第53話 翼の下で
グラウは、声のした方へ迷わず飛び込んだ。
洞窟の中は、外の嵐が嘘のように静かだった。けれど、奥から吹いてくる風は凍えるほど冷たい。松明の火が大きく揺れ、岩壁に二つの大きな影を映し出す。
「ティオ!」
「父さん……!」
声は、あの窪みのほうから聞こえてきた。かつてハルドの樽が置かれていた場所だ。
グラウが松明をかざすと、窪みの一番奥、岩の陰に小さな影がうずくまっていた。ティオだった。膝を抱え、身体を丸め、外套の代わりに薄い毛皮を一枚だけ巻きつけている。顔は真っ青で、唇は紫色に変わっていた。
「ティオ」
グラウはティオの前に膝をついた。ティオは顔を上げ、父親の姿を見た瞬間、くしゃりと顔を歪めた。
「父さん……ごめんなさい……」
その言葉が終わるより先に、グラウはティオを抱き寄せていた。自分の毛皮の外套を大きく広げ、小さな身体をすっぽりと包み込む。ティオはグラウの胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
「怖かった……外、真っ白で……帰れなくて……」
「ああ」
「でも、嵐の時は動いちゃだめって……父さん、言ってたから……」
「……ああ。よく覚えていたな」
グラウの声は、かすかに震えていた。大きな手が、ティオの背を何度も撫でる。
ドルクは入口のほうで、黙ってその光景を見ていた。それから、肩の綱を下ろし、自分の外套も脱いでグラウへ差し出す。
「重ねろ。お前の外套だけでは足りん」
「お前が凍える」
「竜人の大人が、この程度で凍えるか」
ドルクはぶっきらぼうに言い、外套をティオの上からかぶせた。グラウは何も言わず、小さく頷いた。
「外は、しばらく収まらん。嵐が過ぎるまで、ここで待つしかない」
ドルクが洞窟の入口を振り返る。外は真っ白で、風の唸りが絶え間なく響いていた。ここから集落へ戻ろうとすれば、三人とも道を失うだろう。
グラウはティオを抱いたまま、岩壁に背を預けて座った。ドルクもその隣に腰を下ろす。風の通り道から少し外れた窪みの奥は、それでもまだ冷たかったが、二人の大きな身体に挟まれたティオは、少しずつ震えが収まっていった。
しばらくして、泣き疲れたティオが、外套の隙間から小さな顔を出した。
「……父さん。あのね」
「何だ」
「あれ、見て」
ティオが指差した先、窪みの岩棚に、小さな壺が一つ置かれていた。家の棚から消えていた、あの手のひらほどの壺だ。
グラウが松明をかざすと、壺の表面に、拙い線で何かが彫られているのが見えた。大きな翼が一つ。その下に、小さな翼が一つ。線は曲がり、形も歪んでいる。それでも、それが何なのかは、すぐに分かった。
「……お前が、彫ったのか」
「うん。じいちゃんの樽の蓋の、真似したの」
ティオは、少しだけ得意そうに言った。
「中には、父さんの竜牙酒が入ってるの。ちょっとだけだけど」
「なぜ、こんなことを」
「人間のおじさんがね、風穴に置いたお酒は美味しくなるって言ってた。じいちゃんのお酒みたいに」
ティオはグラウの胸に頭をもたせかけた。
「だから、ぼくも置いておくの。ぼくが一人前になったら、父さんと一緒に飲むんだ」
グラウは、何も言えなかった。
ただ、ティオを包む外套の上から、大きな腕でもう一度、強く抱きしめた。
隣で、ドルクがゆっくりと息を吐いた。白い息が、松明の光の中で揺れる。
「……ハルドさんも、同じことを考えたんだろうな」
ドルクは、岩棚の小さな壺を見つめていた。
「グラウが一人前になったら、一緒に飲む。そのために、この風穴に樽を置いた。嵐の中へ出ていったのも、台地の誰かを、翼の下に入れて連れて帰るためだった」
「……ああ」
「俺は、ずっと思っていた。ハルドさんが戻らなかったのは、強さが足りなかったからだと。だから、もっと強い酒を造って、もっと強い者を育てなければならないと」
ドルクは、自分の大きな手を見つめた。
「だが、違ったのかもしれん」
風の音が、洞窟の奥から響いてくる。
「ハルドさんは強かった。強かったから、嵐の中へ出ていった。そして、強さが何のためにあるのかを、分かっていた。……喉を噛む強さだけが、強さじゃない」
ドルクの声は、ひどく静かだった。
「嵐が過ぎるのを、この子を抱いて、じっと待つ。それも強さだ。二十年、風穴で黙って眠り続けた酒も……きっと、強い酒なんだ」
グラウはドルクを見た。ドルクは、もう目を逸らさなかった。
「ドルク」
「何だ」
「お前の竜牙酒は、台地で一番強い。それは、誰にも否定させない」
ドルクは、少しだけ驚いたようにグラウを見返した。
「父の酒も、お前の酒も。どちらも台地の酒だ」
ドルクは何かを言いかけて、口を閉じた。それから、ふっと笑った。
「……あの人間と同じことを言うんだな」
「一樹か」
「上とか下とかはない、と言っていた」
ドルクは岩壁に頭を預け、天井を見上げた。
「宴が終わったら、岩麦を長く焼いてみる。ハルドさんの焼き方で、一樽だけ。それを、ここに置く」
「……そうか」
「二十年後に、どんな酒になっているか。俺は、それを確かめてみたい」
グラウの腕の中で、ティオがいつの間にか小さな寝息を立てていた。二人の大きな竜人は、それきり何も言わなかった。
ただ、眠る子どもを挟んで、嵐が過ぎるのを、じっと待ち続けた。
嵐が去ったのは、翌朝のことだった。
グラウの家の暖炉の前で、一樹は一晩中、火を絶やさなかった。セレナが何度か交代を申し出たが、一樹はそのたびに首を横に振った。ミラは暖炉のそばで膝を抱えたまま、一度も眠らなかった。
窓の外が白み始め、あれほど荒れ狂っていた風の音が、少しずつ遠のいていく。
やがて、戸口の外で、雪を踏む足音がした。
ミラが弾かれたように立ち上がる。戸が開くと、冷たい朝の空気と一緒に、二つの大きな影が入ってきた。グラウの腕には、外套に包まれたティオが抱かれていた。
「ティオ……!」
ミラが駆け寄る。目を覚ましたティオは、母親の顔を見て、また泣き出した。ミラはティオを抱きしめ、その頭に何度も頬を寄せた。
一樹はその場に立ち尽くしたまま、大きく息を吐いた。全身から力が抜けていく。
「……よかった」
隣で、セレナが目元をそっと拭った。
ティオは母親の腕の中から顔を出し、一樹を見つけると、泣き腫らした目のまま笑った。
「人間のおじさん。風穴に、置いてきたよ」
「……そっか」
一樹は、どう答えればいいのか分からなかった。ただ、笑い返した。
「美味しくなるといいね」
「うん!」
グラウが、一樹の前に立った。嵐の中を越えてきた外套は、まだ雪で白く濡れている。
「火を、絶やさずにいてくれたのか」
「それくらいしか、できなかったので」
グラウは首を横に振った。
「待つのも役目だと言った。お前は、それを果たした」
グラウはそれだけ言うと、暖炉の前に腰を下ろし、凍えた手を火にかざした。その後ろで、ドルクも黙って膝をつく。
一樹は温め直した粥を、二つの椀によそって差し出した。二人の竜人は、無言でそれを受け取った。
戸口の外では、嵐が去った台地を、朝の光が白く照らしていた。
空はどこまでも澄み渡り、雲海が、何事もなかったように静かに広がっていた。
次回に続く。




