第32話 閉ざされた心
エルフの女性に先導され、一樹とセレナは森の中を歩いていた。周囲には相変わらず、何人ものエルフが姿を隠している。木の上や茂みの奥から向けられていた視線も、少しずつ遠ざかっているようだった。それでも、完全に警戒を解いたわけではない。
一樹はそれを感じ取っていた。隣を歩く女性も、必要以上に口を開こうとはしない。銀色の髪が風に揺れるたび、木漏れ日が淡く輝く。
一樹は何度か話しかけようとしたが、そのたびにやめた。無理に距離を縮める必要はない。今は、彼女たちがどんな種族なのかを知る方が先だった。
しばらく歩くと、前方の景色が少しずつ変わってきた。木々の間に、細い道が見える。自然にできた獣道ではない。人の手によって整えられた道だった。
さらに進むと、木々の間から小さな建物が姿を現す。木造の家。その周囲には畑があり、薬草や野菜が整然と育てられている。そして、その先にはいくつもの家が続いていた。
一樹は思わず足を止めた。
「ここが……エルフの集落。」
セレナも目を見開く。
「森の中に、こんな場所が……。」
女性は振り返る。
「驚く必要はありません。」
「私たちにも、暮らしがあります。」
「そうですよね。」
一樹は頷いた。
「すみません。」
「少し珍しくて。」
「人間にとっては珍しいでしょうね。」
言葉は冷たい。だが、先ほどよりもわずかに棘が減っている気がした。
集落へ入ると、エルフたちの視線が一斉に集まった。子どもが母親の後ろへ隠れる。老人たちは何も言わず、一樹たちを見つめている。
誰も近づいてこない。
まるで、人間という存在そのものを珍しいものとして観察しているようだった。
そんな中、一人の幼いエルフが母親の手を離れ、一樹をじっと見つめていた。
一樹が笑顔を向ける。
「こんにちは。」
幼いエルフは驚いたように目を見開き、すぐに母親の後ろへ隠れた。
一樹は苦笑する。
「嫌われちゃいましたね。」
隣の女性が淡々と答えた。
「嫌われたわけではありません。」
「怖いのです。」
「怖い?」
「人間を見る機会がないからです。」
女性はそれだけ言って歩き続ける。
一樹はその言葉を聞き、少し考えた。
嫌いだから近づかない。
そう思っていた。
だが、今の言葉は少し違う。
知らないから怖い。
それなら、話は変わってくる。
集落の中央には、大きな樹が立っていた。周囲の建物よりも遥かに高く、太い幹には何百年もの時間が刻まれているように見える。
一樹はその木を見上げた。
「この木は?」
「森の長老樹です。」
「長老樹?」
「この森を見守る樹です。」
女性は立ち止まった。
「私たちは、この森と共に生きています。」
「だから、森を傷つけることはしません。」
「酒を造るために木を切ったりもしません。」
一樹は頷いた。
「なるほど。」
その時、集落の奥から別のエルフが歩いてきた。
白い髪を長く伸ばした老人だった。手には杖を持ち、ゆっくりと一樹たちの前までやってくる。
「その者たちが、人間か。」
「はい。」
女性が答える。
「森へ侵入していました。」
「ですが、敵意はありません。」
老人は一樹をじっと見つめた。
「人間がこの森へ来ること自体、珍しい。」
「何をしに来た。」
一樹は素直に答える。
「旅の途中です。」
「それと、お酒を飲むのが好きなので。」
老人の眉がわずかに動く。
「酒……。」
「はい。」
「人間は、酒を飲むために森へ入るのか。」
「いや、それが目的ではないです。」
一樹は苦笑する。
「ただ、旅先でしか飲めないお酒もありますから。」
老人はしばらく黙っていた。
「酒が好きなのか。」
「好きです。」
「なぜ。」
一樹は少し考える。
「美味しいから、というのもあります。」
「でも、それだけじゃないです。」
「酒を飲むと、普段なら話さないことを話してくれる人がいます。」
「普段なら言えないことを、言える人もいます。」
一樹は集落を見渡した。
「俺は、そういう時間が好きなんです。」
老人は一樹の言葉を聞き、静かに目を細めた。
「我々には、必要のないものだ。」
「そうなんですか?」
「エルフは、酒がなくとも言葉を交わせる。」
一樹は少し笑う。
「それなら、いいことですね。」
老人の表情がわずかに緩んだ。
だが、すぐに元へ戻る。
「しかし。」
「我々は、人間とは酒を酌み交わさない。」
その言葉には、長い年月をかけて固められた決意があった。
一樹は無理に反論しなかった。
「分かりました。」
「それなら、無理に飲んでもらおうとは思いません。」
老人が少し意外そうな顔をする。
「随分と簡単に引くのだな。」
「嫌がっている人に無理に勧めても、美味しくないですから。」
その答えに、隣にいた女性が一樹を見る。
ほんの一瞬だったが、その瞳に小さな変化があった。
老人は杖を地面へ置き、静かに息を吐く。
「……変わった人間だ。」
「よく言われます。」
一樹が笑うと、女性が小さく呟いた。
「それは褒め言葉ではありません。」
「分かってます。」
昨日と同じやり取りだった。
その瞬間、女性の口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
ほんの一瞬。
一樹は気付いたが、あえて何も言わなかった。
今、気付いたことを指摘すれば、その小さな変化まで消えてしまいそうな気がしたからだ。
老人は一樹たちを見つめたあと、静かに告げる。
「今夜は、ここで休め。」
「え?」
「森の外へ出るには、もう遅い。」
「夜の森を人間だけで歩かせるほど、我々も無責任ではない。」
一樹は驚いた。
歓迎されているわけではない。
それでも、完全に拒絶されたわけでもない。
「ありがとうございます。」
老人は背を向ける。
「明日の朝、森の外まで案内する。」
そう言い残し、集落の奥へ戻っていった。
一樹はその背中を見送り、隣の女性へ視線を向ける。
「泊めてもらえることになりましたね。」
「一時的なことです。」
「分かってます。」
「明日の朝には森を出てもらいます。」
「はい。」
一樹は素直に頷いた。
けれど、その時だった。
どこからともなく、先ほどの甘い香りが再び漂ってきた。
一樹が振り返る。
香りは集落の奥から流れてきている。
女性も気付いたのか、僅かに表情を変えた。
「……またですね。」
「何がです?」
「いえ。」
女性は答えなかった。
ただ、森の奥を見つめている。
そこには、エルフだけが知る酒の秘密が隠されていた。
そして一樹はまだ、その酒が自分の知る酒造りと、エルフたちの魔力を結びつけることになるとは知らなかった。
次回に続く。




