第54話 冬支度の宴
嵐が去ってから二日後の夕暮れ、冬支度の宴が開かれた。
集落の中央にある広場には、風よけの石垣がぐるりと巡らされ、その内側に長い卓がいくつも並べられた。嵐で飛ばされた屋根の布は新しく結び直され、夕日の中で一斉にはためいている。卓の上には、干し肉を炙ったもの、岩麦の焼き菓子、山羊の乳で煮込んだ粥。台地の冬を越すための、ささやかで温かな料理が並んでいた。
台地中の竜人が集まっていた。子どもも、老人も、嵐の夜に石を運んだ若者たちも。一樹とセレナは、グラウの家族と同じ卓に座らせてもらっていた。ティオはすっかり元気になり、セレナの隣にぴったりとくっついている。
広場の一番奥、ヴェルダの席の脇には、二つの酒が並べられていた。
一つは、ドルクの蔵で取れたばかりの竜牙酒。大きな甕に満たされた透明な酒からは、離れていても鼻を刺すような鋭い香りが漂ってくる。
もう一つは、ハルドの樽。翼を広げた竜の焼き印が、夕日に照らされていた。
ヴェルダが杖をついて立ち上がると、広場のざわめきが自然と静まった。
「よく集まったね。今年は嵐が早かった。だが、誰一人欠けずに越えられた」
ヴェルダは、グラウの卓へ目を向けた。
「ティオを連れ帰ったのは、グラウとドルクだ。二人とも、よくやった」
広場のあちこちから、低い声で称える声が上がった。ドルクは居心地悪そうに腕を組み、グラウは小さく頭を下げる。
「さて。今年の宴には、もう一つ酒がある」
ヴェルダは、ハルドの樽に手を置いた。
「ハルドが二十年以上前に風穴へ置いた竜牙酒だ。グラウが、皆に飲ませたいと言った」
広場が、さっきとは違う静けさに包まれた。竜人たちが、互いに顔を見合わせる。
「風穴の酒……」
「弱った酒じゃないか」
「ハルドの酒を、宴に出すのか」
囁く声が、あちこちから聞こえてくる。誰も声を荒らげはしない。けれど、その戸惑いははっきりと伝わってきた。
グラウが立ち上がった。何かを言おうとして、口を開きかける。
その時、別の卓から、ドルクが立ち上がった。
ドルクは何も言わずに、ハルドの樽の前まで歩いていった。柄杓を取り、自分の杯に淡い金色の酒を注ぐ。広場中の視線が、その手元に集まった。
ドルクは杯を掲げることもなく、そのまま口をつけた。ゆっくりと、味わうように飲む。そして、杯を下ろした。
「台地の酒だ」
短い一言だった。けれど、その声は広場の隅々まで届いた。
「ハルドさんの焼き方の酒だ。喉は噛まない。だが、腹の底が熱い。……俺は、これを恥だとは思わない」
ドルクはそれだけ言うと、柄杓をグラウへ差し出した。
グラウは、しばらくその柄杓を見つめていた。それから、両手で受け取った。
「……ありがとう、ドルク」
「礼を言われる筋合いはない」
ドルクはそっぽを向き、自分の卓へ戻っていった。
最初に樽の前へ来たのは、白髪の老いた竜人だった。震える手で杯を差し出し、グラウに注いでもらう。一口飲んで、その目が大きく見開かれた。
「……ハルドの匂いだ」
老いた竜人は、ぽつりと呟いた。
「あいつは、岩麦をいつも焦がす手前まで焼いていた。蔵の前を通るたびに、この匂いがしたもんだ」
その言葉をきっかけに、一人、また一人と、竜人たちが樽の前へ並び始めた。年配の者たちは、懐かしそうに目を細めた。若い者たちは、一口飲んで驚いたように顔を見合わせた。
「喉を噛まないのに、熱い……」
「甘い。これが岩麦の味なのか」
「竜牙酒と、全然違う」
竜霞酒を飲んだ者たちは、今度はドルクの竜牙酒の甕の前にも並んだ。取れたての竜牙酒を飲み、喉を噛まれて顔をしかめ、それでも嬉しそうに笑う。
「やっぱり、こっちは強いな!」
「冬が来た、って感じがする」
ヴェルダはその光景を眺め、満足そうに頷いた。
「どっちも台地の酒だ。好きな方を、好きなだけ飲めばいい」
一樹も、ドルクの竜牙酒を少しだけもらった。相変わらず、喉を噛みつかれるような鋭さだった。けれど、岩麦の焼き菓子をかじってから飲むと、その鋭さの中に、ほんのわずかに麦の香りが立ってくる。
「……うまい」
一樹が呟くと、隣の卓からドルクがじろりと見た。
「本当か」
「本当です。焼き菓子と一緒だと、すごく合います」
ドルクは何か言い返そうとして、結局、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。けれど、その耳の先がわずかに赤くなっているのを、一樹は見逃さなかった。
宴が賑わいを増した頃、グラウが二つの杯を手に、一樹とセレナの前に立った。杯には、竜霞酒が注がれていた。
「一樹。セレナ」
二人が顔を上げる。グラウは、杯を一つずつ二人の前に置いた。
「竜人は、認めた者としか杯を合わせない。宿で、そう言ったな」
「はい」
「お前たちは、俺の父の酒を、もう一度信じさせてくれた。嵐の夜には、集落を守り、火を絶やさずにいてくれた」
グラウは、自分の杯を持ち上げた。
「お前たちを、翼の下に迎えたい」
一樹は、すぐには言葉が出なかった。隣のセレナも、驚いたように目を瞬かせている。
いつの間にか、広場の竜人たちがこちらを見ていた。ミラが微笑み、ティオが嬉しそうに身を乗り出している。ヴェルダも、ドルクも、杯を手にしていた。
一樹は、炎の木杯ではなく、グラウが置いてくれた竜人の杯を手に取った。セレナも同じように杯を持ち上げる。
グラウが、杯を高く掲げた。
「翼の下に」
広場中の竜人が、一斉に杯を掲げた。
「翼の下に!」
一樹も、セレナも、声を合わせた。
「翼の下に」
杯と杯が触れ合う音が、広場のあちこちで重なった。
その瞬間、空気が静かに変わるのを、一樹は感じた。オークの村で、ドワーフの酒場で、エルフの森で感じたのと同じ感覚。乾杯の盟約が、台地の上に結ばれていく。
竜人たちも、それに気づいたのだろう。何人かが、驚いたように自分の杯を見つめていた。人間と杯を合わせて盟約が結ばれるなど、この台地では誰も経験したことがなかったのだ。
最初に口を開いたのは、ドルクだった。杯を持ったまま、一樹の卓へ歩いてくる。
「一樹」
「はい」
「……最初は、お前を追い返したかった」
盟約の下では、嘘はつけない。ドルクは、それを分かったうえで言葉を続けた。
「飲み比べを断られた時、腹が立った。弱い者の言い訳だと思った」
「はい」
「だが、本当は」
ドルクは、一度だけ言葉を切った。
「羨ましかった。強いかどうかに縛られずに、酒が好きだと言えるお前が」
一樹は少し驚いて、ドルクの顔を見た。ドルクは目を逸らしていたが、その横顔は、どこか晴れやかだった。
「お前のおかげで、ハルドさんの焼き方を思い出した。……それだけは、礼を言う」
「俺は、お酒の話をしただけですよ」
「分かっている。だから腹が立つんだ」
ドルクはそう言って、少しだけ笑った。
グラウの隣で、ティオがセレナの袖を引いた。
「ねえ、セレナ。セレナは、どうして人間のおじさんと旅してるの?」
セレナは少し考え、正直に答えた。
「最初は、王様の命令だったの。でも今は……」
セレナは、ちらりと一樹を見た。
「この人がどこへ行って、誰とどんなお酒を飲むのか、見届けたいと思ってるわ。目を離すと、何をするか分からないもの」
ティオがけらけらと笑った。一樹は苦笑する。
「それ、褒めてます?」
「さあ、どうかしらね」
ティオは今度は、一樹のほうを向いた。
「おじさんは? おじさんは、何がしたいの?」
一樹は、杯の中の淡い金色を見つめた。盟約の下では、飾った答えは出てこない。出てきたのは、いつもと同じ、一番素直な言葉だった。
「いろんな場所で、いろんな人と、美味しいお酒を飲みたい。それだけだよ」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
ティオは不思議そうに首を傾げたが、やがて、にっと笑った。
「じゃあ、ぼくのお酒ができたら、おじさんも一緒に飲んでいいよ」
「本当に?」
「うん。父さんと、ぼくと、おじさんで」
グラウが、小さく笑った。
「二十年後だぞ」
「待ちます」
一樹は笑って、杯の竜霞酒を口に運んだ。
喉を噛まない、柔らかな熱が、胸の奥にじんわりと灯る。岩麦の甘みが、長く長く舌の上に残る。
「……うまい」
結局、出てきたのはその一言だった。
グラウもドルクも、ヴェルダも、声を上げて笑った。
夜が更けても、宴は続いた。石垣の上には、手が届きそうなほど近くに星が瞬いている。雲海は月の光を受けて、白く静かに眠っていた。
台地の上には、いつまでも杯の触れ合う音と、笑い声が響いていた。
次回に続く。




