第37話 月の下で
翌日。一樹とセレフィアは、前日に作った試作品を並べていた。魔力を加えなかったもの、少量だけ加えたもの、少し多めに加えたもの。それぞれを飲み比べてみると、確かに違いがある。魔力を加えた酒は香りが強くなり、後味も長く残る。ただ、魔力を増やせば増やすほど良くなるわけではなかった。量を間違えると、森葡萄本来の香りが弱くなってしまう。
「やっぱり、入れすぎると駄目ですね。」
「はい。昨日のものより、こちらの方が香りが弱く感じます。」
「魔力にも適量があるってことか。」
一樹は木杯を並べ直しながら考える。
「でも、どれくらいが一番いいのかが難しい。」
「魔力を感じ取ることならできます。」
「じゃあ、酒の状態を見ながら調整できたりします?」
「酒の状態を?」
「魔力を入れた時に、何か反応があるとか。」
「……試してみます。」
セレフィアは新しい木杯を手に取った。少量の酒を注ぎ、目を閉じる。指先から淡い魔力が流れ、赤い液体へ溶け込んでいく。
「ここで止めます。」
「どうですか?」
「分かりません。」
「ですよね。」
一樹は苦笑した。
「じゃあ、飲んでみましょう。」
二人で味を確かめる。
「……さっきよりいい。」
「私もそう思います。」
「魔力の量だけじゃなくて、入れ方にも何かあるのかな。」
一樹は首を傾げた。
同じ量の魔力を加えても、毎回まったく同じ味にはならない。セレフィアが意識して魔力を流した時と、何も考えずに流した時でも微妙に違っているようだった。
「魔力って、気持ちでも変わったりします?」
「気持ちですか?」
「例えば、怒ってる時と落ち着いてる時とか。」
「多少は変わると思います。」
「じゃあ、それも関係してるのかもしれない。」
一樹は酒を眺めた。
「面白いな。」
「面白い?」
「うん。酒って、作る人によって味が変わることがありますから。」
「魔力まで関係するなら、さらに複雑ですね。」
「だから面白いんですよ。」
セレフィアは一樹を見た。
酒の話をしている時、一樹は本当に嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、セレフィアの胸も自然と温かくなった。
以前は、ただ人間の酒造りに興味を持っていただけだった。けれど今は違う。一樹が何を考えているのか。一樹が何を喜ぶのか。そんなことまで気になってしまう。
その気持ちに気づいてから、セレフィアは以前よりも一樹を意識するようになっていた。
「セレフィアさん?」
「はい?」
「どうかしました?」
「いえ。」
セレフィアは小さく首を振る。
「何でもありません。」
「そうですか。」
一樹は深く考えず、再び酒へ視線を戻した。
その様子を少し離れた場所からセレナが見ていた。セレナは何も言わない。ただ、セレフィアが一樹を見る時の表情を見れば、それが酒造りだけのものではないことくらい分かる。
けれど、それを口にするつもりはなかった。
昼を過ぎても、一樹たちは酒造りを続けていた。森葡萄の香りを残しながら、魔力によって生まれる変化をどう活かすか。試しては飲み、記録して、また試す。その繰り返しだった。
やがて日が傾き、森の木々の間から差し込む光が少しずつ赤みを帯びていく。作業を一度終えた一樹が道具を片付けていると、セレフィアが空を見上げた。
「一樹。」
「はい?」
「少し外で試してみませんか?」
「外?」
「はい。今夜は月が綺麗になりそうです。」
一樹も空を見上げる。まだ月は見えていない。けれど、夕暮れの空には夜の気配が少しずつ近づいていた。
「月の光の下で、魔力を使ったら何か違うかもしれません。」
「なるほど。」
一樹は少し考えた。
「やってみましょう。」
夜。
二人は集落から少し離れた場所にある、小さな泉のそばへ向かった。木々の隙間から差し込む月明かりが、水面を静かに照らしている。
一樹は持ってきた木杯へ酒を注いだ。
「ここなら落ち着いてできますね。」
「はい。」
セレフィアは木杯を受け取る。
「では。」
「お願いします。」
セレフィアが目を閉じる。森の中を流れる魔力が、ゆっくりと集まっていく。淡い光がセレフィアの指先に集まり、木杯の中へ静かに溶けていく。
一樹はその様子を見つめていた。
そして、セレフィアが魔力を止める。
「これくらいでしょうか。」
「飲んでみましょう。」
二人は木杯を口に運ぶ。
森葡萄の香り。柔らかな甘み。そして、今までにはなかった不思議な余韻。
「……これ。」
「どうですか?」
一樹はすぐには答えなかった。もう一度、ゆっくりと味わう。
「今までで一番好きかもしれない。」
セレフィアは少し嬉しそうに微笑んだ。
「私もです。」
一樹は木杯を月明かりへかざした。赤紫色の酒が、月の光を受けて静かに揺れる。
「綺麗だな。」
「はい。」
「これ、もう少し魔力を調整したら、もっと良くなるかもしれない。」
「まだ試すのですか?」
「ここまで来たら、試したいです。」
一樹は笑った。
「せっかくセレフィアさんが手伝ってくれてるんですから。」
その言葉に、セレフィアは一瞬だけ目を伏せた。
「……はい。」
二人は再び木杯を並べた。魔力を少し減らす。ほんの少し増やす。入れる速度を変える。同じことを何度も繰り返す。
けれど、思ったような結果は出ない。
「難しいですね。」
「本当に。」
一樹は木杯を見比べる。
「あと少しなんだけどな。」
「あと少し……。」
セレフィアも酒を見つめる。
何が足りないのか。魔力の量なのか。入れ方なのか。それとも、別の何かなのか。
答えは、まだ分からない。
やがて夜が深くなり、森は静寂に包まれていった。
一樹は最後に残った木杯を持ち上げる。
「今日はここまでにしましょう。」
「はい。」
セレフィアも頷いた。
二人は並んで泉のそばに座り、月を見上げた。
「明日、もう一度試しましょう。」
「……はい。」
セレフィアは月を見上げながら、小さく笑った。
まだ完成ではない。それでも、ここまで一緒に作ってきた時間は、不思議と心地よかった。
泉の水面に月が揺れている。そして二人の手元では、赤紫色の酒が静かに月明かりを受けていた。
一樹はふと木杯を見つめた。
「……この酒、完成したらどんな色になるんだろうな。」
セレフィアは木杯を見つめる。
「今より綺麗になるかもしれませんね。」
「そうなったらいいな。」
二人はそう言って笑った。
月は静かに森を照らしていた。
次の日も、二人の酒造りは続くことになる。
次回に続く。




