第36話 魔力を一滴
「酒に魔力を加える」という一樹の思いつきは、口にしてみれば簡単なものだった。だが、セレフィアにとっては聞いたこともない話だった。魔力はエルフにとって身近なものだ。火を起こしたり、水を操ったり、森で生活するために使うこともある。けれど、酒の味を変えるために使うなどという発想は、誰も持っていなかった。
「本当に、やってみるのですか?」
「うん。もちろん、いきなり全部には入れません。」
一樹は木桶の中の酒を見ながら答えた。
「少しだけ別の容器に取って、そこで試してみましょう。」
「もし失敗したら?」
「その時は、飲めない酒が一杯できるだけです。」
「あなたは簡単に言いますね。」
「失敗したら、次を試せばいいですから。」
セレフィアは一樹の顔を見る。失敗することを恐れていないわけではない。ただ、一樹は失敗した先に何かがあると、本気で信じているようだった。
「……分かりました。」
「じゃあ、お願いします。」
一樹は小さな木杯に発酵を終えた森葡萄酒を注いだ。赤い液体が木杯の中で揺れる。
「まずは、普通の魔法を使う時と同じように魔力を集めてみてください。」
「魔力を集めるだけでいいのですか?」
「はい。ただ、酒に触れさせるくらいで。」
「分かりました。」
セレフィアは木杯を両手で包んだ。目を閉じる。周囲の空気が、ほんの少し変わった。一樹には魔力そのものを見ることはできない。だが、セレフィアの周囲に漂う空気が微かに揺れたように感じた。
「これで……。」
「そのまま、少しだけ。」
セレフィアの指先から、淡い光が一瞬だけ木杯へ流れ込んだ。
「もう大丈夫です。」
セレフィアが手を離す。一樹はすぐに木杯を覗き込んだ。
「見た目は……変わってないですね。」
「魔力を加えただけですから。」
「じゃあ、飲んでみます。」
「待ってください。」
セレフィアが止める。
「先に私が飲みます。」
「え?」
「もし何か問題があったら。」
「でも、セレフィアさんに飲ませるのは……。」
「私が魔力を加えたのですから、確認する責任があります。」
一樹は少し考えた。
「分かりました。でも、変だと思ったらすぐ止めてください。」
「はい。」
セレフィアは木杯を口元へ運ぶ。少量を口に含み、ゆっくりと味を確かめる。
「……。」
「どうですか?」
「……少し、違います。」
「本当ですか?」
「はい。」
一樹が木杯を受け取る。
「じゃあ、俺も。」
一樹も口に含む。森葡萄の甘酸っぱさ。ほどよい渋み。そこまでは同じだった。だが、その後に残る香りが違う。
「……あれ?」
「分かりますか?」
「うん。」
一樹はもう一度飲む。
「香りが少し強くなってる。」
「そうですか?」
「それに、後味が前より長い。」
一樹の顔が明るくなる。
「これだ。」
「何がです?」
「足りなかったもの。」
一樹は木杯を見つめた。
「さっきの酒も美味しかった。でも、飲み終わった後にすぐ味が消えていたんです。」
「ですが、今は……。」
「香りが残ってる。」
一樹は嬉しそうに笑う。
「森葡萄の香りが、飲み終わった後にも残ってる。」
セレフィアは木杯を見つめる。自分が加えた魔力が、酒の中で何かを変えた。けれど、本人にはその仕組みが分からない。
「魔力を加えるだけで、こんな変化が……。」
「でも、まだ分からないことだらけです。」
「何がです?」
「どれくらい魔力を入れればいいのか。魔力を入れるタイミングはいつがいいのか。それに、誰がやっても同じになるのか。」
一樹は次々と考え始める。
「魔力の種類によって味が変わる可能性もある。」
「魔力の種類?」
「人によって魔力の性質が違うとか、そういうのはないんですか?」
セレフィアは少し考える。
「あります。」
「やっぱり。」
「ただ、酒に使ったことはありません。」
「じゃあ、これも試してみる価値がありますね。」
セレフィアは苦笑した。
「あなたは本当に、何でも試したがるのですね。」
「酒のことになると、特に。」
「知っています。」
セレフィアの口から自然に笑みがこぼれる。一樹も笑った。その様子を、少し離れた場所からセレナが見ていた。
セレフィアが笑っている。昨日までとは明らかに違う。そして、一樹を見る目も。
セレナは何も言わなかった。ただ、静かに二人を見守っていた。
「まずは、少量ずつ試しましょう。」
一樹は新しい木杯をいくつか並べた。
「魔力を入れないもの。」
「少量入れたもの。」
「少し多めに入れたもの。」
「それから、魔力を入れるタイミングも変えてみる。」
「そんなに違いが出るでしょうか?」
「分かりません。」
一樹は笑った。
「だから、試すんです。」
セレフィアも頷いた。
「分かりました。」
二人は並んで作業を始めた。魔力を加える量を変える。時間を変える。香りを確かめる。味を比べる。何度も試しているうちに、集落のエルフたちも少しずつ集まってきた。
「何をしているの?」
「酒を試しているんです。」
「さっきと違うの?」
「少しずつ違います。」
「飲んでもいい?」
「まだ実験中なので、完成してから。」
そう答えると、エルフたちは残念そうに離れていく。だが、誰も一樹を追い払おうとはしなかった。むしろ、次にどんな酒ができるのかを楽しみにしているようだった。
夕方になった頃。一樹は最後の木杯を手に取った。
「これ……。」
「どうしました?」
「一番いいかもしれない。」
セレフィアも木杯を受け取り、口をつける。森葡萄の香りが広がる。その後に、柔らかな甘みが続く。最後には、淡い花のような香りが残った。
「……綺麗な味。」
セレフィアが呟く。
「うん。」
一樹も頷く。
「これなら、もっと完成度を上げられる。」
「名前は?」
「名前?」
「この酒です。」
一樹は木杯の中を見つめた。まだ試作品だ。けれど、ただの森葡萄酒ではなくなっている。エルフの魔力が加わったことで、森葡萄が持っていた香りが変化した。
「まだ決めるのは早いかな。」
「そうですか。」
「もう少し試したい。」
「分かりました。」
セレフィアは笑った。
「では、もう少し付き合います。」
「お願いします。」
その言葉を聞いたセレフィアの胸が、また小さく高鳴った。酒造りを続けたいからなのか。一樹と一緒にいたいからなのか。もう、自分でも分かっていた。それでも、セレフィアはその気持ちを口にはしなかった。
ただ隣にいる。それだけで、今は十分だった。
そして二人はまだ知らない。この試作品が、やがてエルフの森に降り注ぐ月の光を思わせる一杯へと変わっていくことを。
次回に続く。




