第58話 骸骨の王
広間の空気は、外の霧よりもさらに冷たかった。
青白い灯りが壁に沿って揺れ、長い卓の上に並んだ杯や皿に、淡い影を落としている。どの杯にも厚く埃が積もっていた。まるで、何百年も前の宴の途中で、すべてが凍りついてしまったかのようだった。
玉座の主は、ゆっくりと立ち上がった。骨だけの身体が、外套の下でかすかに軋む。背は一樹よりも高く、骨は細いのに、そこに立っているだけで広間の空気が引き締まるようだった。
「我はローデリク。この地、エルスディアの王である」
乾いた声が、広間の天井に反響した。
一樹は、思わず背筋を伸ばした。隣のセレナが、騎士の礼を取って片膝をつく。一樹も慌ててそれに倣い、深く頭を下げた。
「酒井一樹です。こっちは、セレナです」
「王直属近衛騎士、セレナ・アルディスと申します」
「面を上げよ」
ローデリクの声は、思っていたよりも穏やかだった。二人が顔を上げると、空っぽの眼窩の奥で、二つの小さな灯りがゆっくりと瞬いた。
「騎士とは懐かしい。我が国にも、かつては多くの騎士がいた。……今は、骨ばかりだがな」
その言葉に、広間の隅に並んだ骸骨兵たちが、かしゃりと小さく鎧を鳴らした。笑ったのかもしれない、と一樹は思った。
「して、客人。生きた者が、なぜこの谷へ来た」
一樹は、少しだけ考えた。嘘をつく理由はなかった。
「王都の王様から、この谷に何がいるのか見てきてほしいと頼まれました。谷の近くの村の人たちが、夜に骸骨の兵を見て怖がっているそうで」
「……そうか」
ローデリクは、かすかに肩を落としたように見えた。
「我らは、生きた者を脅かすつもりはない。だが、この姿では、そう思われても仕方あるまいな」
「それと、もう一つ理由があって」
一樹は、少しだけ頭を掻いた。
「この谷には昔、白いお酒があったって聞いたんです。それが、どうしても気になって」
広間が、しんと静まり返った。
骸骨兵たちが、一斉に一樹のほうへ顔を向ける。ローデリクの眼窩の灯りが、大きく揺れた。
「……白い酒、と申したか」
「はい。宿場の女将さんが、おばあさんから聞いた話だって。白い穂の田んぼが広がっていて、秋には白いお酒で大きな祭りをしたって」
ローデリクは、しばらく何も言わなかった。やがて、乾いた笑い声が、喉のあたりから小さく漏れた。
「生きた者の間に、まだその話が残っていたか。……何百年も経つというのに」
ローデリクは玉座から下り、長い卓の一つへ歩み寄った。骨の指で、埃をかぶった杯の一つをそっと持ち上げる。
「酒を求めてこの谷へ来た客人に、何も出さぬのは王の恥だ。……待っておれ」
ローデリクが骸骨兵の一人に目配せをすると、その骸骨は広間の奥へ消えていった。しばらくして戻ってきた時、その骨の腕には、古びた瓶が一本抱えられていた。
「我が城の蔵に残る、最後の一本だ。王家の祝いの席のために、とっておいたものでな」
骸骨兵が瓶の封を切る。ローデリクは、埃を払った杯に、瓶の中身を注いだ。暗い赤色の液体が、杯の底に揺れる。
「飲むがよい」
一樹は杯を受け取った。何百年も眠っていた酒。竜の台地の竜霞酒を思い出し、胸が少しだけ高鳴る。
杯を鼻へ近づけた瞬間、つんと鋭い匂いが鼻を突いた。
「……」
一樹は、ほんの少しだけ口に含んだ。
酸っぱかった。
思わず顔がくしゃりと歪む。舌の上に広がるのは、酒の味ではなく、強烈な酸味だった。
「……酢、ですね」
「酢?」
「お酒が、酢になっちゃってます」
ローデリクは、しばらく固まっていた。眼窩の灯りが、ぱちぱちと瞬く。
やがて、骨の手で自分の顎のあたりを押さえた。
「……そうであったか」
「何百年も経ってますから。お酒によっては、こうなっちゃうんです」
一樹は、杯の中の暗い赤色を見つめた。竜霞酒は、二十年の時を越えて柔らかな酒になった。けれど、すべての酒が、時を重ねれば旨くなるわけではない。何百年という時間は、この酒を酒ではないものに変えてしまっていた。
「すまぬ。客人に酢を飲ませるとは、王として面目もない」
「いえ。王家の大事な一本を開けてくれたんですから」
一樹がそう言うと、ローデリクは少しだけ首を傾げた。
「……我には、分からなかったのだ」
「分からなかった?」
「見ての通り、我には舌も鼻もない。酒の味も、香りも、もう何百年も知らぬ」
ローデリクはそう言うと、自分の杯にも瓶の中身を注いだ。そして、骨の手で杯を持ち上げ、口元へ運ぶ。
杯が傾き、暗い赤色の液体が、骨の顎の間へ流れ込んだ。
そして、そのまま喉の骨を伝い、肋骨の隙間から、ぼたぼたと床へこぼれ落ちた。
「……」
「……」
一樹とセレナは、何も言えなかった。床に、小さな赤い水たまりが広がっていく。
ローデリクは、何事もなかったかのように杯を下ろした。
「うむ。やはり、何も分からぬ」
その瞬間、隣でセレナが肩を震わせた。必死に口元を押さえている。一樹も、こらえきれずに吹き出しそうになり、慌てて下を向いた。
広間の隅で、骸骨兵たちが一斉に鎧を鳴らした。かしゃかしゃかしゃ、と、まるで笑い声のように。
「笑うでない。王の御前であるぞ」
ローデリクがそう言うと、骸骨兵たちはぴたりと静かになった。けれど、その声には少しも怒りが含まれていなかった。むしろ、どこか楽しそうですらあった。
「……すみません」
一樹が謝ると、ローデリクは骨の手を軽く振った。
「よい。笑い声を聞いたのも、何百年ぶりか分からぬ」
ローデリクは、床の水たまりを見下ろした。
「味も香りも分からぬのに、なぜ飲むのかと思うであろう」
「……少し」
「杯を持つと、思い出すのだ」
ローデリクは、空になった杯を両手で包むように持った。骨の指が、杯の縁をそっとなぞる。
「生きていた頃、この手が杯をどう持っていたか。この広間に、どれほどの笑い声が満ちていたか。……酒の味は忘れても、杯の重さだけは、まだこの骨が覚えている」
一樹は、自分の手の中の杯を見つめた。埃を払ったばかりの、古い杯。何百年も前に、誰かがこの杯で酒を飲み、笑っていたのだろう。
ローデリクは、もう一度自分の杯に酢となった酒を注いだ。そして、広間に並ぶ骸骨兵たちを見渡す。骸骨兵たちも、それぞれ埃をかぶった杯を手に取った。
ローデリクは、杯をゆっくりと胸の高さまで掲げた。
「眠れる者たちに」
骸骨兵たちが、一斉に杯を掲げる。
「……」
声はなかった。骸骨兵たちには、声を出すための喉がないのだ。それでも、骨の手に掲げられた杯は、王の言葉に応えるように静かに揺れていた。
一樹も、手の中の杯を持ち上げた。そして、いつもの癖で、ローデリクの杯へと近づけようとした。
ローデリクが、すっと杯を引いた。
「我らの杯は、合わせぬ」
「え?」
「これは、乾杯ではない。眠りについた者たちへ捧げる、献杯だ。杯を掲げ、その者たちを偲ぶ。杯を合わせることはせぬ」
一樹は、引っ込めた自分の杯を見つめた。
杯を合わせなければ、乾杯の盟約は結ばれない。この広間では、何百年もの間、盟約を結ばない乾杯だけが交わされてきたのだ。
「何百年も、献杯だけを?」
「そうだ」
「誰に、献杯してるんですか」
一樹の問いに、ローデリクはしばらく答えなかった。
眼窩の奥の灯りが、静かに揺れる。広間に並ぶ骸骨兵たちも、杯を掲げたまま、じっと動かなかった。
「……果たせなかった、約束にだ」
ローデリクは、そう呟いた。
次回に続く。




