て、二人の村人が後ろを確かめる。トーラは灰毛を自分のすぐ脇へつけた。山口の積み石まで来た時、父は朝に置いた燕麦がそのまま残っているのを見た。
「通った。帰る」
短く告げ、石を一つ直した。
風はまだなかった。
それでも一行は、誰一人欠けずに林を出た。
*
村へ戻った時には、日が割れ峰へ触れかけていた。
灰毛の鈴を聞きつけ、エリンが北の道まで走ってきた。まず山羊の右角を確かめ、その次にアルネの裂けた袖を見た。口を開くより早く、ヨルンが言う。
「母さんを呼べ。傷薬と湯だ」
エリンの顔から問いが消えた。彼女は頷き、家へ駆け戻る。家畜の無事を喜ぶのも、兄を問い詰めるのも、その後でよいと分かっている。
「道具を納屋へ置く」
アルネが言うと、ヨルンは眉を寄せた。
「先に傷だ」
「納屋を通るだけだ。すぐ行く」
兄は少し迷ったが、家の戸口にはもうラグナの姿が見えていた。逃げ切れないと分かったのだろう。
「本当にすぐ来い」
「分かった」
「それを今日は信用しない」
ヨルンはアルネの左膝の動きを一度見てから、家の方へ戻った。
アルネは納屋へ入った。
干し草と革油の匂いがした。羊の声が壁越しに聞こえ、外では灰毛の鈴が遠ざかっていく。森の静けさから戻ると、そのどれもがひどく近く、温かく感じられた。
梯子を上り、飼料棚の上にある小さな屋根裏へ入る。ここなら家畜から離れており、人も滅多に来ない。壁の高いところに換気の隙間があるため、閉じ込めることにもならない。
背負い袋を藁の上へ下ろした。
「着いた」
返事はない。
袋の口から淡い目が二つ、こちらを見ていた。
アルネは古い毛布を二つ折りにし、その上へ水を入れた木椀と燻し肉を置いた。手を伸ばせば触れられる距離だったが、触れない。袋から出るか、換気口から逃げるか、藁の陰へ隠れるかは、この小さな精霊が決めればよい。
「人が来たら隠れろ。俺も、落ち着いたら家の者へ話す」
どこまで通じたのかは分からなかった。
外からエリンの声がした。
「兄さん、母さんが数える前に来て!」
何を数えるのかは、聞かなくても分かった。傷の本数か、遅れた息子の言い訳か、その両方だろう。
「今行く」
アルネは屋根裏の梯子へ足を掛けた。
振り返ると、小さな精霊はまだ袋の中にいた。逃げてもいない。近づいてもいない。ただ、外の羊の声へ耳を向け、次にアルネを見た。
互いに、相手のことはほとんど知らなかった。
アルネが知ったのは、これが見たことのない精霊で、北の森を恐れ、森に残るより村へ来る方を選んだことだけだった。
小さな精霊が知ったのも、おそらく同じくらい少ない。傷を負った人間が一人、退路を空け、袋を置き、南へ歩いた。それだけだ。
それでも、同じ道をここまで来た。
アルネは梯子を下りた。家の炉から立つ煙が、納屋の小窓越しに夕空へ流れている。
森は何も説明しなかった。
ただ、あの小さな声だけが耳に残っていた。
――ここは嫌。




