第55話 雲海を発つ日
宴から三日後の朝、一樹とセレナは台地を発つことになった。
グラウの家で最後の朝食を取る。いつもの岩麦の粥だった。一樹は一口ずつ、ゆっくりと味わった。
「この粥、しばらく食べられなくなるんですね」
「持っていきなさい」
ミラが、布に包んだ岩麦の焼き菓子を差し出した。
「道中、お腹が空いたら食べて。ティオが手伝って焼いたのよ」
「ぼくが焼いたの! ちょっと焦げてるけど」
ティオが胸を張る。一樹は笑って包みを受け取った。
「焦げてるくらいがいいんだよ。ハルドさんの焼き方だ」
ティオは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
家を出ると、台地の上には、ほのかに香ばしい匂いが漂っていた。焼いた岩麦の匂いだ。風に乗って、集落の外れから流れてくる。
一樹は思わず足を止め、匂いのする方角を見た。ドルクの酒蔵の煙突から、細い煙が真っすぐに立ち上っている。
「……長く焼いてるわね」
セレナが小さく笑った。
「宴が終わってから、毎日あの匂いがしてたもの」
「ドルクさん、本当に始めたんですね」
一樹は、酒蔵の方へ頭を下げた。見送りには来ないだろうと、なんとなく分かっていた。けれど、この匂いがドルクなりの見送りなのだと思えた。
台地の縁には、ヴェルダが待っていた。杖をつき、雲海を背にして立っている。
「もう行くのかい」
「はい。お世話になりました」
「世話をしたのは、お前さんの方だよ」
ヴェルダは、皺の刻まれた目元を細めた。
「台地には、また一つ酒が増えた。それに、杯を合わせる相手もね」
「俺も、竜人族の皆さんと飲めてよかったです」
「人間を翼の下に入れたのは、私の知る限り初めてだ。……お前さんの話は、この先ずっと語られるだろうね」
「お酒の話ばかりしてた人間として、ですか」
「そうさ。酒の話ばかりして、竜の台地まで登ってきた変わり者としてね」
ヴェルダは声を上げて笑った。そして、セレナへ顔を向ける。
「騎士殿。この変わり者から、目を離すんじゃないよ」
「心得ています」
セレナが胸に手を当てて答えると、ヴェルダは満足そうに頷いた。
ティオが一樹の前に立った。両手に、何かを大事そうに握っている。
「おじさん、これ」
差し出されたのは、小さな木彫りだった。親指ほどの大きさで、拙い線で翼の形が彫られている。紐が通してあり、首から下げられるようになっていた。
「風穴の壺と、同じ翼なの」
「……ティオが彫ってくれたの?」
「うん。おじさんが、ちゃんと帰ってこられるように」
一樹は、その小さな翼を両手で受け取った。ドワーフの若者たちが彫ってくれた炎の木杯。そして、竜人の子どもが彫ってくれた小さな翼。どちらも、旅の途中で贈られた大切なものだった。
一樹は紐を、背負い袋の口に結びつけた。炎の木杯を入れている袋だ。
「ありがとう。大事にするよ」
「二十年後、ぼくのお酒、一緒に飲もうね」
「約束だ」
一樹がティオの頭を撫でると、ティオはくすぐったそうに笑った。
最後に、グラウが前へ出た。背には、宿場へ下ろす岩塩の袋を背負っている。来た時と同じように、雲の下まで案内してくれるのだ。
グラウは懐から、小さな壺を一つ取り出した。
「持っていけ」
「これは……」
「父の酒だ。少しだけだが」
一樹は、思わずグラウを見上げた。
「いいんですか? ハルドさんの、大事なお酒を」
「父は、樽を一人で飲むために置いたのではない。誰かと飲むために置いた」
グラウは、壺を一樹の手に握らせた。
「お前が、翼の下に入れたいと思う相手と飲め」
一樹は、壺を両手で包み込んだ。王都を発つ時、料理長から託された白葡萄酒の瓶も、背負い袋の奥にまだ眠っている。大切な相手と飲め、と言われた酒が、また一つ増えた。
「……はい。必ず」
一樹は、深く頭を下げた。
雲海の縁で、グラウは振り返った。ヴェルダが杖を掲げ、ミラがティオの肩を抱いている。集落の方々から、竜人たちが手を振っていた。
一樹も大きく手を振り返した。
「また来ます!」
「二十年後だぞ!」
ティオの声が、風に乗って届く。
「その前にも来るよ!」
一樹が叫び返すと、台地のあちこちから笑い声が上がった。
三人は、雲の中へ続く道を下り始めた。
登りであれほど苦労した道も、下りは少しだけ楽に感じた。それでも何度か足を滑らせかけ、そのたびにセレナに腕をつかまれた。グラウは相変わらず先を歩き、時々立ち止まっては、黙って二人を待っていた。
霧の中を抜け、やがて足元に、見覚えのある道標が見えてきた。『これより先、竜の台地』。かすれた文字が、来た時と同じように二人を迎えた。
「ここまでだ」
グラウが立ち止まる。一樹とセレナも、その前に並んだ。
「グラウさん。本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのは、俺の方だ」
グラウは、一樹の背負い袋に結ばれた小さな翼に目を留めた。それから、ほんのわずかに口元を緩める。
「一樹。二十年後、また飲みに来い。父の酒と、ティオの酒と、ドルクの酒を並べて待っている」
「その前にも来ますよ」
一樹は笑った。
「二十年も待ってたら、俺、すっかりおじいさんになっちゃいますから」
「人間は、早く年を取るのだったな」
「そうなんです。だから、何度も来ます」
グラウは小さく笑い、腰の水袋を外した。中身は、竜霞酒だった。三人の杯にほんの少しずつ注ぐ。一樹は、炎の木杯を差し出した。
グラウが、杯を掲げた。
「翼の下に」
「翼の下に」
一樹とセレナの声が重なる。杯が軽く触れ合い、三人は同時に口をつけた。
喉を噛まない、柔らかな熱。岩麦の甘み。長く残る余韻。台地で過ごした日々が、その一口の中に詰まっているようだった。
グラウは杯を収めると、一度だけ深く頷き、背を向けた。大きな背中が、霧の中へゆっくりと消えていく。
一樹は、その姿が見えなくなるまで見送っていた。
「強いって、何なんでしょうね」
ぽつりと、一樹が呟いた。セレナが隣で首を傾げる。
「どうしたの、急に」
「いや。喉を噛むくらい強いお酒も、二十年眠って柔らかくなったお酒も、どっちも強いお酒だったなって」
一樹は、背負い袋の小さな翼に触れた。
「嵐の中へ出ていくのも、火を絶やさずに待つのも。どっちも、誰かを守るためだったんですよね」
セレナは少し驚いたように一樹を見て、それから穏やかに微笑んだ。
「あなたにしては、珍しく難しいこと言うのね」
「……お酒が回ってるのかもしれません」
「一口しか飲んでないでしょう」
二人は顔を見合わせて笑った。
背後の雲の向こうから、かすかに、焼いた岩麦の香りが流れてきた気がした。
次回に続く。
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酒図鑑 No.5 竜牙酒/竜霞酒
【竜牙酒】
竜人族が造る蒸留酒。原料は、竜の台地の痩せた土でも育つ岩麦。発酵させたもろみを釜で温め、立ち上った酒の気を台地の冷たい風で冷やして滴にする。これを三度繰り返すことで、喉を噛むほど鋭く、強い酒となる。
竜人族にとって酒の強さは戦士の強さであり、強い酒を造り、強い酒を飲み干すことが一人前の証とされてきた。取れたての、最も強い一杯こそが最上とされる。その強さの奥には、ほんのわずかに岩麦の甘みが眠っている。
【竜霞酒】
台地一の戦士であり酒造りでもあったハルドが、岩麦を焦がす手前まで長く焼いて造った竜牙酒を、風穴に二十年以上寝かせた酒。冷たく乾いた風の中で長い時を過ごすうちに、透明だった酒は淡い金色に色づき、喉を噛む鋭さは、身体の奥で静かに燃える柔らかな熱へと変わった。
蓋を開ければ、焼いた岩麦の香ばしさと蜂蜜にも似た甘い香りが、雲海にかかる霞のように立ちのぼる。その香りから、グラウが「竜霞酒」と名付けた。
長く「弱った酒」として恥とされてきたが、冬支度の宴で、竜牙酒と並ぶ台地の酒として迎えられた。今、風穴には、ドルクがハルドの焼き方で仕込んだ一樽と、ティオが置いた小さな壺が眠っている。
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異世界乾杯図鑑 No.5 竜人族
「翼の下に。」
竜人族が杯を交わす時の言葉。今の竜人族に翼はないが、遠い祖先の竜は大きな翼を持ち、守るべきものをその翼の下に抱えて嵐から守ったと伝えられている。
「翼の下に。」には、自分の翼の下にいる家族や仲間を、守り抜くという誓いが込められている。竜人族にとって強さとは、誇示するためのものではなく、誰かを守るためのものなのだ。
竜人族は、認めた者としか杯を合わせない。この言葉で杯を交わすことは、相手を自分の翼の下に迎え入れることを意味する。
冬支度の宴の夜、竜人族は初めて、人間とこの言葉で杯を交わした。




