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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第33話 森の果実

 翌朝。

 森には薄い霧が残っていた。

 朝露に濡れた葉が淡い光を反射し、木々の間を抜ける風が静かに森を揺らしている。

 一樹は宿代わりに用意された小さな木造の家を出ると、集落の中央へ向かった。

 昨夜のうちに荷物をまとめ、朝になれば森の外へ案内されることになっている。

 だが、集落を出る前に、一樹には気になっていることがあった。

 昨日から感じている、あの甘い香り。

 果実のようで、それでいてどこか花にも似ている。

 森の奥から漂ってくるその香りが、どうしても頭から離れなかった。

 集落の中央まで来ると、昨日の女性エルフが長老樹のそばに立っていた。

 一樹に気付くと、彼女は静かに振り返る。


「もう起きたのですか。」


「はい。」


「よく眠れました。」


「それは良かったですね。」


 相変わらず淡々とした口調だった。

 だが、昨日より少しだけ柔らかい。

 一樹はそんな変化に気付きながらも、口には出さなかった。


「昨日の香りなんですけど。」


「……。」


「やっぱり、この森の果実ですよね?」


 彼女はしばらく一樹を見つめた。


「どうしてそう思うのです。」


「酒好きなので。」


「理由になっていません。」


「でも、気になります。」


 彼女は小さく息を吐いた。


「あなたは、本当に酒のことになるとしつこいですね。」


「よく言われます。」


「それも褒めていません。」


「分かってます。」


 彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 一樹は今度も気付かないふりをした。


「名前を聞いてもいいですか?」


「名前?」


「はい。」


「昨日からずっと一緒にいるのに、まだ名前を知りませんから。」


 彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。

 それから、長老樹へ視線を向ける。


「……セレフィア。」


「セレフィアさん。」


「セレフィアで構いません。」


「じゃあ、セレフィアさんで。」


「なぜ『さん』を付けるのです?」


「初対面の人ですから。」


「昨日から一緒に歩いています。」


「でも、昨日会ったばかりですよ。」


 セレフィアは何か言い返そうとして、やめた。

 そして、ほんの少しだけ笑った。


「変なところで律儀ですね。」


「そうですか?」


「はい。」


 その笑顔は、昨日まで一樹が一度も見たことのないものだった。

 ほんの一瞬だったが、冷たさの奥に隠れていた彼女の素顔が見えた気がした。


「では。」


 セレフィアは森の奥へ歩き出す。


「少しだけ、付き合ってください。」


「森の外へ案内してくれるんじゃ?」


「その前に見せたいものがあります。」


 一樹はセレナを見る。

 セレナは小さく頷いた。


「行ってみましょう。」


 三人は森の奥へ歩き始めた。

 集落から離れるほど、木々は大きくなっていく。

 やがてセレフィアが足を止めた。

 そこには、低い木が群生していた。

 葉の間から、濃い紫色の果実が顔を出している。

 一樹は目を見開いた。


「これ……。」


「森葡萄です。」


 小さな実を一つ摘み、一樹へ差し出す。


「食べても?」


「毒はありません。」


 一樹は実を口へ入れた。

 噛んだ瞬間、強い甘酸っぱさが広がる。

 その後から、花のような香りが鼻へ抜けていった。


「美味しい。」


「そうでしょう。」


「これなら、酒にできます。」


 セレフィアの表情が変わった。


「酒に?」


「はい。」


 一樹は果実を見つめながら考え始める。

 甘さ。

 酸味。

 香り。

 どれもワインに近い。


「これを潰して、発酵させたら……。」


「何を考えているのです?」


「赤ワインみたいなお酒です。」


「赤ワイン?」


「俺のいた場所にある酒です。」


 一樹は果実を手に取り、少し興奮したように笑った。


「この果実なら、かなり美味しいものが作れると思います。」


 セレフィアは不思議そうに一樹を見つめた。


「この森葡萄から、酒を?」


「はい。」


「エルフは、この果実を酒には使いません。」


「え?」


「食べるだけです。」


 一樹は少し考える。


「じゃあ、試してもいいですか?」


「……あなたは、本当に酒のことしか考えていないのですね。」


「そんなことないですよ。」


「では、何を考えています?」


 一樹は少し困ったように笑った。


「……美味しい酒を飲んだ時、誰かと一緒に飲めたらいいなって。」


 セレフィアは黙った。


 その言葉の意味を考えるように、森葡萄へ視線を落とす。


「誰かと……。」


「はい。」


「エルフは、一人で飲むことが多いです。」


「知ってます。」


「寂しくはありません。」


「そうですか。」


 一樹はそれ以上、何も言わなかった。

 否定するつもりもなかった。


 セレフィアはそんな一樹を横目で見た。


「……作ってみればいいでしょう。」


「え?」


「あなたが飲みたい酒を。」


「私たちが飲むとは言っていません。」


 一樹は笑った。


「それでも十分です。」


「じゃあ、作ってみます。」


 セレフィアは頷く。


「この森葡萄なら、集落へ持っていって構いません。」


「本当ですか?」


「少量なら。」


「ありがとうございます!」


 一樹が嬉しそうに笑う。

 セレフィアはその笑顔を見つめた。


 なぜだろう。


 昨日までなら、早く森の外へ帰ってほしいと思っていた。


 なのに今は。


 この人間が作るという酒が、少しだけ気になっている。


 セレフィアは自分でも気付かないほど小さく笑った。


「……楽しみにしています。」


「え?」


「何でもありません。」


 森の奥で、朝の光が二人を照らしていた。


 一樹はまだ知らない。


 この森葡萄から生まれる酒が、エルフの酒造りそのものを変えることになるとは。


 そして。


 この日交わした短い会話が、いつか訪れる別れの時に、二人の胸へ静かに残ることになるとも。


 次回に続く。

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