第52話 嵐の中へ
ミラの声に、グラウの顔から表情が消えた。
「いつからだ」
「朝起きたら、寝床にいなかったの。外で遊んでるんだと思って……でも、どこにもいないのよ」
ミラの声は震えていた。グラウはすぐに集落のほうへ走り出し、一樹とセレナもその後を追った。
集落では、すでに何人もの竜人がティオの名前を呼びながら家々を回っていた。石囲いの中、干し場の陰、酒蔵の裏。どこを探しても、小さな影は見つからない。
その間にも、西の空の黒い壁は少しずつ近づいていた。止んでいた風が、今度は反対の方角から、ひゅう、と低く鳴り始める。空気がひどく冷たい。
「どこへ行ったんだ……」
グラウは家の中に戻り、ティオの寝床を見回した。毛皮は乱れたまま。その脇に置かれた小さな箱の蓋が、開いている。
「……小刀がない」
グラウが呟いた。
「ティオが大事にしていた、木を削る小刀だ」
一樹は、家の中を見回した。何かが足りない気がした。棚の上。いつも竜牙酒の壺が並んでいる場所。大きな壺の隣に置かれていた、手のひらほどの小さな壺が、一つなくなっている。
「グラウさん。棚の小さな壺が、ないです」
グラウが振り返った。その瞬間、一樹の頭に、昨日の夕方のことがよみがえった。
干し肉を吊るしていた時、ティオがそばに来て、こう聞いたのだ。
『ねえ、風穴にお酒を置くと、美味しくなるの?』
一樹は、何気なく答えていた。
『うん。長く置いておくと、きっと美味しくなるよ』
ティオは、何かを考えるような顔で、うん、と頷いていた。
「……風穴です」
一樹の声がかすれた。
「昨日、ティオに聞かれたんです。風穴にお酒を置いたら美味しくなるのかって。俺……美味しくなるって答えました」
セレナが息を呑む。
「それで、小さな壺と小刀を持って……」
「おじいちゃんみたいに、したかったのかもしれません」
一樹は拳を握った。
「樽の蓋の裏の、翼の彫り物。ティオも、それを真似しようとしたんじゃないかと思います」
グラウは何も言わなかった。ただ、壁に掛けていた太い綱と毛皮の外套を、黙って手に取った。
「グラウさん、俺のせいで――」
「違う」
グラウは、一樹の言葉を遮った。その声には、怒りの色はなかった。
「お前は、聞かれたことに答えただけだ。ティオが行くと決めた。そして、行かせてしまったのは父親の俺だ」
外套を羽織り、綱を肩にかける。
「風穴までの道は、嵐になれば何も見えなくなる。急ぐ」
「俺も行きます」
一樹が言うと、グラウは首を横に振った。
「お前の脚では無理だ」
「でも……」
「一昨日、晴れた道でも膝をついた。嵐の中では、お前まで探さなければならなくなる」
それは、責める言葉ではなかった。ただの事実だった。一樹は唇を噛んだ。
「私が行くわ」
セレナが前へ出た。
「騎士として、山での救助の訓練は受けてる。足手まといにはならない」
グラウはセレナを見た。そして、少しだけ考えてから、やはり首を横に振った。
「台地の嵐は、人間が知っている嵐とは違う。風に飛ばされれば、雲海の下まで落ちる」
「でも――」
「ここに残ってくれ。ミラと、集落を頼む」
グラウは戸口へ向かった。その時、外から足音が近づいてきた。
戸口に立っていたのは、ドルクだった。グラウと同じように毛皮の外套を着込み、肩には太い綱を巻いている。
「風穴か」
「……なぜ分かった」
「長から聞いた。人間の話を、ミラが伝えに行った」
ドルクはグラウの肩の綱を一瞥した。
「一人で行くつもりだったのか」
「俺の息子だ」
「台地の子だ」
ドルクは短く言い切った。
「嵐の中で迷った者を探しに行く。それは、強い者の役目だ。……ハルドさんが、そうしたようにな」
グラウは、ドルクの顔をまっすぐに見た。ドルクは目を逸らさなかった。
やがて、グラウは小さく頷いた。
「頼む」
「行くぞ」
二人は戸口を出た。外ではもう、風が唸り始めていた。
戸口に立った一樹に、グラウが一度だけ振り返る。
「一樹。ここで待て」
「……」
「待つのも、役目だ」
その言葉を残して、二つの大きな背中は、灰色に霞み始めた台地の向こうへ消えていった。
それから間もなく、嵐が台地を呑み込んだ。
風は、宿場で聞いた唸りとは比べものにならなかった。石を積んだ家の壁が、外から殴られているように鳴る。細長い布を結んだ紐は次々と千切れ、どこかへ飛ばされていった。窓の外は真っ白で、隣の家すら見えない。
一樹はセレナと一緒に、集落の家々を回った。戸口に閂をかけ、山羊の囲いの石を積み増し、飛ばされそうな物を家の中へ運び込む。竜人たちは、人間の二人に何も言わなかった。けれど、黙って一緒に石を運び、閂を支えた。
グラウの家に戻ると、ミラが暖炉の前で膝を抱えていた。一樹は湯を沸かし、岩麦の粥を温め直した。
「ミラさん。少しでいいので、食べてください」
「……ありがとう」
ミラは粥の椀を受け取ったが、口には運ばなかった。ただ、両手で椀を包み込み、その温もりを確かめるように見つめている。
一樹は、暖炉の火に薪を足した。グラウとドルクが戻ってきた時、すぐに身体を温められるように。ティオが戻ってきた時、温かい粥を食べさせられるように。
自分にできることは、それくらいしかなかった。
「一樹」
セレナが隣に座った。
「あなたのせいじゃないわ」
「……分かってます。グラウさんも、そう言ってくれました」
一樹は、炎を見つめた。
「でも、待つのって、こんなにしんどいんですね」
セレナは何も言わず、一樹の肩にそっと手を置いた。
その頃。
風穴へ続く道を、二つの影が進んでいた。
横殴りの雪が視界を奪い、足元の岩さえ見えない。グラウとドルクは互いの身体を綱で結び、岩壁に手をつきながら、一歩ずつ前へ進んでいた。
「グラウ! この先だ!」
ドルクの声が、風に千切られながら届く。
白い闇の中に、岩壁の裂け目が、黒い口を開けていた。風穴だった。
グラウは裂け目の前に立ち、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「ティオ!」
風の音だけが返ってくる。
「ティオ! 聞こえるか!」
もう一度叫んだ、その時。
洞窟の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……父さん?」
次回に続く。




