第38話 月雫酒
翌日。一樹とセレフィアは、朝から酒造りを続けていた。昨日までに試したものを一つずつ確認しながら、魔力の量と酒の変化を記録していく。魔力を少なくすれば森葡萄の香りは残るが、変化が弱い。多くすれば香りは強くなるものの、森葡萄本来の味が薄れてしまう。
「やっぱり、ほんの少しの差ですね。」
「はい。多すぎても少なすぎても、うまくいきません。」
「じゃあ、その間を探しましょう。」
一樹は木杯を並べた。
「昨日より細かく分けてみます。」
「分かりました。」
セレフィアは一つ目の木杯を手に取った。
ほんの少しだけ魔力を加える。
次は、それよりわずかに多く。
さらにもう一つ。
同じ作業を何度も繰り返す。
一樹はそれぞれを飲み比べ、香りや味を確かめていった。
「これは違う。」
「こちらもですか?」
「うん。悪くはないけど、昨日の方がいい。」
「では、こちらは?」
「……近い。」
一樹は木杯をじっと見つめる。
「でも、まだ何か足りない。」
「難しいですね。」
「本当に。」
二人は顔を見合わせて笑った。
それからも試行錯誤は続いた。
昼になっても、二人は酒造りを続けていた。集落のエルフたちも少しずつ様子を見に来るようになり、以前のように遠くから眺めるだけではなく、木杯を覗き込んだり、一樹に味の違いを尋ねたりするようになっていた。
「これは何が違うの?」
「魔力の量です。」
「こっちは?」
「少しだけ多くしています。」
「そんな少しで変わるの?」
「飲み比べてみます?」
一樹が木杯を差し出すと、エルフは少し迷ってから受け取った。
「……本当に違う。」
「分かります?」
「こっちの方が香りが強い。」
「そうなんです。」
エルフは感心したように酒を眺めた。
「酒って、こんなに細かく変わるのか。」
「俺も驚いてます。」
その会話を聞いていたセレフィアが、小さく笑った。
以前なら、エルフたちが人間の酒に興味を示すことなど考えられなかった。
それが今では、一樹の周りに自然と人が集まっている。
その光景を見ていると、セレフィアの胸は不思議と温かくなった。
午後になる頃には、試した木杯の数もかなり増えていた。
「これかな。」
一樹が一つの木杯を持ち上げる。
「昨日より、かなり良くなってる。」
セレフィアも口をつける。
「……確かに。」
「香りもいい。」
「味も柔らかいです。」
「でも。」
一樹は木杯を傾ける。
「まだ、何か足りない。」
セレフィアは酒を見つめた。
「何でしょう。」
「分からない。」
一樹は少し考えた。
「一度、昨日と同じように月の下で試してみませんか?」
「はい。」
夕方になると、一樹たちは仕込み道具を片付け、夜の準備を始めた。
そして夜。
二人は昨日と同じ泉へ向かった。
月は昨日より高い位置にあり、森を静かに照らしている。
一樹は試す酒を木杯へ注いだ。
「今日は、これです。」
「昨日より魔力を少しだけ増やしたものですね。」
「はい。」
セレフィアは頷き、木杯を両手で包む。
「では。」
静かに目を閉じる。
魔力が集まっていく。
一樹は酒の中の変化を見つめた。
「……もう少し。」
「ここですか?」
「はい。」
セレフィアが魔力をほんの少しだけ増やす。
その瞬間だった。
木杯の中で、酒が淡く揺れた。
「……え?」
一樹が目を見開く。
赤紫色だった酒が、ゆっくりと色を変えていく。
紫の色味が薄れ、深い赤へと変わっていく。
そして最後には、今までの酒とは明らかに違う、鮮やかな深紅になった。
「セレフィアさん。」
「はい。」
「今、色が……。」
「私も見ました。」
二人は言葉を失った。
深紅の酒は、月明かりを受けながら静かに揺れている。
一樹が木杯を少し持ち上げる。
すると、酒の表面に月が映り込んだ。
深紅の中に、白い月が一つ浮かんでいる。
まるで月そのものが、酒の中へ雫となって落ちたようだった。
「……綺麗。」
セレフィアが小さく呟く。
一樹も、しばらく木杯から目を離せなかった。
「……月が入ってるみたいだ。」
その言葉を聞いて、セレフィアが一樹を見る。
「月が……。」
一樹は木杯を見つめたまま考える。
「月の雫。」
「月の……雫。」
「月雫酒。」
一樹が呟く。
「……いい名前ですね。」
セレフィアは微笑んだ。
「うん。」
一樹は木杯を持ち上げる。
「じゃあ、飲んでみましょう。」
「はい。」
二人は同時に酒を口にした。
森葡萄の香りが、今まで以上に柔らかく広がる。
甘みと酸味が穏やかに重なり、その後を淡い花のような香りが追いかけてくる。
そして、飲み込んだ後も、その香りが静かに残った。
「……美味しい。」
一樹が呟く。
「はい。」
セレフィアも頷いた。
その声には、いつもより少しだけ嬉しさが滲んでいた。
一樹は月明かりの下で、もう一度木杯を眺める。
深紅の酒。
その中に浮かぶ月。
「月雫酒。」
その名前を、今度ははっきりと口にした。
セレフィアは隣で静かに微笑んでいた。
その夜、二人が生み出した酒は、森の静かな月明かりの中で完成した。
次回に続く。




