↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/64

第48話 風穴の樽

グラウは、しばらくその場から動かなかった。

雲海から吹き上げてくる風が、三人の間を通り抜けていく。ヴェルダは何も言わず、杖に両手を重ねたまま座っていた。セレナは一樹の隣で、静かに息を詰めている。

やがて、グラウがゆっくりと歩いてきた。


「……変わっただけ、だと?」


低い声だった。怒鳴っているわけではない。けれど、その声には、昨日までの落ち着いた響きとは違うものが混じっていた。

一樹は立ち上がり、グラウに向き直った。


「すみません。グラウさんのいないところで、お父さんの話を聞いてしまって」


「長が話したのだろう。お前が謝ることではない」


グラウはヴェルダを一度だけ見た。ヴェルダは何も言わず、目を伏せる。

グラウの視線が、再び一樹へ戻った。


「答えろ。変わっただけとは、どういう意味だ」


一樹は少しだけ言葉を選んだ。軽く答えていいことではない。それだけは分かった。


「俺のいた場所にも、強いお酒を樽に入れて、何年も寝かせる造り方があったんです」


「寝かせる……」


「はい。造ったばかりの強いお酒は、喉に刺さるみたいに鋭い。でも、樽の中で何年も過ごすうちに、角が取れて、まろやかになっていく。香りも深くなって、造ったばかりの時には隠れていた味が、表に出てくることがあるんです」


グラウは黙って聞いていた。


「喉を噛まなくなったのは、強さがなくなったからじゃないかもしれません。鋭さが丸くなって、その奥にあったものが見えるようになった。……そういうことも、あると思うんです」


「思う、か」


「はい。飲んでいないので、本当のところは分かりません」


一樹はまっすぐにグラウを見た。


「でも、風穴の風は冷たくて、乾いていました。お酒を長く置いておくには、すごくいい場所だと思います」


グラウは何も答えなかった。金色の瞳が、一樹の顔をじっと見つめている。その奥で何かが揺れているのが、一樹にも分かった。

長い沈黙のあと、グラウは背を向けた。


「……畑に戻る」


それだけ言って、グラウは歩き去っていった。大きな背中が、草原の向こうへ小さくなっていく。

一樹は、その背中を見送りながら息を吐いた。


「怒らせちゃいましたかね」


「怒ってはいないよ」


ヴェルダが静かに言った。


「あの子は、怒る時はもっと分かりやすい」


「じゃあ……」


「迷ってるのさ。二十年、蓋をしてきたものにね」


ヴェルダは杖をついて立ち上がると、一樹の肩を軽く叩いた。


「待っておやり。答えを出すのは、あの子だ」


その日の夕食も、グラウの家で取った。グラウは普段どおりに食事をし、普段どおりにティオの相手をした。昼間のことには一言も触れなかった。ミラは何かを察しているようだったが、やはり何も言わない。

食後、グラウはいつものように竜牙酒を杯に注いだ。家族三人で杯を合わせる。


「翼の下に」


その声は、昨夜よりも少しだけ小さかった。


夜が更けても、一樹はなかなか寝付けなかった。毛皮の上で寝返りを打つと、隣で横になっているセレナが小さく声をかけてきた。


「眠れないの?」


「はい。……余計なこと言っちゃったかなって」


「余計なことだったと思う?」


一樹は少し考えた。


「いえ。思ったことを言っただけです」


「なら、いいじゃない」


セレナの声は、暗闇の中でも穏やかだった。


「あなたが嘘をつけない人だってことは、グラウさんも分かってるはずよ」


「……そうだといいんですけど」


外では、相変わらず風が鳴っていた。


翌朝。

一樹が目を覚ますと、家の中にグラウの姿はなかった。ミラが、戸口の外を指差す。


「主人が、あなたを待ってるわ」


外へ出ると、まだ薄暗い台地の上に、グラウが立っていた。白い息を吐きながら、雲海の方角を見ている。一樹に気づくと、振り返らないまま口を開いた。


「確かめたい」


「え?」


「お前の言う『変わった』が、何なのか」


グラウはゆっくりと振り返った。その目は、昨日のように揺れてはいなかった。


「風穴へ行く。ついて来い」


「……はい」


一樹は頷いた。少し遅れて出てきたセレナも、何も聞かずに隣へ並ぶ。


風穴は、一昨日休憩した岩の庇よりも、さらに台地の近くにあった。岩壁にぽっかりと口を開けた裂け目から、冷たい風が絶え間なく吹き出している。グラウは入口で松明に火を灯し、先に立って中へ入った。

中は、思っていたよりも広かった。足元は乾いた岩で、天井は低い。進むにつれて、空気はどんどん冷たくなっていく。吐く息が白く、指先がかじかんだ。それでも、湿った嫌な冷たさではない。乾いていて、澄んでいて、どこか張り詰めたような冷たさだった。


「すごい……」


一樹は思わず呟いた。洞窟の奥から、ずっと同じ強さで風が吹いてくる。この風が、何年も、何十年も、変わらずにここを通り抜けてきたのだろう。


しばらく進むと、洞窟の脇に、岩を削って作ったような窪みが現れた。かつては物置として使われていたのか、古い棚の跡や、割れた甕の欠片が残っている。

その一番奥に、一つの樽があった。

黒ずんだ木の樽だった。長い年月を経て表面は乾ききっているが、箍はしっかりと締まったままだ。樽の側面には、大きく翼を広げた竜の印が焼き付けられていた。


グラウは、樽の前で足を止めた。松明の光が、その横顔を照らす。


「父の印だ」


「……」


「二十年前、父はここにこれを置いた。俺が一人前になった日に、一緒に飲むと言って」


グラウは樽へ手を伸ばし、焼き印をそっとなぞった。


「一人前になった日、俺は一人でここへ来た。蓋を開けて、一口飲んだ。……喉を噛まなかった。父の酒が、弱っていた」


その声は、ほとんど囁くようだった。


「俺はそれを、誰にも言えなかった。父の酒が弱ったと認めれば、父まで弱かったことになる気がした」


一樹は何も言わなかった。言葉をかけるべきではないと思った。

グラウは大きく息を吸い、樽の蓋に手をかけた。


「だから、確かめる。お前と一緒に」


木の擦れる音が、洞窟の中に響いた。

二十年ぶりに、二度目の封が解かれる。

蓋が持ち上がった瞬間、樽の中から、ふわりと香りが立ちのぼった。

竜牙酒の、喉を刺すような鋭い匂いではなかった。焼いた岩麦のような香ばしさと、蜂蜜にも似た柔らかな甘み。それらが混じり合った香りが、松明の光の中を、まるで霞のようにゆっくりと漂っていく。


一樹は、息をするのも忘れて、その香りの中に立ち尽くしていた。


次回に続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。