第56話 王からの言葉
道標を過ぎて少し坂を下ると、見覚えのある石の塀が見えてきた。宿場だった。低い屋根の家々が、来た時と同じように身を寄せ合っている。
宿の扉を開けると、暖炉の前で鍋をかき混ぜていた女将が振り返り、目を丸くした。
「おや……あんたたち、生きて帰ってきたのかい!」
「ただいま戻りました」
一樹が頭を下げると、女将は鍋のことも忘れて駆け寄ってきた。
「上まで行ったんだね? 本当に、竜の台地まで」
「はい。グラウさんに案内してもらって」
「あの竜人が、最後まで面倒を見たのかい。……こりゃあ驚いた」
女将は二人を暖炉のそばの卓へ座らせると、すぐに温かい煮込みを運んできた。羊肉と根菜の、あの素朴な料理だった。
「それで、上の酒はどうだった。あの喉が焼けるやつ、飲めたのかい」
「飲めました。少しずつですけど」
一樹は、背負い袋に結んだ小さな翼にそっと触れた。
「でも、それだけじゃなかったんです。台地には、もう一つお酒があって。喉を噛まない、すごく柔らかいお酒でした」
「へえ。竜人が、そんな酒を?」
「二十年、眠っていたお酒なんです」
女将は不思議そうに首を傾げたが、一樹の顔を見て、それ以上は聞かなかった。何かいいことがあったのだと、表情で分かったのだろう。
「まあ、無事でよかったよ。……そうそう、それより」
女将は、思い出したように宿の奥を振り返った。
「あんたたちを待ってる騎士様がいるんだよ」
「騎士?」
セレナの表情が、わずかに引き締まった。
女将が奥へ声をかけると、二階から足早に階段を下りてくる音がした。現れたのは、まだ若い騎士だった。旅装の軽鎧は泥と埃にまみれ、マントの裾は擦り切れている。長い道のりを越えてきたことが一目で分かった。
騎士はセレナの姿を見るなり、その場で片膝をついた。
「セレナ様。お探しいたしました」
「顔を上げなさい。所属は」
セレナの声は、一樹が聞いたことのないほど硬かった。王都の近衛騎士としての声なのだろう。
「王直属近衛騎士団、第三隊所属であります。陛下より、セレナ様と酒井殿へのお言葉を預かってまいりました」
「よくここが分かったわね」
「エルフの森の近くの村々で、お二人の足取りを伺って回りました。竜の台地へ向かわれたと聞き、台地から下りる道はこの宿場を通る一本のみと知りましたので……ここでお待ちしておりました」
「何日?」
「八日になります」
セレナは小さく息を吐いた。その目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……ご苦労だったわね」
「はっ」
騎士は懐から封をした書状を取り出したが、それを差し出す前に、一樹へ向き直って頭を下げた。
「酒井殿。陛下は、こうおっしゃいました」
騎士は姿勢を正し、預かってきた言葉を、一言一言確かめるように口にした。
「『南の果て、死者の谷にて、骸骨の兵の姿を見たという者が増えている。谷の近くの村々は、夜ごと怯えて暮らしている』」
宿の中が、しんと静まった。女将も、鍋をかき混ぜる手を止めている。
「『王都には、すぐにでも監察騎士団を差し向け、谷を討つべしと申す者もいる。だが、余は剣を向ける前に、かの者に見てきてほしいと思う。酒井一樹。そなたの目で、死者の谷に何がいるのかを確かめてはくれぬか』」
騎士はそこで言葉を切り、深く頭を下げた。
「以上が、陛下のお言葉にございます」
一樹は、しばらく何も言わなかった。暖炉の火が、ぱちりと小さくはぜる。
「……死者の谷」
一樹が呟くと、女将がぽつりと口を開いた。
「知ってるよ、その名前。南の方の、ずっと昔に滅んだ国の跡だろう」
「ご存じなんですか?」
「名前だけさ。うちの婆さまが、そのまた婆さまから聞いたって話をしてくれたことがある」
女将は、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「谷にはね、昔、大きな国があったんだって。白い穂が実る田がどこまでも広がっていて、秋には、白い酒で大きな祭りをしたって」
一樹の背筋が、思わず伸びた。
「白い、お酒……」
「婆さまの話だよ。本当かどうかなんて分からないさ。でも、その酒がとびきり美味かったって、婆さまは何度も言ってた」
一樹は騎士へ向き直った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はっ。何なりと」
「その骸骨の兵に、襲われた人はいるんですか?」
騎士は、少し意外そうな顔をした。それから、正直に首を横に振る。
「……いえ。私が聞いた限りでは、一人もおりません。夜、谷の縁を歩いているのを見たという話ばかりで。近づいた者もいないので、何をしているのかも分かりません」
「誰も、襲われてない」
一樹は、その言葉を確かめるように繰り返した。
オークの村を初めて見た日のことを思い出す。人間とオークが武器を向け合っていた。けれど、オークたちは略奪に来たのではなかった。ただ、助けを求めに来ていただけだった。
知らないから、怖い。エルフの森でも、同じことを聞いた。
「セレナ」
一樹が呼ぶと、セレナはまっすぐに一樹を見返した。
「行きましょう。死者の谷へ」
「陛下のご命令よ。もちろん行くわ」
セレナはそう答えてから、少しだけ呆れたように口元を緩めた。
「……で、本当の理由は?」
「え?」
「白いお酒、でしょう」
一樹は思わず頭を掻いた。
「それも、あります」
「やっぱりね」
女将が、腹を抱えて笑った。若い騎士だけが、きょとんとした顔で二人を見比べている。
「あの……酒井殿は、いつもこうなのですか?」
「いつもこうよ」
セレナが即答すると、女将の笑い声がさらに大きくなった。
その夜、若い騎士は宿の一室で、久しぶりに深く眠ったようだった。翌朝、王都へ報告に戻るという騎士を見送ってから、一樹とセレナは宿場を発った。
「死者の谷までは、どのくらいかかるんですか」
「ここから南へ街道を下って、半月くらいかしら。谷の手前に、最後の村があるはずよ」
「半月……」
一樹は背負い袋を背負い直した。中では、炎の木杯と、二つの瓶が小さく音を立てる。料理長から託された白葡萄酒と、グラウから預かったハルドの酒。大切な相手と飲め、と言われた酒が、二つ。
「長い旅になりそうですね」
「今さらでしょう」
セレナが笑う。一樹も笑った。
振り返ると、雲に覆われた竜の台地が、朝の光の中に静かにそびえていた。
二人はその姿に背を向け、南へ続く街道を歩き始めた。
次回に続く。




