第7話 眠っていた酒蔵
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃、一樹は一人で酒蔵の前に立っていた。
「……やっぱり、眠れなかったな。」
三日しかない。
本来なら焦るところだ。
それなのに胸が高鳴っている自分がいた。
酒が造れる。
正確には、造れるかもしれない。
その可能性だけで、足取りは自然と軽くなっていた。
古びた扉に手を添える。
ギィ、と軋む音を立てて扉が開いた。
昨日と同じ酒蔵。
それでも朝の光が差し込むだけで、どこか違って見えた。
「おはよう。」
誰もいない酒蔵へ、一樹は自然と声を掛ける。
もちろん返事はない。
それでも、長い眠りから目を覚ました建物へ挨拶をしたかった。
ゆっくりと中を歩く。
大きな木桶。
壁際に並ぶ酒樽。
天井には太い梁が何本も渡されている。
床には長年積もった埃。
使われなくなって久しい酒蔵なのに、不思議と荒れ果てた印象はなかった。
「大事にされてたんだな。」
木桶へそっと手を置く。
冷たい木の感触が掌へ伝わる。
「職人さん。」
「俺、あなたの酒は飲めなかったけど。」
「この酒蔵、もう一回だけ働いてもらうよ。」
その時だった。
「朝早いのう。」
振り返ると、樽職人の老人が箒を肩に担いで立っていた。
「おはようございます。」
「眠れんかったか。」
「はい。」
「酒蔵が楽しみで。」
老人は一瞬きょとんとしたあと、大きな声で笑った。
「はっはっは!」
「酒好きも、そこまで来ると病気じゃな。」
「否定できません。」
二人が笑っていると、外から足音が聞こえてきた。
村長だった。
「お待たせしました。」
「村の者を集めてきました。」
その後ろには若い村人たちがいる。
さらに少し遅れて、族長を先頭にオークたちも姿を現した。
酒蔵の前で、人間とオークが向かい合う。
昨日ほどの険しさはない。
それでも、まだどこかぎこちない。
一樹はぱん、と手を叩いた。
「よし。」
「今日は酒は造らない。」
全員が首をかしげる。
「造らない?」
「うん。」
「今日は掃除。」
女性騎士が思わず聞き返した。
「掃除だけですか?」
「酒造りってね。」
一樹は木桶を指差した。
「綺麗な場所じゃないと始められない。」
すると樽職人の老人が、腕を組んでうんうんと頷く。
「その通りじゃ。」
「酒は正直じゃからのう。」
「汚れた道具では、まともな酒にならん。」
一樹は笑顔で親指を立てた。
「ほら、職人さんもこう言ってる。」
「じゃあ始めよう。」
村人たちは箒を手に取る。
オークたちは外へ積まれていた壊れた樽や木材を運び始めた。
女性騎士は黙って雑巾を水に浸し、床を拭き始める。
一樹はその光景を見て満足そうに頷いた。
「いいね。」
「酒造りっぽくなってきた。」
「まだ掃除ですよ。」
女性騎士が呆れたように返す。
「掃除も酒造り。」
一樹は笑う。
「むしろ最初の一歩だよ。」
その言葉を聞いた村人たちは、黙って頷いた。
誰に命令されたわけでもない。
誰かが始めたから、自分も動く。
そんな空気が、少しずつ酒蔵の中へ広がっていった。
しばらくすると、酒蔵のあちこちから賑やかな声が聞こえ始めた。
「こっちの樽を外へ!」
「分かった!」
「その桶はまだ使えるぞ!」
最初はぎこちなかった人間とオークのやり取りも、作業が始まると少しずつ変わっていく。
大きな木桶を動かそうと、村の若者が肩を入れる。
「ぐっ……!」
びくりとも動かない。
そこへ若いオークが無言で隣へ立った。
「押すぞ。」
「あ、ああ!」
二人が同時に力を入れる。
重たい木桶は、ゆっくりと床を滑っていった。
「やった!」
村の若者が思わず笑う。
若いオークも口元を少しだけ緩めた。
一樹は、その様子を黙って見ていた。
「いい顔になってきたな。」
「何がですか?」
隣で雑巾を絞っていた女性騎士が尋ねる。
「仕事してる時の顔。」
「人って、不思議なんだよ。」
「一緒に働くと、相手を敵だと思い続けるのが難しくなる。」
女性騎士は作業を続ける村人たちを見つめる。
確かにそうだった。
誰かが木桶を押せば、自然と誰かが支える。
脚立が必要になれば、オークが高い場所の蜘蛛の巣を払う。
力仕事が終われば、今度は村人が細かい掃除を引き受ける。
そこには昨日までの敵意はなかった。
あるのは、「この作業を終わらせたい」という同じ目的だけだった。
その時だった。
「こら!」
樽職人の老人の怒鳴り声が響く。
「何やっとる!」
全員が振り返る。
一人のオークが、古い木桶を横倒しにして転がそうとしていた。
「違う違う!」
老人は慌てて駆け寄る。
「桶は転がすもんじゃない!」
「そうなんですか?」
オークは首をかしげる。
「木が傷む!」
「立てたまま運ばんか!」
「……すまん。」
素直に頭を下げるオークに、老人は少し照れくさそうに頭をかいた。
「いや……怒鳴って悪かった。」
「知らんかったんじゃろ。」
一樹は思わず笑ってしまう。
「なんか親方って感じですね。」
「職人は道具を大事にするもんじゃ。」
老人は木桶を優しく撫でる。
「わしが若い頃、この酒蔵には毎日笑い声が響いとった。」
「朝から晩まで忙しかったが、ええ酒ができると皆で喜んだもんじゃ。」
その声は、どこか懐かしそうだった。
酒蔵の中が静かになる。
老人は少し照れたように咳払いをした。
「……すまん。」
「年寄りの昔話じゃ。」
「いや。」
一樹は首を振る。
「そういう話、好きです。」
老人は驚いたように一樹を見る。
「酒って、人が造るものじゃないですか。」
「だから、その人の話も大事なんですよ。」
老人は何も言わなかった。
ただ、小さく笑った。
その時、女性騎士が壁を拭いていた手を止める。
「あれ……?」
「どうしました?」
「ここ。」
彼女が指差した壁には、長年の埃に隠れて何かが刻まれていた。
皆で周りの埃を払う。
少しずつ文字が姿を現す。
古い文字だったが、何とか読むことができた。
そこには、たった一行だけ刻まれていた。
『良い酒は、良い人が育てる。』
誰もしばらく言葉を発しなかった。
一樹はその文字を静かに見つめる。
「……なるほど。」
「酒を育てる前に。」
「人を育てろってことか。」
族長も壁の文字を見上げ、小さく頷いた。
「良い言葉だ。」
村長は目を細める。
「この酒蔵を建てた初代蔵元の言葉だと聞いたことがあります。」
「まさか、まだ残っていたとは……。」
一樹は壁へ軽く手を当てた。
「安心してください。」
「この酒蔵は、また人の笑い声でいっぱいになります。」
誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。
亡くなった職人へなのか。
酒蔵そのものへなのか。
それでも、その言葉だけは自然と口からこぼれていた。
昼を過ぎる頃には、酒蔵の景色は見違えていた。
床を覆っていた埃はなくなり、窓から差し込む光が木桶を柔らかく照らしている。
外では洗い終えた樽が天日に並べられ、風に吹かれて静かに乾いていた。
一樹は大きく背伸びをする。
「いやぁ、気持ちいい。」
「掃除だけでそんなに嬉しそうな人、初めて見ました。」
女性騎士が呆れたように笑う。
「掃除ってね。」
一樹は酒蔵を見渡した。
「ここで働いてた人への挨拶みたいなものだから。」
「挨拶……ですか。」
「うん。」
「今日からお世話になりますって。」
女性騎士は少し驚いたような顔をしたあと、静かに酒蔵を見回した。
「そう考えると、不思議ですね。」
「ここに誰もいないのに、人の温もりを感じます。」
「それだけ大切に使われてたんだろうね。」
その時、樽職人の老人が木桶を軽く叩いた。
「よし。」
「これなら使える。」
その一言に、一樹はぱっと顔を明るくする。
「本当ですか!」
「全部じゃない。」
「じゃが、一番大事な桶は生きとる。」
一樹は思わず木桶へ駆け寄った。
傷はある。
年季も入っている。
それでも、しっかりと手入れをすれば、まだ役目を果たせる。
「ありがとう。」
一樹は木桶へ向かって、自然と頭を下げた。
それを見た若い村人が、小さく笑う。
「道具にまでお礼を言うのか。」
「言うよ。」
一樹は照れくさそうに笑った。
「長く働いてきた先輩だから。」
その言葉に、樽職人の老人が吹き出す。
「はっはっは!」
「木桶を先輩とは、面白い若造じゃ。」
酒蔵の中に笑い声が広がる。
その笑い声を聞きながら、村長は静かに呟いた。
「……十年ぶりです。」
「え?」
「この酒蔵から笑い声が聞こえたのは。」
誰も言葉を返さなかった。
ただ、その言葉の重みだけは、全員が感じていた。
一樹はゆっくりと酒蔵の中央へ歩いていく。
そして、人間とオークを見回した。
「今日の目標は達成。」
「酒蔵は生き返った。」
「明日はいよいよ、一杯目を仕込む準備を始めよう。」
村人たちが頷く。
オークたちも頷く。
もう、そこには命令されて動く者はいなかった。
それぞれが、自分の役割を考え始めていた。
三日という短い時間は変わらない。
それでも、一樹は初めて思えた。
――きっと、間に合う。
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次回
第8話「最初の仕込み」




