↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/64

第35話 足りないもの

 森葡萄を仕込んでから、いくつもの日が過ぎた。集落の片隅に置かれた木桶は、最初の頃とは違う静けさを見せている。発酵によって生まれていた小さな泡も、今ではほとんど見えなくなっていた。


 一樹は木桶の蓋を開け、ゆっくりと中を覗き込む。


「……そろそろかな。」


 隣にいたセレフィアが、木桶の中を覗き込む。


「完成したのですか?」


「たぶん。」


「また、たぶんですか。」


「酒造りって、最後まで飲んでみないと分からないんですよ。」


 一樹は苦笑しながら、少量を木杯へ注いだ。液体は深い赤色をしている。光を受けると紫にも見える。鼻を近づけると、森葡萄の甘い香りと、発酵によって生まれた独特の香りが混ざっていた。


「見た目は、かなりそれっぽい。」


「それっぽい?」


「俺の知ってる赤ワインに似ています。」


 一樹は木杯をセレフィアへ差し出した。


「どうぞ。」


 セレフィアは少し戸惑った。


「私も飲むのですか?」


「一緒に作ったんですから。」


「……一緒に?」


「はい。」


 その言葉に、セレフィアの指がわずかに止まった。けれど、一樹は気づかない。


「味を確認してもらいたいんです。エルフの森葡萄から作った酒ですから。」


「分かりました。」


 セレフィアは木杯を受け取った。


 二人は並んで酒を口にする。


 一樹はまず舌の上で味を確かめた。森葡萄の甘酸っぱさ。ほどよい渋み。発酵によって生まれた香り。酒としては、十分に美味しい。


「……美味しい。」


 セレフィアも小さく呟いた。


「うん。」


 一樹も頷く。


「ちゃんと酒になってる。」


「それでは、成功ですね。」


「そうなんですけど……。」


 一樹はもう一度、木杯の中を覗いた。


「何か足りない。」


 セレフィアが一樹を見る。


「足りない?」


「うん。」


 一樹はもう一口飲む。


「美味しいんですよ。」


「はい。」


「森葡萄の香りも残ってるし、酸味もある。ちゃんと酒として楽しめる。」


「では、何が足りないのです?」


「それが分からない。」


 一樹は腕を組んだ。


 日本で飲んだ赤ワインを思い出す。もちろん、今ある酒と同じものになるはずはない。使っている葡萄も違う。製法も違う。それでも、何か一つ足りない気がした。


「もう少し香りが欲しいのかな。」


「香りですか?」


「それとも、後味……。」


 一樹は考え込む。


 セレフィアはそんな一樹をじっと見ていた。酒のことになると、いつもこうだ。目の前の酒だけを見ている。味を確かめ、香りを確かめ、何が足りないのかを真剣に考えている。


 そんな姿を見ていると、不思議と胸が温かくなる。


「……楽しそうですね。」


「え?」


「酒を作っている時。」


「ああ。」


 一樹は笑った。


「楽しいですよ。」


「そんなに?」


「はい。」


 即答だった。


 セレフィアは思わず目を伏せる。


「……そうですか。」


「セレフィアさんは?」


「私も。」


「楽しい?」


「はい。」


 その答えを口にした瞬間、セレフィアは自分でも少し驚いた。


 楽しい。


 それは酒造りだけではない。一樹と森を歩いたこと。森葡萄を一緒に探したこと。仕込みをしている間、何度も酒の話を聞かされたこと。完成した酒を、こうして一緒に飲んでいること。


 全部が楽しかった。


 そして、その理由が何なのか。


 セレフィアは、もう分かっていた。


 だからこそ、胸が少し苦しくなる。


「……セレフィア?」


「何でもありません。」


「顔、赤くないですか?」


「酒のせいです。」


「まだ一口ですよ?」


「……森の空気が暖かいのです。」


「そうかな。」


 一樹は首を傾げた。


 セレフィアは視線を逸らす。


 そんな二人を、少し離れた場所からセレナが見ていた。


 セレナは何も言わない。ただ、セレフィアの表情を見れば分かる。


 あの顔は、酒を飲んだからではない。


 そして、それに気づいている者が、もう一人いた。


「セレフィア。」


 長老だった。


「はい。」


「少しよいか。」


「はい。」


 二人が一樹から離れる。


 長老はしばらく黙っていた。


「最近、楽しそうだな。」


「……そうでしょうか。」


「以前のお前なら、人間とこれほど長く話すことはなかった。」


「一樹は、普通の人間とは少し違います。」


「そうか。」


 長老はそれ以上追及しなかった。ただ、セレフィアの横顔を見る。


「それだけか?」


「……。」


 セレフィアは答えなかった。


 長老も、それ以上は聞かなかった。


 それで十分だった。


 セレフィア自身が、もう気づいている。


 だから、言葉にする必要はない。


 一方、一樹は木桶の前で一人、腕を組んでいた。


「やっぱり、何か足りない。」


 セレナが近づく。


「まだ考えてるの?」


「うん。」


「十分美味しいと思うけど。」


「俺もそう思う。」


「じゃあ、いいんじゃない?」


「でも、もっと美味しくできる気がするんだよ。」


 一樹は酒を見つめる。


「この森葡萄の良さを、もっと引き出せる気がする。」


「どうやって?」


「それが分からない。」


 一樹は頭を掻いた。


「魔法でも使えたら、何か変えられたりするのかな。」


「魔法?」


「うん。」


 一樹はふと顔を上げた。


「そういえば。」


「エルフって、魔法とか使えるんですか?」


 セレナが答えるより先に、近くにいたセレフィアが振り返った。


「使えます。」


「やっぱり!」


 一樹の目が輝く。


「じゃあ、もしかして料理に使う魔法とかあります?」


「料理に?」


「火を起こすとか、水を出すとかじゃなくて。」


 一樹は酒の木桶を指差した。


「味を変えたり、香りを引き出したり。」


 セレフィアは少し考え込んだ。


「……そういう使い方をしたことはありません。」


「ない?」


「魔法は、生活の中で使うことはあります。」


「でも、料理には?」


「火を扱ったり、水を出したりする程度です。」


「なるほど。」


 一樹は木桶を見る。


 そして、セレフィアを見る。


「じゃあ。」


「ちょっと試してみません?」


 セレフィアは目を瞬かせた。


「何を?」


「魔力を、この酒に少しだけ。」


「酒に……?」


「はい。」


 一樹は笑う。


「もしかしたら、何か変わるかもしれません。」


 セレフィアは木杯の中の赤い酒を見る。


 そんな使い方をしたことはない。


 もちろん、一樹もそんな酒を見たことはない。


 だからこそ。


 二人は知らなかった。


 この小さな思いつきが、エルフにも、人間にも存在しなかった新しい酒を生み出すことになるとは。


 そして、その酒が。


 森に降り注ぐ月の光のような名前を持つことになることも。


 次回に続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。