第45話 雲海の上で
山道は、思っていた以上に険しかった。
宿場を出てしばらくは、まだ道と呼べるものがあった。けれど、半刻も登らないうちに足元は岩だらけになり、やがて岩肌に刻まれた細い段差を一歩ずつ踏みしめて進むだけの道になった。片側は切り立った岩壁、もう片側は霧に沈んで底の見えない崖。そこへ、上から吹き下ろしてくる風が容赦なく身体を押してくる。
「……っ、すごい風ですね」
一樹は岩壁に手をつきながら声を張った。そうしないと、風に言葉をさらわれてしまう。
「足元だけ見て。風が強い時は、無理に進まないで止まって」
すぐ後ろを歩くセレナは、鎧を着ているとは思えないほど落ち着いた足取りだった。さすがは騎士だと、一樹は素直に感心する。
先を行くグラウは、もっと平然としていた。麦の袋を背負ったまま、風の中を散歩でもするように進んでいく。ときどき立ち止まっては振り返り、二人が追いつくのを黙って待っていた。
雲の中に入ると、景色は一変した。視界が白く閉ざされ、数歩先を歩くグラウの背中さえ、霧の向こうにぼやけて見える。肌に触れる空気はしっとりと冷たく、吐く息も白い。
「グラウさん、見えなくなりそうです」
「声を出せ。聞こえていれば、それでいい」
霧の中から低い声が返ってくる。一樹は言われたとおり、ときどき「いますか」と声をかけながら進んだ。そのたびに、短く「ここだ」と返事がある。それだけのことなのに、不思議と心強かった。
昼が近くなった頃、道の脇に、岩が庇のように張り出した場所が見えてきた。グラウはそこで足を止め、麦の袋を下ろす。
「休む」
その一言に、一樹はほっと息を吐いてその場に座り込んだ。脚が自分のものではないように重い。セレナも隣に腰を下ろし、水袋を差し出してくれた。
「大丈夫?」
「なんとか……。でも、明日は確実に筋肉痛ですね」
「明日で済めばいいけど」
グラウは岩の陰で、懐から布包みを取り出した。中には、小さく丸めた焼き菓子のようなものが入っている。それを二つ、無言で一樹とセレナの前へ置いた。
「食え。岩麦を焼いたものだ」
「いいんですか?」
「登りの途中で倒れられる方が面倒だ」
一樹は礼を言って口へ運んだ。素朴な味だった。噛むほどに、香ばしさの奥から、じんわりと甘みが広がってくる。
「……あ、これ」
一樹は思わず手元を見つめた。
「昨日、竜牙酒の奥に感じた甘みと同じ味がします」
グラウが、わずかに眉を動かした。
「岩麦は、焼くと甘みが出る。台地の子どもは、これを食べて育つ」
「すごく美味しいです。こんなに甘い麦なんですね」
「痩せた土で、寒さと風に耐えて育つからだ。粒は小さいが、中身が詰まっている」
グラウはそう言って、霧の向こうを見た。その横顔は、どこか誇らしげに見えた。
その時、一樹は頬に、それまでとは違う冷たさを感じた。霧の流れとは別の方向から、細く鋭い風が吹いてくる。顔を向けると、少し離れた岩壁の裂け目から、ひんやりとした空気が絶え間なく流れ出していた。裂け目の奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
「グラウさん、あそこは?」
「風穴だ」
グラウは短く答えた。
「山の中を風が通り抜けている。夏でも、中は凍えるほど冷たい」
「へえ……」
一樹は裂け目を見つめた。冷たく、乾いた風。外の湿った霧とは、明らかに空気が違う。
「昔は、物を置いておくのに使っていたと聞く。肉も、麦も、あそこに置けば長く保つ」
「今は使ってないんですか?」
「今は、誰も入らん」
グラウはそれ以上は言わなかった。一樹もそれ以上は聞かなかった。ただ、裂け目から吹き出してくる風の冷たさだけが、妙に頭に残った。
休憩を終えると、三人は再び歩き出した。道はさらに険しくなる。一樹は何度か足を滑らせかけ、そのたびにセレナに腕をつかまれた。
一度だけ、強い突風に身体をあおられ、膝をついてしまったことがある。顔を上げると、少し先でグラウが立ち止まっていた。手を貸すでもなく、急かすでもなく、ただ一樹が立ち上がるのを待っている。
「……すみません。遅くて」
一樹が謝ると、グラウは首を横に振った。
「謝る必要はない。人間の脚は、この山に慣れていない。それだけのことだ」
「でも、置いていかれるかと思いました」
「置いていきはしない」
グラウの声は、風の中でもはっきりと聞こえた。
「連れてきた者を途中で置いていくのは、竜人の恥だ」
一樹は少し驚いて、グラウの顔を見た。けれど、グラウはもう前を向いて歩き出していた。
それから、どれくらい登っただろう。
ふと、足元の霧が薄くなり始めた。白い世界の向こうから、少しずつ光が差し込んでくる。一歩、また一歩と進むたびに、視界が明るくなっていく。
そして、最後の岩の段を登りきった瞬間。
目の前が、一気に開けた。
「……うわ」
一樹は、言葉を失った。
足元に、雲が広がっていた。どこまでも続く白い雲の海。その上に、傾きかけた陽の光が降り注ぎ、雲の表面を淡い金色に染めている。ところどころから、遠くの山の頂だけが島のように顔を出していた。
さっきまで自分たちがいた霧の中が、この雲の海の下だったのだと、ようやく分かる。
「雲海……」
隣で、セレナが呟いた。いつもの落ち着いた声ではなく、少しだけ震えていた。
「綺麗ね」
「はい……」
一樹はそれ以上、何も言えなかった。王都の白葡萄畑も、エルフの森の月も美しかった。けれど、この景色はそのどれとも違う。広くて、静かで、ただ風だけが雲の上を渡っていく。
「台地はこの先だ」
グラウの声に振り返ると、雲海とは反対側に、なだらかな台地が広がっていた。背の低い草が風になびき、その向こうには、平たい石を積み上げた家々が並んでいる。屋根の上には色とりどりの細長い布が結ばれ、強い風を受けて一斉にはためいていた。
いくつもの煙が細くたなびいている。どこかで子どもの笑い声がした。
その時だった。
集落の方から、小さな影が一つ、こちらへ向かって駆けてきた。
「父さん!」
角はまだ短く、頬の鱗もほとんど目立たない。竜人族の男の子だった。男の子は勢いよくグラウの脚に飛びつき、満面の笑みで見上げる。
「おかえり! 岩麦、いっぱいもらえた?」
「ああ。冬の分は足りる」
グラウは大きな手で、男の子の頭を一度だけ撫でた。その仕草は、宿で見せていた硬い表情からは想像もつかないほど優しかった。
男の子は、そこでようやく一樹たちに気づいたらしい。グラウの脚の陰から、目を丸くしてこちらを見る。
「……人間だ」
その声が届いたのか、集落の入口にいた竜人たちが、次々とこちらへ顔を向けた。
金色の瞳がいくつも、雲海を背にして立つ二人の人間を見つめていた。
次回に続く。




