第51話 師の焼き方
冬支度の宴は、五日後に開かれることになった。
翌日から、台地は少しずつ慌ただしくなった。家々の戸口には干し肉が吊るされ、山羊たちは石囲いの中へ集められる。屋根の上の細長い布は一度外され、新しいものに結び替えられていった。嵐の季節を前に、台地全体が身を固めていくようだった。
一樹とセレナも、グラウの家の手伝いをした。一樹は干し肉を吊るすのを手伝い、セレナは石囲いの崩れた場所を積み直した。騎士の腕力を見たティオは、すっかりセレナに懐いてしまったらしい。
「セレナ、すごい! 石、一人で持てるんだ!」
「鍛えてるもの。ティオもいっぱい食べて大きくなれば、すぐ持てるわよ」
「父さんみたいに?」
「そうね。父さんみたいに」
ティオは嬉しそうに笑い、セレナの後ろをついて回った。一樹は干し肉の束を抱えたまま、その様子を眺めて笑う。
「すっかり仲良しですね」
「あなたより先に懐かれたみたいね」
「俺、まだ『人間のおじさん』ですからね」
その日の昼過ぎ、グラウは数人の竜人と一緒に風穴へ向かった。父の樽を、宴の場へ運び出すためだ。一樹も手伝いを申し出たが、グラウは首を横に振った。
「父の樽は、俺が運ぶ」
それ以上は、一樹も何も言わなかった。
夕方、一樹が家の前で岩麦の殻を選り分けていると、ふいに影が差した。
顔を上げると、ドルクが立っていた。
「……少し、いいか」
一樹は手を止め、立ち上がった。ドルクは一樹から視線を逸らしたまま、台地の縁のほうへ歩き出す。一樹はその後を追った。
雲海の見える岩の上で、ドルクは立ち止まった。夕日に照らされた雲の海が、どこまでも広がっている。
「人間」
「一樹です」
「……一樹」
ドルクは少しだけ言いにくそうに、その名を呼んだ。
「お前のいた場所では、寝かせた酒を誇りとするのか」
一樹は少し考えてから答えた。
「誇りにしている人は、たくさんいました。十年、二十年寝かせたお酒を、大事に飲む人もいます」
「強い酒は」
「強いお酒も、大好きな人はたくさんいます。造ってすぐの、鋭いお酒が好きだっていう人も」
ドルクが、わずかに眉を動かす。
「どちらが上なんだ」
「上とか下とかは、ないと思います」
一樹は雲海を眺めながら言った。
「強いお酒には強いお酒の旨さがあって、寝かせたお酒には寝かせたお酒の旨さがある。どっちがいいかは、その日の気分とか、一緒に飲む人とか、食べる料理とかで変わります」
「……曖昧だな」
「お酒って、そういうものなんですよ」
ドルクは鼻を鳴らした。けれど、それ以上は言い返さなかった。
しばらく、二人は黙って雲海を眺めていた。やがて、ドルクがぽつりと口を開いた。
「ハルドさんは、俺の師だった」
一樹は思わずドルクを見た。ドルクは雲海を見つめたままだった。
「俺の家は代々酒造りだが、子どもの頃の俺に、酒造りの面白さを教えてくれたのはハルドさんだった。岩麦の選び方も、もろみの声の聞き方も、全部あの人に教わった」
ドルクは、自分の手のひらを見つめた。
「ハルドさんは、岩麦を長く焼いた。焼きすぎると強さが落ちると、皆に言われても、やめなかった。『強いだけの酒は、すぐに飽きる。岩麦の味がしてこそ、台地の酒だ』と言ってな」
「……長が、言ってました。あの竜霞酒の香ばしさは、ハルドさんの焼き方だって」
「ああ」
ドルクは小さく頷いた。
「風穴の前で飲んだ時、すぐに分かった。……あの焼き方は、俺も覚えている」
ドルクの声が、少しだけ低くなった。
「ハルドさんが嵐で戻らなかった後、親父に言われた。『ハルドの焼き方は弱い。あんなものに囚われるな』とな。台地を守る者がいなくなった。だから、これからはもっと強い酒を造り、もっと強い戦士を育てなければならないと」
「……それで、焼き方を変えたんですね」
「変えた。岩麦は短く焼いて、三度蒸留して、一番強い酒だけを取る。そうやって、今の竜牙酒を造ってきた」
ドルクは拳を握った。
「それが、台地を守ることだと信じてきた。今も、そう思っている。……思っているはずだ」
その言葉は、一樹に向けられたものではなかった。ドルクが、自分自身に言い聞かせているようだった。
一樹は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったのではない。ここで何かを言うべきなのは、自分ではないと思った。
ただ、隣に立っていた。
やがて、ドルクは大きく息を吐いた。
「……なぜ、お前にこんな話をしているんだろうな」
「お酒の話だからじゃないですか」
一樹が言うと、ドルクは呆れたように一樹を見た。それから、ほんのわずかに口元を緩める。
「本当に、それしか考えていないんだな」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「分かってます」
ドルクは短く笑い、背を向けた。
「宴では、俺の竜牙酒も出す。……台地で一番強い酒をな」
「楽しみにしてます」
「飲めるのか、お前に」
「少しずつなら」
ドルクはもう一度鼻を鳴らし、酒蔵のほうへ戻っていった。その背中は、昨日よりも少しだけ迷いが薄れているように見えた。あるいは、迷いを抱えたまま進むことを決めた背中なのかもしれなかった。
その夜、グラウたちは父の樽を無事に集落へ運び込んだ。樽はヴェルダの家の脇に置かれ、宴の日まで布で覆われることになった。
グラウは何も言わなかったが、樽を下ろした時、その焼き印に一度だけそっと手を当てていた。
宴を三日後に控えた朝のことだった。
一樹が家の外へ出ると、台地の空気がいつもと違っていた。風が止んでいる。あれほど絶え間なく吹いていた風が、ぴたりと止まっていた。
空を見上げると、雲海の向こう、西の空に、黒い雲の壁がそびえていた。
「……あれ、まさか」
隣に出てきたグラウが、険しい顔で空を睨んだ。
「嵐だ。……早すぎる」
その時、集落のほうから、ミラが駆けてくるのが見えた。息を切らし、その顔は真っ青だった。
「あなた! ティオが……ティオがいないの!」
次回に続く。




