第35話 足りないもの
森葡萄を仕込んでから、いくつもの日が過ぎた。集落の片隅に置かれた木桶は、最初の頃とは違う静けさを見せている。発酵によって生まれていた小さな泡も、今ではほとんど見えなくなっていた。
一樹は木桶の蓋を開け、ゆっくりと中を覗き込む。
「……そろそろかな。」
隣にいたセレフィアが、木桶の中を覗き込む。
「完成したのですか?」
「たぶん。」
「また、たぶんですか。」
「酒造りって、最後まで飲んでみないと分からないんですよ。」
一樹は苦笑しながら、少量を木杯へ注いだ。液体は深い赤色をしている。光を受けると紫にも見える。鼻を近づけると、森葡萄の甘い香りと、発酵によって生まれた独特の香りが混ざっていた。
「見た目は、かなりそれっぽい。」
「それっぽい?」
「俺の知ってる赤ワインに似ています。」
一樹は木杯をセレフィアへ差し出した。
「どうぞ。」
セレフィアは少し戸惑った。
「私も飲むのですか?」
「一緒に作ったんですから。」
「……一緒に?」
「はい。」
その言葉に、セレフィアの指がわずかに止まった。けれど、一樹は気づかない。
「味を確認してもらいたいんです。エルフの森葡萄から作った酒ですから。」
「分かりました。」
セレフィアは木杯を受け取った。
二人は並んで酒を口にする。
一樹はまず舌の上で味を確かめた。森葡萄の甘酸っぱさ。ほどよい渋み。発酵によって生まれた香り。酒としては、十分に美味しい。
「……美味しい。」
セレフィアも小さく呟いた。
「うん。」
一樹も頷く。
「ちゃんと酒になってる。」
「それでは、成功ですね。」
「そうなんですけど……。」
一樹はもう一度、木杯の中を覗いた。
「何か足りない。」
セレフィアが一樹を見る。
「足りない?」
「うん。」
一樹はもう一口飲む。
「美味しいんですよ。」
「はい。」
「森葡萄の香りも残ってるし、酸味もある。ちゃんと酒として楽しめる。」
「では、何が足りないのです?」
「それが分からない。」
一樹は腕を組んだ。
日本で飲んだ赤ワインを思い出す。もちろん、今ある酒と同じものになるはずはない。使っている葡萄も違う。製法も違う。それでも、何か一つ足りない気がした。
「もう少し香りが欲しいのかな。」
「香りですか?」
「それとも、後味……。」
一樹は考え込む。
セレフィアはそんな一樹をじっと見ていた。酒のことになると、いつもこうだ。目の前の酒だけを見ている。味を確かめ、香りを確かめ、何が足りないのかを真剣に考えている。
そんな姿を見ていると、不思議と胸が温かくなる。
「……楽しそうですね。」
「え?」
「酒を作っている時。」
「ああ。」
一樹は笑った。
「楽しいですよ。」
「そんなに?」
「はい。」
即答だった。
セレフィアは思わず目を伏せる。
「……そうですか。」
「セレフィアさんは?」
「私も。」
「楽しい?」
「はい。」
その答えを口にした瞬間、セレフィアは自分でも少し驚いた。
楽しい。
それは酒造りだけではない。一樹と森を歩いたこと。森葡萄を一緒に探したこと。仕込みをしている間、何度も酒の話を聞かされたこと。完成した酒を、こうして一緒に飲んでいること。
全部が楽しかった。
そして、その理由が何なのか。
セレフィアは、もう分かっていた。
だからこそ、胸が少し苦しくなる。
「……セレフィア?」
「何でもありません。」
「顔、赤くないですか?」
「酒のせいです。」
「まだ一口ですよ?」
「……森の空気が暖かいのです。」
「そうかな。」
一樹は首を傾げた。
セレフィアは視線を逸らす。
そんな二人を、少し離れた場所からセレナが見ていた。
セレナは何も言わない。ただ、セレフィアの表情を見れば分かる。
あの顔は、酒を飲んだからではない。
そして、それに気づいている者が、もう一人いた。
「セレフィア。」
長老だった。
「はい。」
「少しよいか。」
「はい。」
二人が一樹から離れる。
長老はしばらく黙っていた。
「最近、楽しそうだな。」
「……そうでしょうか。」
「以前のお前なら、人間とこれほど長く話すことはなかった。」
「一樹は、普通の人間とは少し違います。」
「そうか。」
長老はそれ以上追及しなかった。ただ、セレフィアの横顔を見る。
「それだけか?」
「……。」
セレフィアは答えなかった。
長老も、それ以上は聞かなかった。
それで十分だった。
セレフィア自身が、もう気づいている。
だから、言葉にする必要はない。
一方、一樹は木桶の前で一人、腕を組んでいた。
「やっぱり、何か足りない。」
セレナが近づく。
「まだ考えてるの?」
「うん。」
「十分美味しいと思うけど。」
「俺もそう思う。」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「でも、もっと美味しくできる気がするんだよ。」
一樹は酒を見つめる。
「この森葡萄の良さを、もっと引き出せる気がする。」
「どうやって?」
「それが分からない。」
一樹は頭を掻いた。
「魔法でも使えたら、何か変えられたりするのかな。」
「魔法?」
「うん。」
一樹はふと顔を上げた。
「そういえば。」
「エルフって、魔法とか使えるんですか?」
セレナが答えるより先に、近くにいたセレフィアが振り返った。
「使えます。」
「やっぱり!」
一樹の目が輝く。
「じゃあ、もしかして料理に使う魔法とかあります?」
「料理に?」
「火を起こすとか、水を出すとかじゃなくて。」
一樹は酒の木桶を指差した。
「味を変えたり、香りを引き出したり。」
セレフィアは少し考え込んだ。
「……そういう使い方をしたことはありません。」
「ない?」
「魔法は、生活の中で使うことはあります。」
「でも、料理には?」
「火を扱ったり、水を出したりする程度です。」
「なるほど。」
一樹は木桶を見る。
そして、セレフィアを見る。
「じゃあ。」
「ちょっと試してみません?」
セレフィアは目を瞬かせた。
「何を?」
「魔力を、この酒に少しだけ。」
「酒に……?」
「はい。」
一樹は笑う。
「もしかしたら、何か変わるかもしれません。」
セレフィアは木杯の中の赤い酒を見る。
そんな使い方をしたことはない。
もちろん、一樹もそんな酒を見たことはない。
だからこそ。
二人は知らなかった。
この小さな思いつきが、エルフにも、人間にも存在しなかった新しい酒を生み出すことになるとは。
そして、その酒が。
森に降り注ぐ月の光のような名前を持つことになることも。
次回に続く。




