第48話 風穴の樽
グラウは、しばらくその場から動かなかった。
雲海から吹き上げてくる風が、三人の間を通り抜けていく。ヴェルダは何も言わず、杖に両手を重ねたまま座っていた。セレナは一樹の隣で、静かに息を詰めている。
やがて、グラウがゆっくりと歩いてきた。
「……変わっただけ、だと?」
低い声だった。怒鳴っているわけではない。けれど、その声には、昨日までの落ち着いた響きとは違うものが混じっていた。
一樹は立ち上がり、グラウに向き直った。
「すみません。グラウさんのいないところで、お父さんの話を聞いてしまって」
「長が話したのだろう。お前が謝ることではない」
グラウはヴェルダを一度だけ見た。ヴェルダは何も言わず、目を伏せる。
グラウの視線が、再び一樹へ戻った。
「答えろ。変わっただけとは、どういう意味だ」
一樹は少しだけ言葉を選んだ。軽く答えていいことではない。それだけは分かった。
「俺のいた場所にも、強いお酒を樽に入れて、何年も寝かせる造り方があったんです」
「寝かせる……」
「はい。造ったばかりの強いお酒は、喉に刺さるみたいに鋭い。でも、樽の中で何年も過ごすうちに、角が取れて、まろやかになっていく。香りも深くなって、造ったばかりの時には隠れていた味が、表に出てくることがあるんです」
グラウは黙って聞いていた。
「喉を噛まなくなったのは、強さがなくなったからじゃないかもしれません。鋭さが丸くなって、その奥にあったものが見えるようになった。……そういうことも、あると思うんです」
「思う、か」
「はい。飲んでいないので、本当のところは分かりません」
一樹はまっすぐにグラウを見た。
「でも、風穴の風は冷たくて、乾いていました。お酒を長く置いておくには、すごくいい場所だと思います」
グラウは何も答えなかった。金色の瞳が、一樹の顔をじっと見つめている。その奥で何かが揺れているのが、一樹にも分かった。
長い沈黙のあと、グラウは背を向けた。
「……畑に戻る」
それだけ言って、グラウは歩き去っていった。大きな背中が、草原の向こうへ小さくなっていく。
一樹は、その背中を見送りながら息を吐いた。
「怒らせちゃいましたかね」
「怒ってはいないよ」
ヴェルダが静かに言った。
「あの子は、怒る時はもっと分かりやすい」
「じゃあ……」
「迷ってるのさ。二十年、蓋をしてきたものにね」
ヴェルダは杖をついて立ち上がると、一樹の肩を軽く叩いた。
「待っておやり。答えを出すのは、あの子だ」
その日の夕食も、グラウの家で取った。グラウは普段どおりに食事をし、普段どおりにティオの相手をした。昼間のことには一言も触れなかった。ミラは何かを察しているようだったが、やはり何も言わない。
食後、グラウはいつものように竜牙酒を杯に注いだ。家族三人で杯を合わせる。
「翼の下に」
その声は、昨夜よりも少しだけ小さかった。
夜が更けても、一樹はなかなか寝付けなかった。毛皮の上で寝返りを打つと、隣で横になっているセレナが小さく声をかけてきた。
「眠れないの?」
「はい。……余計なこと言っちゃったかなって」
「余計なことだったと思う?」
一樹は少し考えた。
「いえ。思ったことを言っただけです」
「なら、いいじゃない」
セレナの声は、暗闇の中でも穏やかだった。
「あなたが嘘をつけない人だってことは、グラウさんも分かってるはずよ」
「……そうだといいんですけど」
外では、相変わらず風が鳴っていた。
翌朝。
一樹が目を覚ますと、家の中にグラウの姿はなかった。ミラが、戸口の外を指差す。
「主人が、あなたを待ってるわ」
外へ出ると、まだ薄暗い台地の上に、グラウが立っていた。白い息を吐きながら、雲海の方角を見ている。一樹に気づくと、振り返らないまま口を開いた。
「確かめたい」
「え?」
「お前の言う『変わった』が、何なのか」
グラウはゆっくりと振り返った。その目は、昨日のように揺れてはいなかった。
「風穴へ行く。ついて来い」
「……はい」
一樹は頷いた。少し遅れて出てきたセレナも、何も聞かずに隣へ並ぶ。
風穴は、一昨日休憩した岩の庇よりも、さらに台地の近くにあった。岩壁にぽっかりと口を開けた裂け目から、冷たい風が絶え間なく吹き出している。グラウは入口で松明に火を灯し、先に立って中へ入った。
中は、思っていたよりも広かった。足元は乾いた岩で、天井は低い。進むにつれて、空気はどんどん冷たくなっていく。吐く息が白く、指先がかじかんだ。それでも、湿った嫌な冷たさではない。乾いていて、澄んでいて、どこか張り詰めたような冷たさだった。
「すごい……」
一樹は思わず呟いた。洞窟の奥から、ずっと同じ強さで風が吹いてくる。この風が、何年も、何十年も、変わらずにここを通り抜けてきたのだろう。
しばらく進むと、洞窟の脇に、岩を削って作ったような窪みが現れた。かつては物置として使われていたのか、古い棚の跡や、割れた甕の欠片が残っている。
その一番奥に、一つの樽があった。
黒ずんだ木の樽だった。長い年月を経て表面は乾ききっているが、箍はしっかりと締まったままだ。樽の側面には、大きく翼を広げた竜の印が焼き付けられていた。
グラウは、樽の前で足を止めた。松明の光が、その横顔を照らす。
「父の印だ」
「……」
「二十年前、父はここにこれを置いた。俺が一人前になった日に、一緒に飲むと言って」
グラウは樽へ手を伸ばし、焼き印をそっとなぞった。
「一人前になった日、俺は一人でここへ来た。蓋を開けて、一口飲んだ。……喉を噛まなかった。父の酒が、弱っていた」
その声は、ほとんど囁くようだった。
「俺はそれを、誰にも言えなかった。父の酒が弱ったと認めれば、父まで弱かったことになる気がした」
一樹は何も言わなかった。言葉をかけるべきではないと思った。
グラウは大きく息を吸い、樽の蓋に手をかけた。
「だから、確かめる。お前と一緒に」
木の擦れる音が、洞窟の中に響いた。
二十年ぶりに、二度目の封が解かれる。
蓋が持ち上がった瞬間、樽の中から、ふわりと香りが立ちのぼった。
竜牙酒の、喉を刺すような鋭い匂いではなかった。焼いた岩麦のような香ばしさと、蜂蜜にも似た柔らかな甘み。それらが混じり合った香りが、松明の光の中を、まるで霞のようにゆっくりと漂っていく。
一樹は、息をするのも忘れて、その香りの中に立ち尽くしていた。
次回に続く。




