第57話 死者の谷へ
宿場を発ってから、半月が過ぎた。
南へ下るにつれて、景色は少しずつ変わっていった。竜の台地の冷たく乾いた風は消え、空気は湿り気を帯びて重くなる。街道沿いの木々は低く、葉の色もどこか沈んでいた。空はいつも薄く曇り、晴れた日でも陽の光は白くぼやけている。
谷の手前にある最後の村に着いたのは、昼過ぎのことだった。
小さな村だった。家々の戸は昼間だというのにほとんどが閉ざされ、通りを歩く人もまばらだ。一樹たちに気づいた村人は、慌てたように家の中へ引っ込んでいく。
「……歓迎されてないわね」
「というより、怖がってる感じですね」
村の中央にある井戸のそばで、白髪の老人が一人、桶に水を汲んでいた。一樹が声をかけると、老人は手を止め、二人をじろりと見た。
「旅の人かい。この先には何もないよ。引き返しな」
「死者の谷へ行きたいんです」
老人の手から、桶の縄が滑り落ちそうになった。
「……正気かい」
「王都から、谷の様子を見てきてほしいと頼まれまして」
セレナが近衛騎士の紋章を見せると、老人は少しだけ表情を和らげた。それでも、その目から不安の色は消えない。
「骸骨の兵が出るって話は、聞いてるんだろう」
「はい。でも、襲われた人はいないって」
「……ああ。いないよ」
老人は桶を井戸の縁に置き、谷の方角を見つめた。村の向こうに、低い山に挟まれた谷の入口が見える。その奥は、白い霧に沈んでいた。
「この村の者は、子どもの頃から言い聞かされて育つ。夜は谷へ近づくな、とね。だから若い者は皆、骸骨を化け物だと思ってる。最近は姿を見たって者も増えて、余計に怯えてるのさ」
「おじいさんは、見たことがあるんですか?」
「何度もね」
老人は、静かに言った。
「夜になると、谷の縁に骸骨が何人も並んで立つ。じっと動かずに、朝までずっとだ」
「何をしてるんでしょう」
「さあね。ただ……」
老人は、少しだけ言いよどんだ。
「あいつらは、こっちを見てるんじゃない。いつも、谷の向こう……南の方を見てるんだよ。わしには、それが見張りをしているように見えた」
一樹は、霧に沈んだ谷の奥を見つめた。
化け物が村を狙っているのではなく、何かを見張っている。老人の言葉は、ほかの誰の話よりも、一樹の胸に引っかかった。
「ありがとうございます」
「行くなら、明るいうちに行きな。……それと、無事に帰っておいでよ」
老人はそう言うと、桶を抱えて家の中へ戻っていった。
谷へ足を踏み入れると、すぐに霧が二人を包み込んだ。
湿った、冷たい霧だった。竜の台地の霧とは違う。台地の霧は風に流れていたが、ここの霧は動かない。まるで谷そのものが、白い息を止めて眠っているようだった。
足元の道は、古い石畳だった。苔に覆われ、ところどころ割れているが、かつてはしっかりと整えられた道だったことが分かる。
しばらく進むと、霧の切れ間から、谷の斜面が見えてきた。
一樹は思わず足を止めた。
「……田んぼだ」
斜面に、段々に区切られた平地がどこまでも続いていた。一枚一枚の縁は石で囲まれ、その間を細い水路が走っている。前の世界で見た、山あいの棚田とよく似ていた。
けれど、そこには何も実っていなかった。土は乾いてひび割れ、水路にも水は流れていない。枯れた草が、ところどころでかさかさと揺れているだけだった。
「これが、白い穂が実ってた田……」
一樹は、一番近くの畦にしゃがみ込んだ。石の縁に手を触れる。冷たく、古い石だった。
そこで、一樹は小さな違和感に気づいた。
「セレナ。この石、崩れてないですね」
「え?」
「何百年も前に滅んだ国の田んぼなんですよね。なのに、畦の石がちゃんと積まれたままなんです」
セレナも畦を見下ろした。確かに、田の縁の石は一つも崩れていない。苔むした石畳の道とは違って、ついこの間誰かが積み直したかのように、きれいに並んでいる。
「誰かが、手入れしてるってこと?」
「……たぶん」
その時だった。
霧の向こうで、かしゃり、と乾いた音がした。
セレナが剣の柄に手をかけ、一樹の前に出る。音は一つではなかった。かしゃり、かしゃり。何かが石を踏む音が、霧の中から少しずつ近づいてくる。
やがて、霧の中から、いくつもの影が姿を現した。
骸骨だった。
錆びついた古い鎧をまとい、手には槍や剣を持っている。兜の下から覗く顔には肉も皮もなく、空っぽの眼窩だけが、霧の中で二人のほうを向いていた。数は十人ほど。誰も声を発さない。ただ、骨と鎧の擦れる音だけが、静かに響いていた。
セレナの指が、剣の柄を握りしめる。一樹は、息をするのも忘れて、骸骨たちを見つめていた。
骸骨たちは、二人から少し離れた場所で足を止めた。槍の穂先を向けることもなく、剣を構えることもない。ただ、じっと立っている。
先頭にいた一人の骸骨が、ゆっくりと一歩前へ出た。ほかの者より少しだけ立派な鎧を着ている。兜には、色褪せた布の飾りがついていた。
その骸骨は、一樹とセレナを交互に見たあと、ゆっくりと身体を傾けた。
頭を下げたのだった。
「……え」
一樹は、思わず声を漏らした。
骸骨は顔を上げると、骨だけの手で、谷の奥を指し示した。それから背を向け、ゆっくりと歩き出す。ほかの骸骨たちも、それに続いた。数歩進んだところで、先頭の骸骨が立ち止まり、振り返る。
ついて来い、と言っているようだった。
「……セレナ」
「分かってる」
セレナは剣の柄から、ゆっくりと手を離した。
「襲うつもりなら、とっくに襲ってるわね。少なくとも、礼儀は私たちより正しいみたい」
一樹は小さく笑い、骸骨たちの後を追って歩き出した。
谷の奥へ進むにつれ、霧はさらに深くなった。骸骨たちは、迷うことなく霧の中を進んでいく。途中、一人の骸骨が列を離れ、田の畦で崩れかけていた石を拾い上げると、元の場所へ丁寧に積み直した。それから、何事もなかったかのように列へ戻っていく。
一樹は、その骨だけの背中を、黙って見つめていた。
日が傾き始めた頃、霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がった。
城だった。
いくつもの塔が空へ伸びているが、そのほとんどは途中で崩れている。城壁にはつたが絡みつき、門の上に掲げられた旗は色褪せて、端からぼろぼろにほつれていた。それでも、城は谷の一番奥に、王のようにそびえていた。
骸骨たちは門をくぐり、静まり返った中庭を抜け、大きな扉の前で立ち止まった。先頭の骸骨が扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
扉の向こうは、広い広間だった。
壁に沿って、青白い灯りがいくつも揺れている。長い卓がいくつも並び、その上には、埃をかぶった杯や皿が、まるで宴の途中で時が止まったかのように置かれたままになっていた。
広間の一番奥には、高い玉座があった。
そこに、誰かが座っていた。
骨だけの身体に、深い紺色の外套をまとっている。頭には、くすんだ金の冠が載っていた。空っぽの眼窩の奥で、小さな灯りが二つ、静かに揺れている。
玉座の主は、ゆっくりと顔を上げた。
「客人とは」
広間に、低く、乾いた声が響いた。
「……何百年ぶりか」
次回に続く。




