第34話 森葡萄の酒
森葡萄を集落へ持ち帰ると、一樹たちの周囲には、昨日までとは少し違った空気が生まれていた。
もちろん、すべてのエルフが一樹たちを歓迎しているわけではない。
道を歩けば、視線を向けられる。
家の前を通れば、会話が止まる。
子どもが興味深そうに近づけば、親がそっと呼び戻す。
それでも、昨日とは明らかに違った。
昨日までは「人間がいる」というだけで距離を取られていた。
今日は、一樹が抱えている籠の中身が気になっている。
紫色の森葡萄。
それが何になるのか。
エルフたちは、少し離れた場所から様子を窺っていた。
「それ、本当にお酒になるの?」
最初に我慢できなくなったのは、昨日の少年エルフだった。
一樹が振り返ると、少年は母親の後ろから顔だけを出している。
「作ってみないと分からないけど、たぶん美味しいお酒になると思うよ。」
「どんなお酒?」
「赤い色のお酒。」
「赤い?」
「うん。俺のいた場所では、葡萄から赤いお酒を作ってたんだ。」
「葡萄って、これ?」
少年が籠を指差す。
「似てるけど、少し違うかな。」
一樹は森葡萄を一粒手に取る。
「でも、甘さと酸味のバランスがいいから、かなり近いものが作れると思う。」
「じゃあ、甘い?」
「甘いだけじゃないよ。」
「酸っぱくもなる。」
「大人の味ってこと?」
「たぶんね。」
少年が目を輝かせた。
「飲んでみたい!」
「こら。」
母親が少年の肩を掴む。
「人間が作る酒を、簡単に飲みたいなどと言ってはいけません。」
「でも、どんな味か気になる。」
「気になるのは分かります。」
一樹が笑いながら言うと、母親が少し驚いたように一樹を見る。
「……あなたは、怒らないのですね。」
「怒る理由がないですから。」
「人間なら、嫌な顔をするかと思いました。」
「俺だって、知らない人にいきなり『作った酒を飲んでください』って言われたら、ちょっと警戒しますよ。」
母親は黙った。
一樹はその反応を見て、少しだけ笑う。
「だから、飲みたいと思った時に飲めばいいんじゃないですか。」
「無理に勧めるつもりはありません。」
母親は小さく頷いた。
「……そうですか。」
少年はまだ籠の中を見ている。
「じゃあ、完成したら見せてくれる?」
「もちろん。」
「約束?」
「約束。」
少年が嬉しそうに笑う。
その様子を見ていたセレフィアが、少しだけ目を細めた。
「随分と簡単に約束をするのですね。」
「子どもとの約束くらい、いいじゃないですか。」
「エルフにとって約束は軽いものではありません。」
「それなら、ちゃんと守らないと。」
一樹が笑う。
セレフィアは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
そこへ、昨日の長老が歩いてきた。
白い髪を風になびかせながら、一樹の前で足を止める。
周囲のエルフたちが静かになる。
「森葡萄を酒にするそうだな。」
「はい。」
一樹は籠を見せた。
「セレフィアさんに教えてもらいました。」
「セレフィア。」
「はい。」
呼ばれたセレフィアが一歩前へ出る。
「森葡萄を採る許可を与えました。」
「そうか。」
長老は森葡萄を一粒取り出し、しばらく眺めた。
「我々にとっては、昔から馴染みのある果実だ。」
「食事にも使いますし、乾燥させることもあります。」
「ですが、酒にはしない。」
「どうしてですか?」
一樹が尋ねる。
「酒にする必要がなかったからだ。」
長老は淡々と答えた。
「森から与えられたものは、そのまま味わえばよい。」
「そういう考え方なんですね。」
「そうだ。」
「でも。」
一樹は少し考える。
「俺は、同じものでも形を変えることで、別の楽しみ方ができると思っています。」
長老は黙って一樹を見る。
「果物として食べれば、それは森葡萄の味です。」
「でも、酒にすれば、果物とは違う香りや味になる。」
「時間をかけることで、別のものになるんです。」
一樹は森葡萄を一粒、指先で転がした。
「俺は、そういうのが好きなんですよ。」
長老の視線が森葡萄へ落ちる。
「時間をかけて、別のものへ変える……か。」
「はい。」
「人間というものは、面白いことを考える。」
「褒めてもらえました?」
「まだ分からん。」
一樹は苦笑した。
「厳しいですね。」
周囲から小さな笑い声が聞こえた。
一樹が振り返ると、何人かのエルフが笑っている。
ほんの一瞬だった。
けれど、それは確かに笑い声だった。
昨日までなら、一樹が冗談を言っても誰も反応しなかった。
その変化が、少し嬉しい。
長老は周囲を見渡してから、静かに口を開いた。
「酒造りをするというのなら、好きにするといい。」
一樹は顔を上げた。
「本当ですか?」
「森葡萄を採ることも許す。」
「酒を造ることも許す。」
「ただし、森を傷つけることは許さん。」
「もちろんです。」
「必要以上に果実を採ることもするな。」
「分かりました。」
長老は頷く。
「そして、酒が完成するまで、この集落に滞在することも許そう。」
一樹は思わずセレナを見る。
セレナも驚いたように目を瞬かせていた。
「いいんですか?」
「昨日は朝になれば森を出すと言ったはずですが。」
セレフィアが尋ねる。
「事情が変わった。」
長老は一樹を見る。
「森葡萄からどのような酒が生まれるのか。」
「我々も見てみたい。」
「それだけですか?」
「それだけだ。」
長老は少し間を置く。
「それに。」
「客を追い出すほど、我々は閉ざされた種族ではない。」
その言葉に、一樹は少しだけ驚いた。
セレフィアも長老を見つめている。
「長老……。」
「何だ。」
「今の言葉は。」
「何かおかしいか?」
「いえ。」
セレフィアは首を横に振った。
「ただ、人間を森へ入れることを、あれほど嫌っていたのに。」
長老は少しだけ遠くを見る。
「嫌っているのではない。」
「では、なぜ?」
セレフィアの問いに、長老はすぐには答えなかった。
周囲のエルフたちも、静かに長老を見ている。
「知らぬものを遠ざける。」
「それだけのことだ。」
「人間が何を考え、何を大切にしているのか。」
「それを知らぬまま近づくことを、我々は避けてきた。」
長老はそこで言葉を切った。
「それを、人間嫌いと呼ぶ者もいるだろう。」
一樹は黙って聞いていた。
やはり、最初に感じた印象とは少し違う。
エルフは人間を憎んでいる。
そう聞いていた。
だが、実際に森へ入ってから、一樹は一度も明確な憎しみを向けられていない。
警戒されている。
距離を置かれている。
けれど、それだけだ。
「じゃあ。」
一樹は長老へ尋ねる。
「知れば、変わることもあるんですか?」
長老は一樹を見る。
「それは。」
「これから分かることだろう。」
それ以上は語らなかった。
長老が去ると、集まっていたエルフたちも少しずつ動き始める。
だが、すぐには離れなかった。
今度は若いエルフの男が一樹へ近づいてくる。
「本当に、この果実から酒を作るのか?」
「はい。」
「どうやって?」
「まず、果実を潰します。」
「潰す?」
「それから果汁を取り出して、発酵させます。」
「発酵……。」
男は聞き慣れない言葉を繰り返す。
「腐らせるのとは違うのか?」
「全然違います。」
一樹は笑う。
「そこを間違えると大変です。」
男が興味深そうに森葡萄を見る。
「それで、本当に酒になる?」
「なるはずです。」
「ずいぶん自信がないな。」
「酒造りは、やってみないと分からないことも多いので。」
「人間なのに、随分正直だな。」
男は少し笑った。
また一人、別のエルフが近づいてくる。
「その酒は、どんな味になる?」
「赤ワインみたいな感じを目指してます。」
「赤ワイン?」
「俺の故郷にあった酒です。」
「聞いたことがない。」
「じゃあ、完成したら飲んでみます?」
その瞬間、周囲のエルフたちが一斉に一樹を見る。
一樹は慌てて両手を振った。
「もちろん、無理にとは言いません。」
「飲みたい人だけで。」
若いエルフは少し考えた。
「……完成したら考える。」
「それで十分です。」
セレフィアがその様子を見ながら呟く。
「昨日とは随分違いますね。」
「そうですね。」
一樹は集まったエルフたちを見る。
「少しずつ、話せるようになってきた気がします。」
「……そうですね。」
セレフィアの声も、昨日より柔らかかった。
その日の午後。
一樹は集落の一角を借りて、森葡萄の仕込みを始めることになった。
果実を傷めないように選別し、茎や傷んだ実を取り除く。
その作業を、何人ものエルフが興味深そうに眺めていた。
「それは何をしている?」
「傷んだ果実を取り除いてます。」
「全部使えばいいのではないか?」
「少しでも傷んでいると、味に影響することがあるんです。」
「細かいな。」
「美味しい酒を作るには大事なんですよ。」
一樹が笑うと、エルフの男も小さく笑った。
昨日までなら、こんな会話は考えられなかった。
それでも、まだ誰も一樹の隣には座らない。
誰も肩を並べて笑うわけでもない。
一定の距離は保ったままだ。
だが。
その距離は、昨日よりほんの少しだけ近くなっていた。
夕方。
仕込みを終えた一樹は、木桶の中で静かに眠り始めた森葡萄の果汁を眺めていた。
「これが、どんな酒になるんでしょうね。」
セレナが隣から覗き込む。
「楽しみですね。」
「はい。」
一樹は笑う。
少し離れたところでは、何人ものエルフが木桶を気にしている。
興味はある。
けれど、まだ近づくことには躊躇している。
その姿を見ながら、一樹は思った。
無理に距離を縮める必要はない。
少しずつでいい。
酒が完成するまでの時間も。
エルフと話す時間も。
きっと、同じように少しずつ積み重なっていく。
そして一樹はまだ知らなかった。
この酒は、人間の知識だけでは決して完成しないことを…
次回に続く。




