第39話 森の宴
月雫酒が完成した翌日。一樹は朝から集落の広場にいた。完成した酒を入れた木桶を前に、どうやってエルフたちと飲むかを考えている。とはいえ、難しく考える必要はなかった。酒を作る過程で、すでに何人ものエルフと話をしている。昨日まで遠巻きに見ていた者たちも、今では自然に一樹の周りへ集まるようになっていた。
「一樹。」
「はい?」
「本当に、みんなで飲むのですか?」
セレフィアが広場を見渡す。
「そのつもりです。」
「……そうですか。」
「せっかく作ったんですから、一緒に飲んだ方が美味しいでしょう。」
一樹が笑うと、セレフィアも小さく微笑んだ。
「そうですね。」
そこへ、昨日酒造りを見に来ていた若いエルフが近づいてきた。
「本当に飲ませてもらえるのか?」
「もちろん。」
「人間の酒だぞ?」
「もう何度も試飲してるじゃないですか。」
「あれは味見だ。」
「じゃあ今日は本番ですね。」
若いエルフは嬉しそうに笑った。
「楽しみだ。」
その言葉を聞いていた別のエルフも近づいてくる。
「私も飲んでみたい。」
「俺も。」
「森葡萄が酒になるとは、まだ信じられない。」
「飲めば分かりますよ。」
少しずつ人が増えていく。
その光景を見ながら、一樹は不思議な気持ちになっていた。
この集落へ来たばかりの頃は、誰も近づいてこなかった。道を歩くだけで視線を感じ、話しかけようとしても距離を置かれていた。それが今では、酒を飲むためにエルフたちが集まっている。
酒を作っていただけなのに。
その酒が、人と人の間にあった距離を少しずつ縮めていた。
「長老も来るんでしょうか?」
「来ます。」
セレフィアが答える。
「長老から許可をいただいたのですから、最後まで見届けるそうです。」
「それなら安心ですね。」
「何がです?」
「長老に『やっぱり酒を作るのは禁止だ』って言われたら困るので。」
セレフィアが少し笑う。
「大丈夫だと思います。」
やがて長老が広場へ姿を見せた。
その瞬間、集まっていたエルフたちが自然と静かになる。
長老は一樹の前まで歩いてくると、木桶へ視線を向けた。
「これが、完成した酒か。」
「はい。」
一樹は木桶の蓋を開けた。
森葡萄の甘い香りが、広場へ広がっていく。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「……良い香りだ。」
「これが森葡萄なのか?」
「いつもの香りとは違う。」
エルフたちが次々と声を漏らす。
一樹は木桶から月雫酒を木杯へ注いだ。
深い赤色の酒が、ゆっくりと木杯を満たしていく。
昼間の光を受けても、その赤は美しかった。
「長老、まず飲んでみますか?」
「うむ。」
長老は木杯を受け取った。
静かに香りを確かめ、一口飲む。
「……。」
長老はしばらく何も言わなかった。
一樹も黙って待つ。
やがて長老が木杯を下ろした。
「森葡萄だ。」
「はい。」
「だが、森葡萄ではない。」
一樹が首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
「同じものから作ったとは思えぬほど、別の味になっている。」
長老はもう一口飲んだ。
「不思議な酒だ。」
「気に入ってもらえました?」
「……悪くない。」
「それ、たぶんかなり褒めてますよね。」
周囲から笑い声が上がった。
長老も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「では。」
長老が木杯を掲げる。
周囲のエルフたちも、それぞれ木杯を手に取った。
「森の恵みに。」
静かな声が広場に響く。
「森の恵みに。」
エルフたちが続く。
一樹も木杯を掲げた。
そして、セレフィアと目が合う。
セレフィアも木杯を持ち上げていた。
「月に祝福を。」
一樹が言う。
セレフィアが微笑む。
「月に祝福を。」
木杯同士が触れ合った。
カチン。
その瞬間、乾杯の盟約が静かに発動した。
「では、いただきます。」
誰かがそう言った。
次々と木杯が口へ運ばれていく。
「……美味しい。」
「本当に。」
「甘いのに、後から少し苦みが来る。」
「この香りは何だ?」
「森葡萄の香りが残っている。」
エルフたちは思い思いに感想を口にしていく。
一樹はその様子を見ながら、嬉しそうに笑った。
「よかった。」
「何がです?」
セレフィアが隣で尋ねる。
「みんなが美味しいって言ってくれて。」
「あなたは、本当に酒が好きなのですね。」
「好きですよ。」
一樹は迷いなく答えた。
「でも、それ以上に好きなのかもしれません。」
「何がです?」
「こうやって、一緒に飲むことが。」
セレフィアは一瞬、言葉を失った。
乾杯の盟約によって、一樹の言葉に偽りがないことは分かっている。
「……そうですか。」
「はい。」
セレフィアは木杯へ視線を落とした。
その横で、セレナが二人を見ている。
少し離れた場所では、長老もまた静かに二人の様子を見ていた。
二人とも、何も言わなかった。
宴が進むにつれ、エルフたちの口数も増えていった。
「正直に言えば、人間がここへ来ると聞いた時は嫌だった。」
若いエルフが木杯を持ったまま言った。
「嫌だった?」
一樹が尋ねる。
「怖かったんだ。」
「怖い?」
「人間が何をするのか分からなかったからな。」
別のエルフも頷く。
「我々は長い間、この森だけで暮らしてきた。」
「外の人間と話す機会など、ほとんどなかった。」
「だから、人間そのものが嫌いだったわけじゃない。」
一樹は黙って聞いていた。
「知らないから、遠ざけていた。」
その言葉に、一樹は長老を見る。
長老は静かに木杯を傾けていた。
「なるほど。」
一樹は頷いた。
「じゃあ、俺が来たのも悪くなかったですか?」
「……そうだな。」
若いエルフが笑う。
「少なくとも、森葡萄からこんな酒ができることは分かった。」
「それだけですか?」
「それだけではない。」
別のエルフが口を挟む。
「人間も、我々と同じように酒を飲んで笑うのだと分かった。」
「それ、結構大きな発見ですね。」
広場に笑い声が広がる。
一樹も笑った。
セレフィアはその光景を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
人間とエルフ。
種族は違う。
暮らしている場所も、長い歴史も違う。
それでも、同じ酒を飲んで笑うことはできる。
「セレフィアさん。」
「はい?」
「セレフィアさんは、俺と酒を作ってどうでした?」
突然の問いに、セレフィアの手が止まった。
「……。」
乾杯の盟約がある。
だから、偽りの言葉を返すことはできない。
「楽しかったです。」
「俺もです。」
「それに……。」
セレフィアは一樹を見る。
「あなたと一緒に作れて、よかったと思っています。」
一樹は嬉しそうに笑った。
「俺も同じです。」
その答えに、セレフィアの胸が大きく高鳴る。
「……ありがとうございます。」
一樹はその意味を深く考えず、木杯を掲げた。
「じゃあ、もう一杯いきましょう。」
「はい。」
セレフィアも木杯を掲げる。
月雫酒を囲んだ宴は、まだ始まったばかりだった。
次回に続く。




