第59話 果たせなかった祝杯
ローデリクは、杯を卓の上にそっと置いた。
骨の指が、杯の縁から静かに離れる。広間の青白い灯りが揺れ、骸骨兵たちの影が壁の上で長く伸びた。
「座るがよい、客人。少し長い話になる」
一樹とセレナは、促されるまま卓の一つについた。埃を払った椅子は古く、腰を下ろすと小さく軋んだ。ローデリクは玉座には戻らず、二人の向かいの椅子に腰を下ろした。
王が客と同じ卓につく。その様子を、骸骨兵たちは黙って見守っていた。
「エルスディアは、小さな国であった」
ローデリクは、遠い昔を手繰り寄せるように語り始めた。
「谷の斜面に田を拓き、白穂を育てた。白穂は、白い米のような穀物でな。秋になれば谷一面が白く揺れ、まるで谷そのものが光っているように見えたものだ」
一樹は、谷へ入る時に見た、枯れた田を思い出した。段々に続く、ひび割れた土。あの斜面が、一面白く揺れていたのだ。
「民は皆、田を愛していた。我もそうだ。王である前に、田を見回るのが何より好きでな。朝の田の匂いは、今でも……いや」
ローデリクは、そこで言葉を切った。
「匂いは、もう思い出せぬのだった」
その声は、ひどく静かだった。
「秋には、収穫を祝う祭りがあった。白穂で醸した白い酒を、城の広間でも、村々の広場でも、皆で酌み交わした。王も民も、騎士も農夫も、同じ酒を飲んだ。……この広間が、笑い声で溢れておった」
ローデリクの眼窩の灯りが、広間の長い卓を順番になぞっていく。埃をかぶった杯、皿、そのすべてに、かつての宴の名残があった。
「ある年の夏の終わりだった。南の果てから、軍勢が来た」
広間の空気が、わずかに張り詰めた。
「黒い旗を掲げた軍勢だった。どこから来たのか、なぜ来たのか、我らには分からなかった。ただ、奴らは谷を越え、さらに北へ進もうとしていた」
「北へ……」
セレナが小さく呟いた。
「北には、人の国がある。今で言えば、そなたらの王国だ」
ローデリクは、骨の手を卓の上で組んだ。
「エルスディアの兵だけでは、とても勝てぬ数だった。だが、ここで止めねば、奴らは谷を抜けて北の人々に襲いかかる。……だから我らは、谷で戦うと決めた」
「民の人たちは」
一樹が尋ねると、ローデリクは小さく頷いた。
「北へ逃がした。女も子どもも、年老いた者も。戦えぬ者は、すべてだ」
ローデリクは、そこで一度だけ顔を上げた。広間に並ぶ骸骨兵たちを、ゆっくりと見渡す。
「残ったのは、我と、我と共に戦うと誓った者たちだけだった」
骸骨兵たちは、動かなかった。けれど、その骨の手に握られた槍や剣が、かすかに揺れたように見えた。
「戦の前夜、この広間で、最後に皆で杯を交わした。まだ刈り入れの前の、青い白穂を窓から眺めながらな」
ローデリクの声が、わずかに震えた。
「その時、我は皆に約束した。この戦が終わったら、秋の祭りを開こう。白穂を刈り入れ、白い酒を醸し、逃がした民を呼び戻して、皆で祝杯をあげよう、と」
広間に、長い沈黙が落ちた。
「……戦は、どうなったんですか」
一樹の問いに、ローデリクはすぐには答えなかった。
「軍勢は、谷を越えられなかった。我らは谷を守り抜いた」
「じゃあ……」
「だが、守り抜いた時には、谷に立っている者は一人もいなかった」
一樹は、言葉を失った。隣でセレナが、膝の上で拳を握りしめるのが分かった。
「気がつけば、我らはこの姿で立っていた。骨だけの身体で、谷の縁に並んでおった。軍勢は退き、南の空は静かだった。……だが、我らは眠ることができなかった」
ローデリクは、自分の骨の手のひらを見つめた。
「約束を、果たしておらぬからだ。祝杯をあげると誓った。それを果たすまで、この骨は眠ることを許されぬのだろう」
「民の人たちは、戻ってこなかったんですか」
「戻れなかったのだ。谷には骸骨しかおらぬ。白穂を育てる者もいない。……我らが呼び戻すことも、できなかった。この姿で北へ行けば、民を怯えさせるだけだからな」
ローデリクは、窓の外の霧を見つめた。
「田は枯れ、白穂は絶えた。白い酒を醸す者も、もうおらぬ。約束の祝杯をあげることは、二度とできぬ」
「だから、献杯を……」
「そうだ。祝杯をあげられぬなら、せめて、共に戦い眠れずにいる者たちと、北へ逃がした民と、果たせなかった約束に、杯を捧げる。……我らにできるのは、それだけだ」
一樹は、谷へ入った時のことを思い出していた。崩れていない畦の石。列を離れて、黙って石を積み直していた骸骨の背中。
「田んぼの畦が、崩れてなかったんです」
ローデリクが、一樹を見た。
「ここに来る途中、兵士の人が、崩れかけた石を積み直してました。何も実らない田んぼなのに」
「……ああ」
ローデリクは、小さく頷いた。
「皆、生きていた頃は農夫だった。剣を持ったのは、あの夏が初めてだった者も多い。……田を放っておけぬのだ。何も実らぬと分かっていても」
広間の隅で、一人の骸骨兵が、そっと顔を伏せた。谷で一樹たちを出迎えた、色褪せた布の飾りを兜につけた骸骨だった。
「それと、村のおじいさんが言ってました。夜になると、骸骨の兵が谷の縁に並んで、南を見てるって」
「見張りだ」
ローデリクの声が、低くなった。
「あの軍勢は退いた。だが、南の果ての気配は、何百年経った今も消えてはおらぬ。いつかまた、何かが来るやもしれぬ。……だから、我らは谷の縁に立ち続けている」
セレナが、静かに顔を上げた。
「民を逃がして、谷に残って……何百年も、守り続けてきたんですね」
「騎士殿には、分かるか」
「分かります。私も、騎士ですから」
セレナの声は、少しだけ震えていた。ローデリクは、そんなセレナをしばらく見つめ、やがて小さく頭を下げた。
「……ありがたい言葉だ」
広間に、再び静けさが戻った。
一樹は、卓の上の杯を見つめていた。埃を払った、古い杯。何百年も前の宴で使われ、そして約束の祝杯を待ち続けてきた杯。
しばらくして、一樹はゆっくりと顔を上げた。
「ローデリクさん」
「何だ」
「その白いお酒って、どんなお酒だったんですか」
ローデリクの眼窩の灯りが、かすかに揺れた。
「……味も香りも、もう覚えておらぬと言ったはずだが」
「それでも、覚えてることがあれば。色とか、どんな時に飲んでたかとか。何でもいいんです」
一樹は、まっすぐにローデリクを見た。
「聞いてみたいんです。皆さんが祝杯をあげるはずだった、そのお酒のこと」
ローデリクは、長い間何も言わなかった。骸骨兵たちも、じっと王を見つめている。
やがて、乾いた声が、ゆっくりと広間に響いた。
「……覚えている限り、話そう」
次回に続く。




