↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/61

第59話 果たせなかった祝杯

ローデリクは、杯を卓の上にそっと置いた。

骨の指が、杯の縁から静かに離れる。広間の青白い灯りが揺れ、骸骨兵たちの影が壁の上で長く伸びた。


「座るがよい、客人。少し長い話になる」


一樹とセレナは、促されるまま卓の一つについた。埃を払った椅子は古く、腰を下ろすと小さく軋んだ。ローデリクは玉座には戻らず、二人の向かいの椅子に腰を下ろした。

王が客と同じ卓につく。その様子を、骸骨兵たちは黙って見守っていた。


「エルスディアは、小さな国であった」


ローデリクは、遠い昔を手繰り寄せるように語り始めた。


「谷の斜面に田を拓き、白穂を育てた。白穂は、白い米のような穀物でな。秋になれば谷一面が白く揺れ、まるで谷そのものが光っているように見えたものだ」


一樹は、谷へ入る時に見た、枯れた田を思い出した。段々に続く、ひび割れた土。あの斜面が、一面白く揺れていたのだ。


「民は皆、田を愛していた。我もそうだ。王である前に、田を見回るのが何より好きでな。朝の田の匂いは、今でも……いや」


ローデリクは、そこで言葉を切った。


「匂いは、もう思い出せぬのだった」


その声は、ひどく静かだった。


「秋には、収穫を祝う祭りがあった。白穂で醸した白い酒を、城の広間でも、村々の広場でも、皆で酌み交わした。王も民も、騎士も農夫も、同じ酒を飲んだ。……この広間が、笑い声で溢れておった」


ローデリクの眼窩の灯りが、広間の長い卓を順番になぞっていく。埃をかぶった杯、皿、そのすべてに、かつての宴の名残があった。


「ある年の夏の終わりだった。南の果てから、軍勢が来た」


広間の空気が、わずかに張り詰めた。


「黒い旗を掲げた軍勢だった。どこから来たのか、なぜ来たのか、我らには分からなかった。ただ、奴らは谷を越え、さらに北へ進もうとしていた」


「北へ……」


セレナが小さく呟いた。


「北には、人の国がある。今で言えば、そなたらの王国だ」


ローデリクは、骨の手を卓の上で組んだ。


「エルスディアの兵だけでは、とても勝てぬ数だった。だが、ここで止めねば、奴らは谷を抜けて北の人々に襲いかかる。……だから我らは、谷で戦うと決めた」


「民の人たちは」


一樹が尋ねると、ローデリクは小さく頷いた。


「北へ逃がした。女も子どもも、年老いた者も。戦えぬ者は、すべてだ」


ローデリクは、そこで一度だけ顔を上げた。広間に並ぶ骸骨兵たちを、ゆっくりと見渡す。


「残ったのは、我と、我と共に戦うと誓った者たちだけだった」


骸骨兵たちは、動かなかった。けれど、その骨の手に握られた槍や剣が、かすかに揺れたように見えた。


「戦の前夜、この広間で、最後に皆で杯を交わした。まだ刈り入れの前の、青い白穂を窓から眺めながらな」


ローデリクの声が、わずかに震えた。


「その時、我は皆に約束した。この戦が終わったら、秋の祭りを開こう。白穂を刈り入れ、白い酒を醸し、逃がした民を呼び戻して、皆で祝杯をあげよう、と」


広間に、長い沈黙が落ちた。


「……戦は、どうなったんですか」


一樹の問いに、ローデリクはすぐには答えなかった。


「軍勢は、谷を越えられなかった。我らは谷を守り抜いた」


「じゃあ……」


「だが、守り抜いた時には、谷に立っている者は一人もいなかった」


一樹は、言葉を失った。隣でセレナが、膝の上で拳を握りしめるのが分かった。


「気がつけば、我らはこの姿で立っていた。骨だけの身体で、谷の縁に並んでおった。軍勢は退き、南の空は静かだった。……だが、我らは眠ることができなかった」


ローデリクは、自分の骨の手のひらを見つめた。


「約束を、果たしておらぬからだ。祝杯をあげると誓った。それを果たすまで、この骨は眠ることを許されぬのだろう」


「民の人たちは、戻ってこなかったんですか」


「戻れなかったのだ。谷には骸骨しかおらぬ。白穂を育てる者もいない。……我らが呼び戻すことも、できなかった。この姿で北へ行けば、民を怯えさせるだけだからな」


ローデリクは、窓の外の霧を見つめた。


「田は枯れ、白穂は絶えた。白い酒を醸す者も、もうおらぬ。約束の祝杯をあげることは、二度とできぬ」


「だから、献杯を……」


「そうだ。祝杯をあげられぬなら、せめて、共に戦い眠れずにいる者たちと、北へ逃がした民と、果たせなかった約束に、杯を捧げる。……我らにできるのは、それだけだ」


一樹は、谷へ入った時のことを思い出していた。崩れていない畦の石。列を離れて、黙って石を積み直していた骸骨の背中。


「田んぼの畦が、崩れてなかったんです」


ローデリクが、一樹を見た。


「ここに来る途中、兵士の人が、崩れかけた石を積み直してました。何も実らない田んぼなのに」


「……ああ」


ローデリクは、小さく頷いた。


「皆、生きていた頃は農夫だった。剣を持ったのは、あの夏が初めてだった者も多い。……田を放っておけぬのだ。何も実らぬと分かっていても」


広間の隅で、一人の骸骨兵が、そっと顔を伏せた。谷で一樹たちを出迎えた、色褪せた布の飾りを兜につけた骸骨だった。


「それと、村のおじいさんが言ってました。夜になると、骸骨の兵が谷の縁に並んで、南を見てるって」


「見張りだ」


ローデリクの声が、低くなった。


「あの軍勢は退いた。だが、南の果ての気配は、何百年経った今も消えてはおらぬ。いつかまた、何かが来るやもしれぬ。……だから、我らは谷の縁に立ち続けている」


セレナが、静かに顔を上げた。


「民を逃がして、谷に残って……何百年も、守り続けてきたんですね」


「騎士殿には、分かるか」


「分かります。私も、騎士ですから」


セレナの声は、少しだけ震えていた。ローデリクは、そんなセレナをしばらく見つめ、やがて小さく頭を下げた。


「……ありがたい言葉だ」


広間に、再び静けさが戻った。

一樹は、卓の上の杯を見つめていた。埃を払った、古い杯。何百年も前の宴で使われ、そして約束の祝杯を待ち続けてきた杯。

しばらくして、一樹はゆっくりと顔を上げた。


「ローデリクさん」


「何だ」


「その白いお酒って、どんなお酒だったんですか」


ローデリクの眼窩の灯りが、かすかに揺れた。


「……味も香りも、もう覚えておらぬと言ったはずだが」


「それでも、覚えてることがあれば。色とか、どんな時に飲んでたかとか。何でもいいんです」


一樹は、まっすぐにローデリクを見た。


「聞いてみたいんです。皆さんが祝杯をあげるはずだった、そのお酒のこと」


ローデリクは、長い間何も言わなかった。骸骨兵たちも、じっと王を見つめている。

やがて、乾いた声が、ゆっくりと広間に響いた。


「……覚えている限り、話そう」


次回に続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。