第50話 誇りの在り処
ドルクは腕を組んだまま、風穴の入口に立ちはだかっていた。
冷たい風が、三人とドルクの間を吹き抜けていく。グラウは壺を抱えたまま動かなかった。一樹とセレナも、その場で足を止める。
「朝早く、お前が人間を連れて台地を出るのが見えた」
ドルクの声は低かった。
「行き先が風穴だと分かった時、まさかと思った。……ハルドさんの樽を、開けたのか」
「開けた」
グラウは、隠そうともせずに答えた。
ドルクの表情が険しくなる。
「何のためにだ。あの樽の酒が弱ったことは、お前が一番よく知っているはずだ」
「知っていると思っていた」
「思っていた?」
「確かめていなかった。二十年、蓋をしたまま、何も確かめていなかった」
グラウは壺へ視線を落とした。
「だから、確かめた」
ドルクの目が、一樹へ向けられる。
「この人間に言われてか」
「きっかけは、そうだ」
「グラウ。お前は、人間の言葉に乗せられて、ハルドさんの恥を掘り返したのか」
その言葉に、セレナが思わず一歩前へ出かけた。一樹がそっとその腕に触れて止める。セレナは唇を噛み、黙って下がった。
グラウは怒らなかった。ただ、静かにドルクを見返す。
「恥かどうかは、飲んでから言え」
グラウは壺の口を開け、自分の杯に竜霞酒を注いだ。淡い金色の酒が、朝の光の中で揺れる。ふわりと、あの霞のような香りが立ちのぼった。
ドルクの鼻が、わずかに動いた。
「……何だ、その色は」
「父の竜牙酒だ。二十年以上、風穴で眠っていた」
グラウは杯をドルクへ差し出した。
ドルクはしばらく、杯を受け取ろうとしなかった。金色の瞳が、杯とグラウの顔を何度も行き来する。やがて、乱暴に杯を奪い取った。
「一口だけだ」
ドルクは、竜人がいつも竜牙酒を飲む時のように、ぐいと杯を傾けた。
喉を噛まれる衝撃に備えるように、その肩には力が入っていた。けれど、その衝撃は来なかった。ドルクの動きが止まる。眉が寄り、目が見開かれる。
飲み込んだあと、ドルクはしばらく何も言わなかった。
「……喉を、噛まない」
かすれた声だった。
「だが、腹の奥が熱い。……熱が、消えない」
ドルクは杯の中を見つめた。舌の上に残る岩麦の甘みを、確かめるように口を閉じる。その表情に、一瞬だけ、酒造りとしての驚きが浮かんだ。
けれど、ドルクはすぐに首を振った。
「違う」
「何が違う」
「これは竜牙酒ではない。喉を噛まない酒を、竜人の酒とは呼ばない」
ドルクは杯をグラウへ突き返した。
「確かに、悪い味ではない。……それは認める。だが、竜人の誇りは強さだ。強い酒を造り、強い酒を飲み、強い者として冬を越える。祖父も父も、そうやって台地を守ってきた」
ドルクの声が、わずかに震えた。
「喉を噛まない酒を誇りだと言い出したら、俺たちが積み重ねてきたものは何になる」
誰も答えなかった。
ドルクは一樹を一度だけ睨み、それから背を向けた。
「長に見せたければ、好きにしろ。だが、俺は認めない」
そう言い残して、ドルクは台地へ続く道を足早に下りていった。
その背中が見えなくなるまで、グラウは黙って立っていた。
「……ドルクさん、怒ってましたね」
一樹が小さく言うと、グラウは首を横に振った。
「怒っているのではない」
その言葉は、昨日ヴェルダがグラウについて言ったことと、よく似ていた。
「あいつは、迷っている。俺と同じだ」
ヴェルダの家は、集落の一番奥にあった。ほかの家と同じ平たい石の造りだが、戸口の上には、古い竜の翼を象った木彫りが掲げられている。
グラウが壺を差し出すと、ヴェルダは何も聞かずにそれを受け取った。蓋を開けた瞬間、皺の刻まれた目元がわずかに動く。
「……この香りは」
ヴェルダは杯に少しだけ注ぎ、ゆっくりと口に含んだ。
長い沈黙のあと、ヴェルダは目を閉じたまま、小さく笑った。
「ハルドの酒だね」
「分かるのか」
「分かるともさ。あの男は、竜牙酒を造る時、岩麦を他の者より長く焼いた。強さが落ちると言われても、香ばしさを残したいと言ってきかなくてね」
ヴェルダは杯の中の淡い金色を見つめた。
「この香ばしさは、あの男の焼き方だ」
グラウの肩が、かすかに揺れた。
「それで、名は付けたのかい」
「竜霞酒」
「竜霞酒……」
ヴェルダはその名を口の中で転がすように繰り返し、それから頷いた。
「いい名だ」
「長」
グラウが一歩前へ出た。
「この酒を、台地の皆に飲ませたい」
ヴェルダの目が、グラウを見上げる。
「皆が恥だと言うかもしれないよ」
「それでもいい。父の酒が恥かどうか、決めるのは俺一人ではない」
ヴェルダはしばらく黙っていた。それから、杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
「もうすぐ、冬支度の宴がある。嵐の季節が来る前に、台地の皆が集まって、竜牙酒を酌み交わす宴だ」
「……」
「その席に、竜霞酒を出しな。飲むか飲まないか、どう思うかは、皆が決めればいい」
グラウは深く頭を下げた。
「感謝する」
「礼を言うのは早いよ。ドルクは黙っていないだろうからね」
ヴェルダは一樹のほうへ顔を向けた。
「人間。お前さんも、宴に出るかい」
「出たいです」
一樹は即答した。
「竜人族の皆さんが、どんなふうにお酒を飲むのか見てみたいので」
ヴェルダは声を上げて笑った。
「本当に、それしか考えてないんだね」
「だいたい、それしか考えてないです」
セレナが隣で、小さくため息をついた。けれど、その口元は笑っていた。
その夜。
台地の外れにあるドルクの酒蔵には、まだ灯りがともっていた。
蒸留の釜は火を落とし、もろみの甕も静まり返っている。その蔵の片隅で、ドルクは一人、小さな杯を前に座っていた。
杯の底には、ほんの少しだけ、淡い金色の酒が残っていた。風穴の前で突き返した時、杯の縁から自分の手に移った、ほんのわずかな雫を、ドルクは指で拭い取って持ち帰っていた。
ドルクはそれを、じっと見つめていた。
鼻を近づける。焼いた岩麦の香ばしさが、かすかに漂う。
「……ハルドさん」
誰もいない蔵の中で、ドルクは小さく呟いた。
外では、雲海を渡る風が、昨日よりも少しだけ冷たく鳴っていた。
次回に続く。




