第43話 雲の上へ続く道
街道を歩き始めて、五日が過ぎた。森を出た頃は遠くにかすんでいた青い山々が、今では見上げるほどの高さで目の前に迫っている。足元の道も少しずつ姿を変え、柔らかな草地はいつの間にか消えて、乾いた土と砂利の坂道になっていた。
何より変わったのは風だった。山の上から吹き下ろしてくる風は冷たく、乾いている。ドワーフの町へ向かった時も山道を歩いたが、あの時は谷の底から鉄と煙の匂いが昇ってきた。ここには、何の匂いもない。ただ冷たい空気だけが、山の上から絶え間なく流れてくる。
「寒くなってきましたね」
「標高が上がってきたもの。この先はもっと冷えるわよ」
セレナはそう言って、マントの襟を少しだけ引き寄せた。
一樹は山の稜線を見上げる。中腹から上は白い雲に覆われていて、頂がどこにあるのかも分からない。
「竜人族の集落って、あの雲の上なんですか?」
「そう聞いているわ。山の上に、広い台地があるんですって」
「雲の上に住んでるって、なんだかすごいですね」
「感心するところ、そこ?」
「だって雲の上ですよ。そこで飲むお酒、絶対に美味しいと思うんです」
セレナは小さくため息をついた。それでも、口元は笑っている。
「……まあ、あなたらしいけど」
昼を少し過ぎた頃、坂道の先に小さな宿場が見えてきた。石を積んだ低い塀に囲まれ、十軒ほどの家が身を寄せ合うように建っている。どの家も屋根が低く、窓は小さい。強い風に耐えるための造りなのだろう。街道の脇に立つ古い道標には、かすれた文字で『これより先、竜の台地』と刻まれていた。
「ここが、人間の住む最後の場所みたいね」
「宿、ありますかね」
「あるはずよ。竜人族と取引をする商人が泊まるって聞いたから」
宿場で一番大きな建物の扉を開けると、暖かい空気が二人を包んだ。中央には暖炉があり、その前で年配の女将が大鍋をかき混ぜている。他に客の姿はなかった。
「いらっしゃい。こんな時期に旅人とは珍しいね」
「二人、泊まれますか?」
「部屋なら空いてるよ。埋まってる日の方が少ないくらいさ」
女将は笑いながら、二人を暖炉のそばの卓へ案内した。運ばれてきたのは、羊肉と根菜をじっくり煮込んだ素朴な料理だった。冷えた身体に、温かさがゆっくりと染み込んでいく。
「美味しい……」
「山の上じゃ、身体を温めるものが一番のごちそうだからね」
女将は満足そうに頷き、向かいの椅子に腰を下ろした。
「それで、どこまで行くんだい?」
「竜人族の集落です」
女将の手が、ぴたりと止まった。
「上まで登るのかい」
「はい。竜人族がどんなお酒を飲んでいるのか、気になって」
女将は一樹の顔をまじまじと見つめ、それから声を上げて笑った。
「商人でも騎士様でもなく、酒目当てで竜の台地へ登る人なんて初めて見たよ」
「酒好きなもので」
「そうかい、そうかい」
女将はしばらく笑っていたが、やがて何かを思い出したように立ち上がった。棚の奥から、小さな陶器の壺を持って戻ってくる。
「上の酒なら、一つだけ置いてあるよ。この前、岩塩を売りに来た竜人が置いていったのさ」
「本当ですか!」
「ただし、誰も飲めやしないけどね」
一樹は背負い袋から、ドワーフの若者たちが彫ってくれた木杯を取り出した。炎の模様が刻まれた木杯に、壺の酒をほんの少しだけ注ぐ。色はほとんど透明だった。香りを確かめようと顔を近づけた瞬間、一樹は思わずのけぞった。鼻の奥を刺すような、鋭い刺激。香りというより、熱そのものが立ち上ってくる。
「……これは」
「気をつけなよ。一気に飲んだら喉が焼けるからね」
一樹は小さく頷き、ほんの一口だけ口に含んだ。
途端に、喉から胸の奥まで熱が駆け抜けた。思わず目をつぶる。ドワーフの火酒も強かった。けれど、あの酒は喉の熱が引いた後、燻した樽の香りと麦の甘みがゆっくりと追いかけてきた。この酒は違う。強さだけがまっすぐに通り抜けて、後には何も残らない。
「……強い」
「だろう?」
「セレナも飲んでみます?」
「……少しだけね」
セレナは木杯を受け取り、慎重に唇を湿らせる程度に口をつけた。次の瞬間、激しく咳き込む。
「な、何よこれ……!」
「ね、すごいでしょう」
「どうして嬉しそうなのよ」
女将が腹を抱えて笑った。
「騎士様でもそうなるんだ。人間の商人が買わないのも分かるだろう?」
「竜人族の皆さんは、これを普通に飲んでるんですか?」
「普通どころか、これを飲み干せて初めて一人前なんだとさ」
女将は暖炉に薪を一本足しながら続けた。
「竜人族にとって、酒の強さは誇りなんだよ。強い酒を造れる者が尊敬されて、強い酒を飲める者が戦士として認められる。だから、酒はどんどん強くなる一方さ」
「誇り、ですか」
「勘違いしないでおくれよ。荒っぽい連中じゃないんだ。むしろ礼儀正しいくらいでね。約束は必ず守るし、値切りもしない。ただ、とにかく誇りが高い」
一樹は木杯の中の酒を見つめた。強い酒が悪いとは思わない。強い酒には、強い酒にしかない旨さがある。それは、ドワーフの火酒が教えてくれたことだった。
もう一口だけ、今度はゆっくりと口に含む。喉の熱が過ぎ去るのを待つと、舌の奥に、ほんのわずかに何かが残っていた。穀物の甘みのような、気のせいだと言われればそれまでの、淡い味。
「……あれ」
「どうしたの?」
「いや、気のせいかもしれないんですけど」
一樹は木杯を傾け、透明な酒を暖炉の灯りにかざした。
「このお酒、強さの奥に何か隠れてる気がするんですよ」
「また始まったわね」
セレナが呆れたように言う。けれど、その声はどこか楽しそうだった。
「女将さん、これって何から造ってるか分かります?」
「さあねぇ。台地で採れる麦みたいなもんだって聞いたことはあるけど、詳しくは知らないよ。竜人は自分たちの酒のことを、あまり人間には話さないからね」
「そうですか……」
一樹はもう一度、木杯の中を覗き込んだ。何から造られているのか。どうやって造っているのか。なぜ、あの淡い甘みが強さの奥に埋もれてしまっているのか。考え始めると、止まらなくなる。
外では風が強くなっていた。窓を叩く音が、ひゅう、と低く唸る。日はいつの間にか傾き、小さな窓の向こうの空は、薄い茜色に染まり始めていた。
その時だった。
宿の扉が、ゆっくりと開いた。冷たい風が一気に吹き込み、暖炉の火が大きく揺れる。
入ってきたのは、一人の男だった。扉の枠に頭が届きそうなほど背が高い。こめかみから後ろへ向かって、二本の黒い角が伸びている。首筋から頬にかけては、灰色の鱗が薄く覆っていた。背中には、大きな革袋を背負っている。
男の金色の瞳が、静かに宿の中を見渡した。
「おや、今日は早いね」
女将が声をかける。男は短く頷いただけで、答えなかった。
その視線が、卓の上の壺で止まる。それから、一樹が手にしている木杯へと移った。
「……人間が、それを飲んだのか」
低く、よく響く声だった。
次回に続く。




