第44話 竜牙酒
男の問いに、宿の中が静まり返った。暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
一樹は木杯を手にしたまま、男を見上げた。近くで見ると、その背の高さがよく分かる。一樹より頭一つ以上大きい。それでいて、威圧するような空気はなかった。ただ、金色の瞳がまっすぐに一樹を見ている。
「はい。少しだけですけど」
一樹が答えると、男は卓の上の壺へ視線を落とした。
「吐き出さなかったのか」
「吐き出す?」
「人間は皆、そうする。口に含んだ途端に咳き込んで、二度と飲もうとしない」
その言葉に、セレナが気まずそうに目を逸らした。男はそれに気づいたのか、ほんのわずかに口元を動かす。
「……そちらの騎士は、そうだったようだな」
「仕方ないでしょう。あんなに強いとは思わなかったのよ」
「責めてはいない。それが普通だ」
男は背中の革袋を床へ下ろした。どさり、と重い音が響く。女将が慣れた様子で近づき、袋の口を覗き込んだ。中には、薄紅色をした岩塩の塊がぎっしりと詰まっている。
「今回も上等だね。いつもの麦と交換でいいかい?」
「頼む」
短いやり取りだった。女将が奥へ下がると、男は暖炉のそばに立ったまま、もう一度一樹を見た。
「人間。名は」
「酒井一樹です。こっちはセレナ」
「グラウだ」
男はそれだけ名乗ると、一樹の手元の木杯に目を留めた。炎の模様が刻まれた木杯。その表面を、金色の瞳が静かになぞる。
「その杯は、ドワーフのものか」
「分かるんですか?」
「その彫りは、ドワーフにしかできない」
グラウの声に、わずかな敬意が混じった。
「竜人はドワーフを認めている。あれほど火と鉄に向き合い続ける種族は他にいない。……その杯を、どこで手に入れた」
「ドワーフの町を出る時に、若い鍛冶師たちが彫ってくれたんです」
「贈られたのか」
「はい」
グラウはしばらく黙っていた。それから、空いている椅子を引き、一樹たちの向かいに腰を下ろす。椅子が小さく軋んだ。
「それで。我らの酒はどうだった」
一樹は木杯の中を見つめた。お世辞を言うつもりはなかった。相手がそれを望んでいないことは、なんとなく分かる。
「すごく強かったです。喉から胸まで、一気に熱くなりました」
「そうだろう」
「ドワーフの火酒より強いと思います」
グラウの表情が、ほんの少しだけ誇らしげに緩んだ。
「当然だ。竜牙酒は、竜人の誇りだからな」
「竜牙酒っていうんですね」
「竜の牙のように、喉を噛む酒だ。強い者が造り、強い者が飲む」
「なるほど……」
一樹は頷き、少しだけ迷ってから続けた。
「それと、もう一つ感じたことがあって」
「言ってみろ」
「強さが通り過ぎた後に、ほんの少しだけ甘みが残ったんです。麦みたいな、穀物の甘み。すごく淡くて、気のせいかもしれないんですけど」
グラウの動きが止まった。金色の瞳が、わずかに見開かれる。
「……あれを、感じたのか」
「やっぱり、何かあるんですか?」
「岩麦の甘みだ」
グラウは低い声で言った。
「台地の痩せた土でも育つ麦でな。粒は小さいが、噛めば甘い。……だが、竜牙酒にしてしまえば、ほとんど分からなくなる。竜人でも、気にする者はいない」
「もったいないですね」
一樹の口から、思わずその言葉がこぼれた。セレナが慌てたように一樹を見る。だが、グラウは怒らなかった。ただ、不思議そうに一樹を見ている。
「もったいない?」
「あ、いえ。竜牙酒が駄目だって意味じゃないんです。強いお酒には、強いお酒の旨さがありますから」
一樹は木杯を軽く揺らした。
「ただ、せっかくの甘みが奥に隠れちゃってるなら、それが表に出てきたらどんな味になるんだろうって、気になって」
「表に出す方法などない」
「例えば、しばらく置いておくとか」
「置く?」
「造ってすぐに飲むんじゃなくて、何年か寝かせるんです。お酒って、時間が経つと味が変わることがあるので」
グラウは、はっきりと眉をひそめた。
「酒は、造ってすぐが一番強い。置けば置くほど弱くなる」
「弱くなる、ですか」
「そうだ。弱くなった酒は、竜人にとっては恥だ。飲む者もいない」
その言い方には、迷いがなかった。長い間、当たり前のこととして受け継がれてきた考えなのだろう。一樹はそれ以上、反論しなかった。
「そうなんですね」
「……お前は、引くのが早いな」
「竜人の皆さんのお酒ですから。俺が勝手に決めることじゃないです」
グラウはじっと一樹を見つめた。まるで、目の前の人間がどういう者なのか、測ろうとしているようだった。
女将が奥から戻ってきた。麦の詰まった袋を、グラウの足元へ置く。
「はいよ。いつもの分」
「助かる」
グラウは袋を確かめると、それを背負い直そうとした。一樹は木杯を卓に置き、立ち上がる。
「グラウさん」
「何だ」
「よかったら、一杯どうですか? 女将さんの宿のお酒ですけど」
グラウは動きを止めた。そして、ゆっくりと首を横に振る。
「竜人は、認めた者としか杯を合わせない」
「……そうですか」
「お前を侮っているわけではない。それが我らの決まりだ」
「分かりました」
一樹はあっさりと頷いた。グラウはまた、少しだけ意外そうな顔をした。
「明日の朝、台地へ戻る」
背を向けたまま、グラウが言った。
「お前たちが上へ行くつもりなら、道は険しい。風も強い。人間が一人で登れば、迷うか、崖から落ちる」
「それは……困りますね」
「だから」
グラウは振り返らなかった。
「ついて来られるなら、案内してやる」
一樹は思わずセレナと顔を見合わせた。セレナは小さく肩をすくめ、それから頷く。
「お願いします」
一樹が答えると、グラウは短く「夜明けだ」とだけ言い残し、二階への階段を上がっていった。足音が遠ざかり、宿の中に再び静けさが戻る。
「……驚いたね」
女将がぽつりと呟いた。
「あの竜人が、人間を連れて上がるなんて。何年もここに来てるけど、初めてだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。よっぽど、あんたの言ったことが引っかかったんだろうね」
一樹は卓の上の木杯を手に取った。底には、まだ竜牙酒がほんの少しだけ残っている。透明な酒の奥に、あの淡い甘みが眠っている気がした。
「どんなところなんでしょうね、台地って」
「雲の上なんでしょう。寒いわよ、きっと」
「お酒があれば大丈夫ですよ」
「そういう問題じゃないわよ」
セレナが呆れたように笑う。一樹も笑った。
その夜、窓の外では一晩中、風が鳴っていた。
翌朝。まだ空が白み始める前に宿を出ると、グラウはすでに道標の前に立っていた。背には、昨日交換した麦の袋。その向こうには、雲の中へ消えていく細い山道が続いている。
「遅れるな」
それだけ言って、グラウは歩き出した。
一樹とセレナは、その大きな背中を追って、雲の上へ続く道を登り始めた。
次回に続く。




