第46話 翼の下に
集落の入口に、竜人たちが少しずつ集まってきた。
畑仕事の途中だったのか、手に鍬を持ったままの者。家の戸口から顔を出す者。子どもを背に隠す者。誰もが背が高く、こめかみから角を伸ばし、金色の瞳でこちらを見ている。声を荒らげる者はいない。けれど、その静けさがかえって、一樹には重く感じられた。
「グラウ」
人垣の中から、一人の若い竜人が前へ出た。グラウよりは少し背が低いが、肩幅は広く、腕にはいくつもの古い傷跡がある。角は鋭く、まっすぐ天を向いていた。
「人間を上げるとは、どういうつもりだ」
「客だ。俺が連れてきた」
グラウの答えは短かった。若い竜人の眉が、ぴくりと動く。
「客? 人間がか」
「そうだ、ドルク」
「理由を聞かせろ」
グラウは少しだけ間を置き、一樹へ視線を向けた。
「この人間は、竜牙酒を飲んだ。吐き出さずにな」
周囲から、小さなざわめきが起こる。
「それだけではない。竜牙酒の奥に、岩麦の甘みを感じたと言った」
ざわめきが、さらに大きくなった。ドルクと呼ばれた若い竜人は、信じられないというように一樹を見る。
「……本当か」
「はい。ほんの少しでしたけど」
一樹が答えると、ドルクは鼻を鳴らした。
「舌が利くのと、強いのとは別の話だ」
「それは、そうですね」
一樹があっさり頷くと、ドルクは拍子抜けしたように言葉を詰まらせた。
その時、人垣が左右に分かれた。
「騒がしいね」
ゆっくりと歩いてきたのは、年老いた竜人の女性だった。背はグラウと変わらないほど高いが、その背中はわずかに丸い。頬を覆う鱗は色が抜けて白く、左の角は途中で折れていた。それでも、その金色の瞳には、周囲の誰よりも強い光があった。
竜人たちが、自然と頭を下げる。
「長」
グラウがそう呼んだ。老いた竜人は、一樹とセレナを順番に眺める。
「ヴェルダだ。この台地をまとめている」
「酒井一樹です。こっちはセレナです」
「人間が台地まで上がってきたのは、何年ぶりかね」
ヴェルダはそう言って、一樹の顔を覗き込んだ。
「それで、何をしに来た」
一樹は少しだけ考えた。言葉を飾る必要はない気がした。
「お酒が好きなんです。竜人族の皆さんが、どんなお酒を造って、どんなふうに飲んでいるのか知りたくて」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ヴェルダは声を上げて笑った。しわがれた、けれどよく通る笑い声だった。
「酒を知りたくて、あの道を登ってきたのかい」
「はい」
「死ぬかもしれなかったんだよ」
「グラウさんが案内してくれたので」
ヴェルダはしばらく笑っていたが、やがて目元を拭い、グラウを見た。
「お前が責任を持つんだね」
「ああ」
「なら、いい。台地の決まりに従うなら、好きなだけいるといい」
ドルクが一歩前に出た。
「長、待ってください。人間を台地に置くなら、せめて確かめるべきです」
「何をだい」
「この人間が、竜人の客に値するかどうか」
ドルクは一樹をまっすぐに見据えた。
「竜牙酒で飲み比べをしろ。客として迎えられる者は、皆そうしてきた」
周囲の竜人たちが、どこか納得したように頷く。それが、この台地の当たり前なのだろう。セレナが心配そうに一樹を見た。
一樹は少しだけ困ったように頭を掻き、それから首を横に振った。
「すみません。飲み比べはしません」
「……逃げるのか」
「逃げるというか」
一樹は苦笑した。
「たぶん、すぐに負けます。それに、せっかくのお酒を、味も分からなくなるまで飲むのはもったいないので」
ドルクが目を見開く。周囲の竜人たちも、呆気に取られたように一樹を見ていた。
「お前……竜牙酒を、もったいないと言うのか」
「はい。岩麦の甘み、もっとちゃんと味わいたいですから」
「弱い者の言い訳だ」
「弱いのは本当です」
一樹は、少しも気負わずに答えた。
「俺は強くないです。でも、お酒は好きなんです」
ドルクは何か言い返そうとして、言葉が見つからないようだった。その様子を、ヴェルダが面白そうに眺めている。
「ドルク。今日はそのくらいにしておきな」
「……はい」
ドルクは一樹を一度だけ睨むと、人垣の中へ戻っていった。
ヴェルダは一樹へ向き直り、小さく笑う。
「変わった人間だね」
「よく言われます」
「褒めちゃいないよ」
「分かってます」
ヴェルダはまた笑い、杖をつきながら集落の奥へ戻っていった。
その夜、一樹とセレナはグラウの家に泊めてもらうことになった。平たい石を積み上げた家の中は、外の風が嘘のように静かだった。壁の隙間はきっちりと塞がれ、床には厚い毛皮が敷かれている。
「いらっしゃい。狭い家だけど、ゆっくりしていって」
出迎えてくれたのは、グラウの妻のミラだった。グラウより少し小柄で、柔らかな笑顔の女性だ。その足元では、昼間の男の子が、こちらをちらちらと見ている。
「ティオ、挨拶は?」
「……こんばんは」
「こんばんは、ティオ」
一樹が笑いかけると、ティオは照れたようにミラの後ろへ隠れた。けれど、すぐにまた顔だけを出してくる。
夕食は、岩麦の粥と、干した山羊肉を炙ったものだった。粥は素朴だが、ゆっくり煮込まれていて、噛むたびに岩麦の甘みが広がる。
「美味しいです」
「本当? 人間の口に合うか心配だったのよ」
「すごく合います。岩麦って、本当に甘いんですね」
ミラは嬉しそうに笑った。
食事が終わる頃、グラウが棚から壺を下ろした。竜牙酒だった。グラウとミラ、それぞれの杯に注ぐ。ティオの小さな杯には、温めた山羊の乳が注がれた。
三人が、自然に杯を持ち上げる。
「翼の下に」
グラウの低い声に、ミラとティオが続いた。
「翼の下に」
「翼の下に!」
杯が軽く触れ合い、三人はそれぞれ口をつけた。一樹とセレナの前にも杯は置かれていたが、グラウの杯と合わさることはなかった。
一樹は、それを寂しいとは思わなかった。昨日の宿で聞いた言葉を思い出す。竜人は、認めた者としか杯を合わせない。それがこの家の、この種族の決まりなのだ。
「今の言葉、竜人族の乾杯なんですか?」
一樹が尋ねると、グラウは杯を置いた。
「そうだ」
「どういう意味なんでしょう。……あ、聞いちゃいけないことなら」
「構わん」
グラウは、膝の上によじ登ってきたティオの頭に、大きな手を置いた。
「竜人には、もう翼はない。だが、遠い祖先の竜は、大きな翼を持っていたと言われている」
「祖先の竜……」
「竜は、守るべきものを翼の下に抱えて、嵐から守った。だから俺たちは、杯を交わす時にそう言う。自分の翼の下にいる者を、守り抜くと」
ミラが、そっとティオの背を撫でた。ティオはもう、グラウの膝の上でうとうとし始めている。
「……いい言葉ですね」
一樹の口から、自然とその言葉が出た。グラウは何も答えなかった。けれど、その横顔は、どこか穏やかだった。
しばらくして、半分眠りかけていたティオが、ぼんやりと目を開けた。
「ねえ、人間のおじさん」
「おじさん……。うん、なに?」
「お酒、好きなの?」
「大好きだよ」
「じゃあ、風穴のお酒も見たい?」
一樹は思わず瞬きをした。
「風穴のお酒?」
「じいちゃんがね、風穴に置いてったお酒があるんだって。でも、誰も飲まないの。弱くなっちゃったから、恥なんだって」
「ティオ」
グラウの声が、静かに響いた。強い声ではなかった。けれど、ティオはびくりと肩をすくめ、それきり口を閉じた。
ミラが困ったように微笑み、ティオを抱き上げて奥の部屋へ連れていく。
家の中に、沈黙が落ちた。
グラウは杯の中の竜牙酒を見つめたまま、何も言わない。一樹も、それ以上は何も聞かなかった。
外では、雲の上を渡る風が、低く長く鳴り続けていた。
次回に続く。




