第31話 迷いの森
森へ入ってから、どれくらい歩いただろう。
一樹は何度目かになる周囲の景色を見回した。
高く伸びた木々が空を覆い、昼間だというのに森の中は薄暗い。木漏れ日が細い筋となって地面へ落ちているが、その光さえもどこか青白く見えた。足元には見たことのない草花が咲き、少し先には淡い光を放つ小さな花まである。
「綺麗ですね。」
セレナが小さく呟く。
「うん。」
一樹も頷いた。
これまで旅をしてきた中でも、ここまで静かな森は初めてだった。鳥の声は聞こえる。風も吹いている。なのに、不思議なほど人の気配がない。森そのものが、二人以外の存在を拒んでいるようだった。
「エルフの森って、こんな感じなんでしょうか。」
「私も初めてです。」
「セレナも?」
「はい。エルフは他種族との交流をほとんどしないと聞いていますから。」
一樹は前方へ視線を戻した。ここへ来るまでにも、何度か道を間違えそうになった。普通の森なら、獣道や木こりが使った跡などが見つかる。しかし、この森にはそういった痕跡がほとんどない。人間が歩くための道が、最初から存在していないのだ。
「本当にエルフだけで暮らしてるんですね。」
「だからこそ、人間がここまで入ってくること自体が珍しいのでしょう。」
その瞬間だった。
一樹の足が止まる。
セレナも同時に立ち止まった。
風が止んだ。
さっきまで聞こえていた鳥の声まで、ぴたりと消える。
一樹はゆっくりと周囲を見回した。
「……セレナ。」
「はい。」
「囲まれてます。」
セレナの手が剣へ伸びる。
だが、一樹はそれを制した。
「まだ抜かないで。」
気配は木の上。茂みの向こう。そして背後にもいる。
少なくとも十人。いや、それ以上かもしれない。
次の瞬間、木々の間から何本もの矢が姿を現した。鏃は一樹たちへ向けられている。
「動くな。」
凛とした声が森に響いた。
木の陰から、一人のエルフが姿を現す。
長い銀色の髪。透き通るような肌。緑を基調とした衣服に身を包み、手には美しい弓を握っている。人間とは明らかに違う、長く尖った耳。
一樹は思わず見入ってしまった。
だが、エルフの女性は一樹へ向けた視線を一切緩めなかった。
「ここから先は、エルフの領域です。」
「人間が立ち入っていい場所ではありません。」
一樹は両手をゆっくり上げる。
「敵意はありません。」
「勝手に入ったことは謝ります。」
「ですが、少し話をさせてもらえませんか?」
女性の眉がわずかに動く。
「話?」
「人間と話す必要などありません。」
迷いのない言葉だった。
セレナが少し身構える。
しかし一樹は慌てなかった。
「そうですか。」
あっさり答えると、女性が逆に戸惑ったような顔をする。
「……何です?」
「いや。」
一樹は森を見回した。
「こんなに綺麗な森だったから。」
「一言、伝えたかっただけです。」
「何を?」
一樹は笑った。
「すごく綺麗ですね。この森。」
女性の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
だが、すぐに元へ戻る。
「……それだけですか。」
「はい。」
「ならば、帰ってください。」
「ここから先へ進むことは許しません。」
一樹は少し困ったように頭を掻いた。
「分かりました。」
その素直な返事に、女性が少しだけ目を細める。
「本当に帰るのですか?」
「追い返されてるのに、居座る理由もないですから。」
一樹が踵を返そうとした、その時だった。
森の奥から、ふわりと甘い香りが流れてきた。
一樹の足が止まる。
「……ん?」
果実のような甘い香り。
それも、一つではない。
葡萄に似た香り。けれど、もっと濃く、深い。
一樹は無意識に森の奥へ視線を向けた。
女性が気付く。
「何を見ているのです。」
「いや……。」
一樹は鼻を軽く動かした。
「今、すごくいい香りがしませんでした?」
「……。」
女性の表情がわずかに硬くなる。
「気のせいです。」
「そうですか?」
「ええ。」
「でも、果物みたいな……。」
「気のせいです。」
今度は明らかに強い口調だった。
一樹は女性の反応を見て、逆に興味を持った。
何かある。
それだけは分かった。
女性は弓を下ろさないまま、一樹を見つめる。
「最後に一つだけ聞きます。」
「何でしょう。」
「あなたは、なぜこの森へ来たのですか。」
一樹は少し考えた。
観光でもない。宝探しでもない。もちろん、エルフと揉めるためでもない。
「旅の途中です。」
「いろんな場所へ行って。」
「いろんな人と会って。」
「いろんな酒を飲んでます。」
女性の眉がぴくりと動いた。
「酒……。」
「はい。」
「あなたは酒を求めて森へ来たのですか?」
「それもありますけど。」
一樹は笑った。
「一番は、人に会うためです。」
女性は黙り込んだ。
森の中に、再び風が吹き始める。
木々が揺れ、葉の隙間から淡い光が差し込む。
しばらくして、女性は弓を少しだけ下ろした。
「……変な人間ですね。」
「よく言われます。」
「褒めてはいません。」
「分かってます。」
女性は小さく息を吐いた。
そして、森の奥へ視線を向ける。
「森の外まで案内します。」
「あなたたちをここへ入れることはできません。」
「でも。」
女性は一樹を見る。
「森の中で迷わせるほど、エルフは無慈悲ではありません。」
一樹は笑って頷いた。
「ありがとうございます。」
こうして一樹たちは、エルフの森の奥へ進むことになった。
ただし、それは歓迎されたからではない。森の外へ送り返すためだった。
一樹はまだ知らなかった。
この女性との出会いが、エルフの森に眠っていた一つの酒と、長い間閉ざされていた心を動かすことになることを。
次回に続く。




