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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第49話 竜霞酒《りゅうかすみしゅ》

香りは、ゆっくりと洞窟の中に広がっていった。

冷たく乾いた風に乗って、焼いた岩麦のような香ばしさと、柔らかな甘みが漂う。松明の光に照らされて、その香りがまるで目に見えるように揺らめいている気がした。

一樹はしばらく、言葉を発することができなかった。隣のセレナも、驚いたように目を見開いている。


「……これが、竜牙酒なの?」


セレナが小さく呟いた。宿で飲んだ酒とも、ドルクの蔵で取れたばかりの酒とも、香りがまるで違う。

グラウは樽の縁に手をかけたまま、じっと中を覗き込んでいた。その顔には、驚きとも戸惑いともつかない表情が浮かんでいる。


「前に開けた時は、こんな香りではなかった」


「そうなんですか?」


「……いや」


グラウは、自分の言葉を打ち消すように首を振った。


「分からん。あの時は、香りなど気にしていなかった。喉を噛むかどうか、それだけを確かめた」


グラウは腰に下げていた小さな柄杓を取り出し、樽の中へ静かに差し入れた。すくい上げた酒を、自分の杯と、一樹が差し出した炎の木杯へ注いでいく。

松明の光の中で、酒が揺れた。

透明だったはずの竜牙酒は、淡い金色に色づいていた。長い年月を樽の中で過ごすうちに、木の色が少しずつ移ったのだろう。光にかざすと、まるで雲海に差す朝の陽のような色をしている。


「綺麗……」


セレナがため息をつくように言った。

グラウは自分の杯を見つめたまま、なかなか口をつけようとしなかった。一樹も、先に飲もうとはしなかった。これは、グラウが確かめるための一杯だ。

やがて、グラウは静かに杯を傾けた。

ほんの少しだけ、口に含む。今度は、喉を噛むかどうかを確かめるような飲み方ではなかった。舌の上でゆっくりと転がし、香りを鼻へ抜き、それから静かに飲み込む。

グラウは目を閉じた。

長い間、何も言わなかった。


一樹も、自分の木杯を口元へ運んだ。

最初に感じたのは、柔らかさだった。宿で飲んだ竜牙酒のように、喉へ突き刺さってくることはない。けれど、飲み込んだ次の瞬間、胸の奥にじんわりと熱が灯った。火酒のように一気に燃え上がるのでもない。ゆっくりと、深いところから身体を温めてくるような熱だった。

そして、その熱の後を追うように、岩麦の甘みが広がってきた。宿で飲んだ時には、強さの奥に隠れて、あるかないか分からないほどだった甘み。それが今は、はっきりと舌の上に残っている。焼いた岩麦の香ばしさ。蜂蜜にも似た、丸い甘さ。そして、それらがいつまでも消えずに、長く長く余韻を引いていく。


「……うまい」


一樹の口から、それだけがこぼれた。

いつもと同じ言葉だった。それしか出てこなかった。


「強さは、なくなってない」


一樹は木杯を見つめながら、ゆっくりと言った。


「喉で暴れなくなっただけです。強さは全部、ちゃんとここにある。ただ、それが身体の奥で静かに燃えるようになってる」


グラウが目を開けた。金色の瞳が、杯の中の淡い金色を映している。


「……父の酒だ」


かすれた声だった。


「これは、父の酒だ。弱ってなどいなかった」


グラウはもう一口飲んだ。今度は、さっきよりも少しだけ多く。

その肩が、かすかに震えていた。


「俺は……何も分かっていなかった。二十年前、ただ喉を噛むかどうかだけを確かめて、それで父の酒を恥だと決めつけた」


「あの時と今では、樽の中で過ごした時間も違います」


一樹は静かに言った。


「前に開けた時より、さらに長い時間が経ってる。だから、あの時とは味も違ったかもしれません」


「……そうかもしれん。だが」


グラウは首を横に振った。


「父は、きっと分かっていた。この風穴に置けば、酒がこうなることを」


その時、セレナが小さく声を上げた。


「グラウさん、蓋の裏……」


グラウが、樽の横に立てかけていた蓋を手に取った。松明をかざすと、蓋の内側に、小さな彫り物があるのが見えた。

大きな翼が一つ。そして、その翼の下に、小さな翼がもう一つ。大きな翼は、小さな翼を包み込むように広げられていた。

文字は何もない。ただ、それだけの彫り物だった。


グラウは、長い間その彫り物を見つめていた。

やがて、大きな指で、小さな翼をそっとなぞる。


「……翼の下に」


誰に聞かせるでもなく、グラウは呟いた。


洞窟の中には、冷たい風の音だけが響いていた。一樹とセレナは何も言わず、ただグラウの隣に立っていた。


どれくらい経っただろう。グラウは顔を上げ、樽の中の淡い金色を見つめた。


「この酒は、もう竜牙酒ではないな」


「そうですね。まったく別のお酒になってると思います」


「名がいる」


グラウは一樹を見た。


「お前なら、何と呼ぶ」


一樹は少しだけ考えた。蓋を開けた瞬間に立ちのぼった、あの香りを思い出す。松明の光の中を、ゆっくりと漂っていった香り。


「蓋を開けた時、香りが霞みたいに広がったんです。雲海の上にかかる、霞みたいに」


「霞……」


グラウは、もう一度杯の中を覗き込んだ。それから、ゆっくりと口を開く。


「竜霞酒」


その名を、確かめるように繰り返す。


「竜の台地の、霞の酒。……竜霞酒だ」


「いい名前です」


一樹が笑うと、グラウもほんのわずかに口元を緩めた。

セレナが自分の杯を少しだけ持ち上げ、おそるおそる口をつける。一瞬身構えるように目を閉じたが、すぐに驚いたように目を開けた。


「……飲める」


「でしょう?」


「宿のあれとは、全然違うわ。熱いのに、優しい」


一樹はなぜか自分のことのように嬉しくなって、笑った。


グラウは柄杓で、持ってきた小さな壺に竜霞酒を少しだけ移した。それから、樽にしっかりと蓋をする。今度は、封をするためではない。大切に守るための蓋だった。


「長に見せる」


グラウは壺を抱え、出口へ向かって歩き出した。


風穴の入口が近づくと、外の光が白く差し込んできた。冷たい風に背中を押されるようにして、三人は洞窟を出る。

その瞬間、グラウの足が止まった。


入口の岩の前に、一人の竜人が腕を組んで立っていた。

ドルクだった。


「グラウ」


ドルクの金色の瞳が、グラウの抱えた壺に向けられる。


「風穴で、何をしていた」


次回に続く。

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